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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第41回 鎌倉の謎(その2)ー盲腸の都ー

 

辺鄙な鎌倉

2016年7月,「子ども大学かまくら」に講師で呼ばれた。朝早く,横須賀線に乗り鎌倉に向った。
 
私は鎌倉の近くの横須賀で中学校,高校を過ごした。大学以降は三浦半島から離れ,全国各地を巡る人生を送ってきた。三浦半島から離れてみて,改めて鎌倉の不思議さに気がついた。なにしろ鎌倉は狭い。そして鎌倉は辺鄙(へんぴ)なところにある。
 
なぜ,頼朝はこのような不都合な土地に幕府を構えたのか?
 
狭い鉄壁の防御都市である鎌倉に籠った理由は,無尽蔵に流入してくる流人を防ぐためであった,と前号で述べた。
 
頼朝が鎌倉に構えたことには,もう一つ謎がある。なぜ,このような辺鄙な鎌倉に構えたのか?である。
 
この鎌倉は,日本列島の大動脈から見ると,盲腸のような辺鄙なところにある。鎌倉は,権力者が構えるにはあまりにも不思議な地理に位置していた。
 
 

辺境の地理・鎌倉

歴史の中で,最高権力者が鉄壁な城を建造して,守りを固め,城に閉じこもった例はいくらでもある。しかし,その城は,いつも地理的に重要な動線上にあった。
 
武力で覇権を取った権力者が,動線から外れた辺鄙な土地に構えたことなど聞いたことがない。
 
初めて武力で覇権を握った平清盛は「福原京」を建造した。神戸の福原京は,山陽道と瀬戸内海を制する重要な土地であった。
 
信長は,琵琶湖の湿地の中に鉄壁な安土城を建造した。その安土城は西の京都と東の結節点にあり,天下を狙う要の土地であった。
 
秀吉は大坂の上町台地の先端に,鉄壁の大坂城を建造した。その大坂城は,西の大名たちを睨み,京都を抑える重要な地理に位置していた。
 
しかし,頼朝が構えた鎌倉は,大動脈の東海道に位置していない。東海道から分かれる不便な横須賀線の上にある。
 
(図− 1)は,東海道と鎌倉の位置を示した。(図− 2)はJR東日本の路線図である。オレンジ色は日本の大動脈の東海道である。東京から横浜,大船そして小田原,静岡,名古屋へと続いていく。
 

【図− 1 東海道から鎌倉は5〜6km 南に位置する】




 

【図− 2 JR 東日本路線図。鎌倉方面に向かうのは横須賀線】




 
青色は鎌倉へ行く横須賀線である。大船で東海道と分かれ三浦半島へ向かう行き止りの路線である。三浦半島は日本列島から飛び出した盲腸のような土地である。鎌倉は,その盲腸のような横須賀線の途中にある。鎌倉は日本の大動脈から外れた辺境の地にある。
 
なぜ,頼朝はこの辺境の鎌倉に構えたのか?
 
 

隠れた関東の地形

人間が作り出した歴史のドラマは,地形と気象の舞台の上で演じられる。この舞台を忘れ,舞台の上で踊る人間模様に目を奪われていると,歴史の本質を見失ってしまうことがある。
 
ただし,歴史の地形と気象の舞台で大切なことは,21世紀の地形ではないことだ。歴史が繰り広げられていた当時の地形が大切である。
 
日本の歴史で,最も劇的に変化した地形は関東平野である。
 
頼朝の時代,江戸湾には多摩川,荒川のほかに利根川と渡良瀬川が流れ込んでいた。21世紀の関東の河川の流れとは異なる。利根川が銚子へ向うのは,あと400年後の徳川家康まで待たなければならない。
 
その多くの河川が流れ込む関東平野は,真水と海水が入り混じる汽水域であった。そこは,水平線まで見渡す限りのアシ(ヨシ)の不毛な湿地帯であった。
 
かつて関東が大湿地だったことを意識しないと,日本史の出来事が見えなくなってしまう。鎌倉の謎も,関東が大湿地帯であったと知ると自然と解けていく。
 
 

関東の大湿地帯

(図− 3)は,利根川,渡良瀬川,荒川そして多摩川が江戸湾に流れ込み,関東平野は大湿地帯であったことを示している。
 

【図− 3 江戸時代の関東平野の河川再現図】




 
(写真− 1)は,現在の関東地方に残る渡良瀬遊水池の湿地帯である。
 

【写真− 1 栃木県 渡良瀬遊水池 アシ(ヨシ)】




 
頼朝が覇権を握ったときの関東は,淡水と海水が入り混じる広大な汽水域であった。塩水が混じる汽水域で穀物の収穫はできない。
 
さらに,この湿地帯に入り込むのは危険であった。少しでも雨が降ると増水し,洲は水に沈み,何日も何カ月も水は引かなかった。アシ(ヨシ)に囲まれると人々は方向を失ってしまう。
 
