• 建設資材を探す
  • 電子カタログを探す
ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その14 アントニン・レーモンドの打放しコンクリート 「霊南坂の家」から「群馬音楽センター」へ

 

日本大学 理工学部 建築学科 教授
田所 辰之助

 

ごてごてしたもの

チェコ出身の建築家アントニン・レーモンドは1919(大正8)年の大晦日,フランク・ロイド・ライトとともに来日した。ライトの設計事務所スタッフとして,帝国ホテル建設の現場監理を行うためだった。ライト離日後も日本に残り,日本で自らの事務所を主宰し,戦時中は一時アメリカへ戻るが戦前・戦後を通じて数多くの作品を日本に残した。日本の伝統的建築から多くを学び,軽井沢の夏の家など丸太を多用した木造建築などでよく知られている。
 
一方で,レーモンドはコンクリートを用いた設計に戦前の早い時期より取り組み,仕上げを打放しとする実験的な作品にも秀作が多い。木造建築と打放しコンクリート,まったく異なる材料,そして構法で,それぞれの作品のデザインや規模ももちろん異なり,一見すると互いのなかに共通するものがあるようにもみえない。ひとりの建築家のなかで,この二つの素材はいったいどのように扱われていたのだろうか。今回は,レーモンドの作品のなかでも打放しコンクリートの系列を取り上げ,その造形に隠されたこの建築家独自の考えを探っていきたい。そこにはわれわれも忘れがちな,日本の建築に累々と受け継がれてきた建築の作法のようなものが,レーモンドが外国人であるがゆえに,より一層明確に意識されているように感じられるからだ。
 
まずは,レーモンドの『自伝』のなかに記されている,次の文章に眼を向けてみたい。
 
「不幸にもル・コルビュジエの後期の作品,教会(ロンシャン)とか,インドのチャンディガールの作品とか,マルセイユ(ユニテ・ダビタシオン)の仕事でさえ,日本の建築家たちに驚くほどの悪い影響を及ぼした。…(中略)…日本の建築家はそれにヒントを得て,その方向に表現を誇張した。私はこの人びとの努力の,ある結果を『ごてごてしたもの』とよぶ。その超ブルータリズムはアメリカにいくつか例があるとしても,ヨーロッパにはその例をみないものである」
 
レーモンドはコルビュジエからも多くの影響を受けたが,とくにその後期の作品,荒々しい打放しコンクリートが特徴的なブルータリズム(ブルータル(brutal)=獣のような,野蛮な)と呼ばれるデザインに対しては懐疑的だった。レーモンドの眼には,この種の造形が「ごてごてしたもの」と映り,この傾向に追随,助長させている日本の建築家たちに警鐘を鳴らしつづけた。レーモンドはさらに,それが「重厚で,複雑な,冗長なもの」であって,「コルビュジエの記念碑的創造が有害な方向に,若い人たちの作品に影響するのを許してはならない」とも記している。
 
では,レーモンドが目指した打放しコンクリートのデザイン,この「ごてごてしたもの」の対極にある建築の姿とはいったいどのようなものだったのだろう。年代を追いながら,レーモンドの代表的作品を見ていくことにしたい。
 
 

呼吸する衣裳

レーモンドが打放しコンクリートを本格的に用いはじめたのは,東京・赤坂の自邸の設計においてだった(図- 1)。
 

【図-1 霊南坂の家(1924-26年)(出典:川喜田煉七郎編『レイモンドの家』1931年 洪洋社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
霊南坂の家として知られるこの自邸(1924-26年)は,レーモンドが師ライトのデザインの影響から脱し,ヨーロッパで進められていたモダニズムの造形に近づいていく転機となった作品として知られる。打放しコンクリートによる壁面が立体的に組み合わされ,随所に設けられた開口部を介して内部諸室が中庭やテラスなどの外部空間と結び合う。デ・ステイルほかヨーロッパの最新のデザイン運動を思い起こさせる造形を見せながら,同時に内外空間を緊密に連結させ,空間相互の流動性が高められている(図- 2)。
 