つい最近も,生態系の環境調査で渡良瀬遊水池に入った友人が,方向を失い遭難しそうになった。
 
頼朝の時代,日本列島の西と東を行き来する人々は,当然,この関東の湿地を避けた。
 
 

大湿地帯を避けた街道

日本列島は島国であり重要な運送手段は海運であった。しかし,関東の銚子沖は危険な海であった。
 
北から流れる親潮と南から流れる黒潮は,関東の銚子沖でぶつかる。そのぶつかった海流は一気に太平洋に流れ出していく。この銚子沖を船で渡り切るには,よほど潮目を見切らなければ危険であった。高知沖で釣りをしていたジョン万次郎が太平洋に流され米国船に救われたのも,この海流に流されたからだ。
 
この危険な銚子沖を避けるため,関東地方で西と東を結ぶルートは陸路となった。関東地方で西と東を結ぶルートは四つあった。そのルートを(図− 4)で示す。
 

【図− 4 交通の要所鎌倉】




 
● 中山道(東山道)の長野から群馬へ出て,足利,栃木を経由して東北に向かうルート。
● 甲府盆地から相模川を下って平塚に出て,藤沢,鎌倉を通り三浦半島の横須賀から船で,房総半島に渡り茨城,東北へ向かうルート。
● 箱根を越えて小田原に出て,藤沢,鎌倉,横須賀そして房総半島から東北へ向かうルート。
● 西から太平洋を航海してきた船が,相模湾を越えて三浦半島でいったん停泊し,房総半島へ渡っていくルート。
 
この四つどのルートも,やっかいな関東の大湿地帯を避けていた。
 
そして,四つのルートのうち南側の三つのルートは,どれも鎌倉と三浦半島を通っていた。
 
 

東日本を抑えた三浦半島

三浦半島は日本列島の盲腸ではなかった。ここは東日本へ行く陸と海の関所であり,要の土地であった。
 
三浦半島には大きな河川がない。そのため,河川から流出する土砂の堆積や干潟はなかった。航海してきた船は,安心してこの三浦半島に近寄れ,上陸することができた。
 
太平洋に張り出している三浦半島全体が,日本列島の大きな港の機能を持っていた。
 
関東の三浦半島に着いた人々は,横須賀から目の前にある房総半島へ船で渡った。そして,陸路の房総半島を北上し,わずかに陸地が続く現在の関宿あたりを東北に向かっていった。
 
源頼朝が鎌倉に構えた700年後,江戸幕末に太平洋を渡ってきた米国の黒船は浦賀沖で停泊し,三浦半島の先端の久里浜に上陸した。黒船は決して東京湾に入っていかなかった。東京湾は利根川や荒川が運んできた土砂が堆積していて,座礁の恐れがあったからだ。
 
明治の文明開化,西欧文明の窓口は三浦半島の根っこに位置する横浜となった。
 
21世紀の今,三浦半島の横須賀には海上自衛隊の横須賀地方総監部があり,米国海軍第七艦隊の基地がある。三浦半島は東アジアおよび日本首都圏の重要な防衛拠点となっている。
 
頼朝が三浦半島の鎌倉を拠点にした先見性は,何と1千年近く今でも続いている。
 
三浦半島と鎌倉は,重要な歴史上の動線に位置していた。西日本と東日本を結ぶ重要な三浦半島と鎌倉。頼朝はこの重要な土地に幕府を構えた。頼朝は決して閉じこもった権力者ではなかった。日本列島を俯瞰(ふかん)した権力者であった。
 
筆者は中学,高校時代を,この三浦半島の横須賀港に入口にある学校で過ごした。授業中,教室の窓から横須賀港を出入りする艦隊をぼんやり見ていたものだ。
 
半世紀の年月を経て,やっと,この三浦半島の歴史的意味を整理することができた。
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与,非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長,首都大学東京客員教授,東北大学客員教授 博士(工学)。出身:神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒,1970年修士修了後,建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長,中部地方建設局河川部長,近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後,04年より現職。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年),「土地の文明」(PHP研究所2005年),「幸運な文明」(PHP研究所2007年),「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著),「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)。2016年8月に最新刊「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社)が上梓された。
 
 

公益財団法人                  
リバーフロント研究所 技術参与 
竹村 公太郎

 
 
 
【出典】


積算資料2017年02月号



 

 

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