【図-2 霊南坂の家:模型写真(出典:川喜田煉七郎編『レ イモンドの家』1931年 洪洋社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
当時,駐日フランス大使として滞日していた劇作家で詩人のポール・クローデル(彫刻家カミーユ・クローデルの実弟)はレーモンドと親交があり,この自邸の建築について「アントニン・レイモンドの家」(山内義雄訳)と題した一文を寄せている(『レイモンドの家』)。そのなかでクローデルはまず,祖国の住まいを思い起こし,「巴里におけるわれらの室は,四方を壁にかこまれ,…一種の穴のよう」と言う。「われらの国の方形な窓」は,あたかも「空気と光を追いのけようとしている」ようだ。一方,日本の家は,「時,季節,太陽などのもつその日その日の現実性を目的」としてつくられている。レーモンドの自邸も同様に,「家をして一個の箱たらしめる代りに,これを以て一の衣裳,生きるため,呼吸するための要具」として考えられていて,そこには「外界の生活と家の中なる生活との微妙な交感」が生み出されていると述べる。コンクリートでできていながら,閉じた箱が解き放たれ内外空間が生き生きとつながりはじめるさまを,クローデルは「呼吸する衣裳」として言い表わしたのである(図- 3)。
 

【図-3 霊南坂の家:中庭(出典:川喜田煉七郎編『レイモン ドの家』1931年 洪洋社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この自邸のなかで,とくに1階の居間の開口部は大きくとられ,隅部も開放されて中庭に広く面しているのがわかる(図- 4)。
 

【図-4 霊南坂の家:居間(出典:川喜田煉七郎編『レイモン ドの家』1931年 洪洋社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この建物は中庭を囲んでコの字形をなすが,居間のウィングを鉄筋コンクリート造による柱梁で架構することでこの開口部が生まれた(図- 5)。
 

【図-5 霊南坂の家:1階(左)および2階(右)平面図(出典:川喜田煉七郎編『レイモンドの家』1931年 洪洋社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レーモンドはそれを,「唯一の装飾は構造そのもの,柱も梁も露出,現代建築の哲学でいえば,終局にあらわれるものが至るところにあった」と回想している(『自伝』)。また,先述したブルータリズム批判のところでレーモンドは,「初期のコルビュジエの仕事は,ほとんどが鉄筋コンクリートの開発であり,それにつづくものであった。そして彼は,柱や梁の表現は鉄筋コンクリートに限ると信じていた」とも記している。コルビュジエはのちに近代建築の5原則を発表し,鉄筋コンクリート造の柱梁架構にもとづく,自由度の高められた平面を高らかに宣言することになる。レーモンドもまたこの新たな架構技術を果敢に応用することで,クローデルがいみじくも指摘した日本の家の,「呼吸する衣裳」としての建築を実現しようとしたのである。
 
 

インドでの実践

このような「呼吸する衣裳」として建築をとらえていく姿勢は,レーモンドの打放しコンクリートを用いた作品に一貫しているように感じられる。レーモンドは1937(昭和12)年の暮れ,戦時体制を強めつつあった日本を離れ,上海,サイゴン,プノンペン,そしてバンコックなどを経由してインドへ渡った。インド南東部の仏領ポンディシェリで,ヒンズー教僧院の宿舎を設計するためだった。
 
高温多湿の風土のなか,機械換気が期待できない状況下において良好な居住環境をいかにしてつくりあげるか。地下1階地上3階,各階に17室を直線状に配し,全長が200mにもおよぼうとする規模の宿舎を,レーモンドはすべて鉄筋コンクリート造で建設することを決意する。壁面は南北両面とも全面にわたり石綿板の可動式水平ルーバーを設けて通風を確保しながら,太陽光だけでなくこの地域特有の強風と雨季の豪雨を遮蔽する(図- 6,7)。
 

【図-6 ポンディシェリの僧院宿舎(1935-42年)(出典:『建 築』1961年10月号 青銅社)】

 

【図-7 ポンディシェリの僧院宿舎:配置図および1階平面 図(出典:『建築』1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
また,屋根は二重構造となっていて,通常の屋根スラブの上にプレキャスト・コンクリートによる4 × 6ftのヴォールト状屋根が載せられている(図- 8)。
 

【図-8 ポンディシェリの僧院宿舎:PCコンクリートによ る屋根詳細(出典:『建築』1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
強い日差しを防ぎながら,屋根スラブとの狭間の空間をさらに遮熱のために役立てようとしたのである。さらに,各室の南面に配された廊下は,たんなる通路としてだけでなく,過酷な外部との間の中間領域としての役割をもつ(図- 9)。
 

【図-9  ポンディシェリの僧院宿舎:断面図(出典:『建築』 1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
厳しい自然環境のなかで,コンクリートによる環境制御がいかに可能か,という課題に取り組んだ建築で,のちのレーモンドの作品の展開を予見させる。とくに打放しコンクリートとルーバーの表現については,紐ニューヨーク育ナショナルシティバンク名古屋支店(1952年)や安川モートル新社屋(1954年)などのオフィス建築,また国際基督教大学図書館(1961年)や南山大学各施設(1964年)などの大学関連施設の設計に応用されていくことになる。
 
この宿舎は,インドの反英独立運動の活動家で,のちに宗教家に転じインド哲学,神秘思想の著作で知られるオーロビンド・ゴーシュが指導する僧院のためのものだった。この僧院の門人たちの人力で建設され,建設プロセスそのものがオーロビンド・ゴーシュの教えに沿うものだったという。かれらによる打放しコンクリートの施工は「それまでにできたどの建築にもまさる立派な」仕上がりだったと,レーモンドはのちに振り返って語っている(「私は何故打放しをやるか」『建築文化』第16巻173 号,1961 年3 月)。建設工費を抑えるために限界まで薄くしたコンクリート断面が,「比類のない優雅さと軽快さ」を生み出したと,かれらの尽力を讃えるのである。
 
 

「生活芸術」への眼差し

さて,戦後になって日本へ戻ったレーモンドの新たな出発点となった作品が,リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1948-51年)だった。地下1階地上2階のオフィス建築で,50mにおよぶファサードは全面ガラスのカーテンウォールで開放されている(図- 10)。
 

【図-10 リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1948-51年) (出典:『建築』1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鉄筋コンクリート造の主柱を中央に配置し,この柱から建物両面に張り出した梁を鋼管柱が支えるという特殊な構造により,こうした開放的な空間が実現された(図- 11)。
 

【図-11 リーダーズ・ダイジェスト東京支社:断面図(出 典:『建築雑誌』66巻780号,1951年9月 日本建築学会)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
だがこの構造形式は,日本の構造家たちからの厳しい批判にさらされ,その経緯はのちにリーダイ論争として知られるようになる。
 
建築学会の機関誌『建築雑誌』1951年11月号が発端だった。構造家の坪井善勝と竹山謙三郎が,「一本足で立ったバレリーナ」「竹馬にのった少年」(竹山)とたとえた,ヤジロベエのような片持ち梁構造の妥当性に異が唱えられたのである。また,日本ではそれまで当然のように考えられてきた耐震壁が極端に少なく,固有周期が長くなることから地震が起こった際の揺れの問題なども懸念された。これに対し,ニューヨークのレーモンド事務所で構造設計を担当したポール・ワイドリンガーは「竹山謙三郎,坪井善勝両氏の論文に答えて」(『建築雑誌』67巻783 号,1952 年2 月)として両氏の批判に反はん駁ばくする。主柱と一体化され両側に伸びる梁は片持ち梁ではなく,両端の鋼管柱が応力を分担していること。また,耐震壁の問題にしても,中央コア部の壁面にせん断力に対する強度が十分与えられているとあらためて強調するのである。これを受けて坪井,竹山は再度文章を起こしているが(同誌67巻786 号,1952年5月),そもそも正確な情報が伝わっていなかったこと,また戦前からの日本の耐震構造理論の保守性などについて,この論争をめぐっては指摘されている。
 
このような反応を建築界に巻き起こすほどに,この建物の構造は当時の日本にあっては先鋭的で,結果として多くの建築家たちの耳目を集めることになった。では,レーモンドはなぜ,このような特殊な構造をあえて構想,計画する必要があったのだろうか。
 
「開放的かつ伸縮性あるフロア・プランを要求された」(「リーダーズ・ダイジェスト支社々屋に就て」『建築雑誌』67巻787号,1952 年6 月)とレーモンドが述べているように,事務諸室を壁で仕切ることなく,さまざまな使用形態に対応できる平面計画への対応が条件としてまず課されていた。自由度のある,フリープランとしての空間の開放性が求められたのである。加えて,基本モデュールに3尺×6尺の単位を用い,「人間的で実に民主的な日本建築の尺度」(『自伝』)とレーモンドが語るスケールが平面に導入されているのも特徴のひとつである(図- 12)。
 

【図-12 リーダーズ・ダイジェスト東京支社:1階平面図 (出典:『建築』1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
だが,それだけでもないように思われる。この建物の敷地は,現在はパレスサイドビルディング(毎日新聞東京本社)が建つ竹橋の一角,外濠越しに皇居の平川門や石垣,広大な緑を望める場所にある。建物の高さは,対面する緑の連なりを分断しないよう2層におさえられ,ファサードを全面ガラスのカーテンウォールにすることで,眼前の石垣や樹木を一望できる開放性が得られる。そして,梁端の柱を鋼管とすることで,視野がさらに広がった。
 
また,庭園のデザインが彫刻家イサム・ノグチに依頼されている。築山や池,オブジェなどを配することで,皇居の濠や緑との連続性がつくりだされた(図- 13)。
 

【図-13 リーダーズ・ダイジェスト東京支社:前庭を望む (出典:『建築文化』58号,1951年9月 彰国社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
レーモンドはのちに「日本人の正しい方位感」「自然への親近感」を尊重し,「ハンサムな橋や,皇居への通用門などと張り合うのをさけようとした」と回顧している(『自伝』)。建築を外部空間とのつながりの中で構想し,周辺の環境へ結びつけていこうとする意識は,戦前の自邸から変わっていないことが了解されるのである(図- 14)。
 

【図-14 リーダーズ・ダイジェスト東京支社:透視図(出典:『新建築』25巻7号,1950年7月 新建築社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
この作品は結局,1951年度の第3 回日本建築学会賞を受賞することになる。その際にレーモンドが,「建物の美を追求するのに建築士の趣味の記念物としてではなく,『生活芸術』としてこれを追求した」と語っているのが興味深い(「リーダーズ・ダイジェスト支社々屋に就て」)。ヒューマン・スケールで統一された自由度の高い平面と,外部の自然環境と結びついた空間の開放性。日本の伝統的建築にみられる空間の特質を「生活芸術」ととらえ,それをオフィスというビルディングタイプへ応用してみせたところに,このリーダーズ・ダイジェスト東京支社の大きな意味合いがあるように感じられる。
 
また,同じ文章のなかでレーモンドは,「材料をその有する特質に応じそれを愛しつつ取り扱った」とも吐露している。打放しコンクリート,その肌目へのレーモンドの美意識をこうしたところからも読み取ることができるのである。
 
 

私は何故打放しをやるか

打放しコンクリートに対するレーモンドの追求は,つづいて新たな局面を迎えることになる。1956(昭和31)年に竣工した二つの教会,東京・椎名町の聖パトリック教会と同・目黒の聖アンセルモ教会(図- 15)では,鉄筋コンクリートの折板構造が導入され設計,建設された。
 

【図-15 聖アンセルモ教会(1952-56年):礼拝堂内観(撮影:田所)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とくに後者は,折板構造の壁面が屋根にも回りこんで門形架構をなし,立体的な展開が図られている。45度の角度でジグザグ形に折り込まれた厚さ18cmの壁面に対し,その中央に直線状の壁を挿入することで中空三角形の切断面をもつ柱状部がつくられる。この三角形断面の中空柱が屋根梁としても用いられ,壁面と屋根を一体化しているのである。鋼板を型枠に用いた打放しコンクリートの仕上げは滑らかで美しく,ジグザグ形の壁に穿うがたれたスリット窓から陽光が注ぎ込んで,その表面を照らし出す。堂内の空間を光と闇に分けて,祈りの場にふさわしい荘厳な雰囲気が生み出されている。
 
また,こうした折板構造が音楽ホールの設計へ応用されたのが,群馬・高崎の群馬音楽センター(1955-61年)である(図- 16)。
 

【図-16 群馬音楽センター(1955-61年)(撮影:田所)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正面ファサードは大きなガラス面で開放され,ホワイエの壁面に描かれたレーモンド自身のデザインによる色鮮やかな壁画が望める(図- 17)。
 

【図-17 群馬音楽センター:2階ホワイエ(撮影:田所)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このファサードはスパン60m近くにおよぶが,それを可能にしたのが折板をアーチとして用いる構造だった。平面形は舞台から扇形状に広がり,その全体が,幅4.12m,厚さが25cm(基部),屋根部分ではわずか12cmの薄さにおさえられた壁体による折板アーチ構造で架構されている(図- 18)。
 

【図-18 群馬音楽センター:折板屋根の型枠工事(出典: 『建築』1961年10月号 青銅社)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この折板壁はホール内部にもその鋭角なかたちを現している。当初は音楽専用ホールとして考えられていたが,設計の途上で,歌舞伎を含む演劇の上演や映画上映など多目的ホールとしての性能が要求されることになった。そのため,舞台と客席を分断してしまうプロセニアム・アーチを避け,折板アーチで全体を覆うことによって,内部に強い一体感のある空間をつくりだすことが目指されたのである(図- 19)。
 

【図-19 群馬音楽センター:ホール内観(撮影:田所)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
折板の入隅部には反射板が装着されるが,その奥にできる三角形の空間は空調や照明のためのスペースとして活用できる。折板アーチをたんに構造的要素としてだけ用いるのではなく,音楽ホールあるいは劇場としての空間のありかたが模索されるなかで,その造形的特徴を最大限に活かすすべが同時に検討されていたことがわかる。建設費も一般の寄付に多くをよっているという厳しい条件下で,コストダウンを図るために使用するコンクリートの量をいかに減らしていくかが大きな課題となっていた。このようなさまざまな与件を解決すべく,折板アーチのもつ各特長が応用されていったのである。
 
レーモンド自身,「私は何故打放しをやるか」と題した文章のなかで次のように語っている。「コンクリート打放し仕上げを採用する理由は,それが実用的であり同時に美しいからである。…(中略)鉄筋の被覆を極度に薄くすることによって単位コンクリート量当りより軽快な,従ってより経済的な構造が得られる。より軽量なら地震によるモーメントも小さくなるし,そこでまた基礎も小さくてすむ等々の利益がある」(『建築文化』16 巻3 号,1961年3 月)。この考えは, 群馬音楽センターにもそのまま当てはめることができるだろう。素材としての美しさを引き出しつつ,軽快な架構と合わせ経済性をも実現し得る構造として,鉄筋コンクリートとその打放し仕上げの可能性が追求されていったのである。
 
 

形のためにできたものではない

ところで,群馬音楽センターを正面から脇に回ると折板壁が連続しているさまが眼前に迫り,あたかもトーチカのようにも見える。音楽ホールにしては,打放しコンクリートの造形性があまりに強く醸しだされ過ぎてはいないか。当時はこれを,弾薬庫や防空壕のようだと批判する人もいたらしい。鉄筋コンクリート造によるレーモンドの作品は1960年代になると,たとえば立教学院聖パウロ礼拝堂(1961-63年)(図- 20,21),名古屋の神言神学院(1962-66年)(図- 22,23)などではシェル構造も試みられ,造形的なバリエーション,豊かさが増してくる。これらはいずれも教会建築だが,その教えに則り,礼拝堂内部を光の空間として形づくるための構造的試みがなされたのである。
 

【図-20 立教学院聖パウロ礼拝堂(1961-63年)(撮影:田所)】

 

【図-21 立教学院聖パウロ礼拝堂:礼拝堂内観(撮影:田所)】

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【図-22 神言神学院(1962-66年)(撮影:田所)】

 

【図-23 神言神学院:礼拝堂祭壇(撮影:田所)】


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここで,冒頭に掲げた問いに戻ってみることにしたい。レーモンドが「ごてごてしたもの」と呼んだもの,コルビュジエのブルータリズムに範を得た日本の建築家たちの打放しコンクリートの表現と,レーモンドのそれとは,一体どこが違うのだろうか。
 
レーモンドはそれがコンクリートの可塑性に対する考え方にあると述べている。「…(コルビュジエは)教会の仕事の頃から…,鉄筋コンクリートを塑性材と考え,彫刻的効果に合わせていった。これは新しい概念であり,彼の後期の作品には十分に表現されている」(括弧内筆者)(『自伝』)。コンクリートを「塑性材」として扱い,あたかも彫刻を手で練り上げていくように,建築を建築家個人の造形の対象とすることをレーモンドは嫌った。レーモンドの打放しコンクリートが,その素材の美を愛でつつもたんに造形的効果のみをねらったものではなく,建物の目的や機能,周辺の自然環境と密接な関わりをもって構想されていることは,これまで見てきたとおりである。かつてレーモンド事務所のスタッフでもあった吉村順三は,群馬音楽センターの建物を見てそれを「誠実な建築」と呼び,「折板が経済的であり,音響上効果的であるというファンクションからでてきた構造であって,折板という形のためにできたものではない」と評したが,この「形のためにできたものではない」という言葉には「ごてごてしたもの」の対極にある建築のありようが示されているように思える(「誠実な建築」『新建築』36巻10号,1961 年10 月)。
 
群馬音楽センターの設計を担当した五代信作は,次のようなレーモンド事務所のエピソードを紹介している。「日本語の達者なレーモンドが,毎日仕事上で話す簡単な英語で,私どもが記憶している言葉なのですが,建築はsimple, natural,economical, direct, そしてhonestでなければならないということです。…問題にぶつかった時でも,レーモンドはこれらの原則のいくつかを挙げて即座に明確な回答を与えてくれます」。この五つのポイント,単純性(simple),自然性(natural),経済性(economical),直裁性(direct),誠実性(honest)は「レーモンドの5原則」として知られるようになるもので,設計に対するレーモンドの原理的態度をよく表わしている。それらはやはり,日本の伝統的建築からインスピレーションを得た教えでもあって,この原理が集約的に投影されていくのがまさにレーモンドの構造に対する取り組みだった。
 
レーモンドはよく,私淑するオーギュスト・ペレの次の言葉を引用する。
 
「構造は建築家の母語である。建築家は構造を通して考え,自分を表現する詩人である」(『自伝』)。
 
構造は造形のための手段としてあるのではけっしてなく,あくまでも「構造を通して」建築の原理が発見されていかなければならない。日本の近代建築から当時,しだいに失われようとしていたこうした建築の理解のありかたに対し,レーモンドはあらためて注意を促そうとしていたように思える。「ごてごてしたもの」とは,新しい形態の創出が目的化されていこうとする当時の建築界の状況を批判したものでもあって,それはレーモンドにおける原理の追求,その発見のプロセスとは相容れないものだったのである。
 
 


 
参考文献:
 
● 川喜田煉七郎編『レイモンドの家』洪洋社,1931年
●「 アントニン・レーモンド作品集」『建築』1961年10月号,青銅社
● A・レーモンド『私と日本建築』鹿島出版会,SD選書17,1967 年
● 栗田勇監修『現代日本建築家全集1 アントニン・レーモンド』三一書房,1971 年
● 藤森照信『日本の近代建築(下)ー大正・昭和篇』岩波書店,1993 年
● 三沢浩『アントニン・レーモンドの建築』鹿島出版会,1998 年
● 三沢浩『A・レーモンドの住宅物語』建築資料研究社,1999 年
●「 ANTONIN RAYMOND」『JA』33巻,1999年春号,新建築社
● Kurt G.F.Helfrich, William Whitaker, Crafting a Modern World, the Architecture and Design of Antonin and
Noemi Raymond, Princeton Architectural Press, New York, 2006
● アントニン・レーモンド,三沢浩訳『自伝 アントニン・レーモンド[新装版]』鹿島出版会,2007 年
● 神奈川県立近代美術館,大田泰人,三本松倫代『建築と暮らしの手作りモダン アントニン&ノエミ・レーモンド』
Echelle - 1,美術館連絡協議会,2007 年
 
 

田所 辰之助(たどころ しんのすけ)

1962年東京都生まれ。日本大学理工学部建築学科教授。博士(工学)。一級建築士。専門はドイツ近代建築史。日本大学理工学部建築学科卒業。同大学院博士課程単位取得退学。主な共著書に『材料・生産の近代』(東京大学出版会),『近代工芸運動とデザイン史』(思文閣出版),『クッションから都市計画まで ヘルマン・ムテジウスとドイツ工作連盟』(京都国立近代美術館),『マトリクスで読む20世紀の空間デザイン』(彰国社),『ビフォーザ バウハウス』(共訳,三元社)など。
 
 
 
【出典】


建築施工単価2016冬号

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

最終更新日:2019-12-18

 

同じカテゴリの新着記事

ピックアップ電子カタログ

最新の記事5件

カテゴリ一覧

話題の新商品