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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第56回 天下分け目の関ケ原 ー金網デスマッチー

 

天下分け目の関ケ原

東京・大阪間の新幹線には数えきれないほど乗っている。東京から行く時にはおおむね名古屋まで寝ている。名古屋で人々の乗り換えの音で目が覚める。寝覚めでぼんやりしていると岐阜羽島を通過していく。岐阜羽島から関ケ原を通過する時には目が覚めている。車窓から関ケ原の景色を見ることになる。
 
日本の命運をかけた関ケ原の地形は何度見ても興味深い。
 
起伏のない平坦で広大な濃尾平野を過ぎると,小さな丘が連続してくる。いくつかの小山を通り過ぎると,関ケ原に入る。あっという間に新幹線は関ケ原を通り過ぎると,山を突き抜けるトンネルに入る。そのトンネルの先には琵琶湖周辺の近江平野が展開している。
 
図−1)は,関ケ原と周辺の位置図である。
 
関ケ原の西の山向こうには,近江平野が広がっている。東の谷間の向こうには膨大な濃尾平野が広がっている。
 
近江平野は石田三成(西軍)の勢力範囲で,濃尾平野は徳川家康(東軍)の勢力範囲であった。両軍とも自身の勢力範囲に留まらず,前に前にと敵に向かっていった。その両軍が対峙したのが関ケ原だった。
 
関ケ原は,近江でもない,濃尾でもない。
 
関ケ原は,人間たちの天下分け目の場であり,関ケ原は日本列島の東西の分け目の場でもあった。
 
関ケ原は,戦国時代の幕を下ろし日本列島が統一していくにふさわしい場であった。
 

【図−1 関ケ原の地理】               出典:「戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ」(一部加工)



盆地地形の関ケ原

関ケ原は日本列島の地理上の分け目であった。さらに,地形的には盆地となっている。
 
両軍は東の濃尾平野と西の近江平野から,わざわざこの狭い盆地地形の関ケ原に集結した。
 
この盆地には退路がない。もちろん盆地からの街道はある。東には中山道,南には伊勢街道そして西には北国街道が続いている。
 
しかし,戦局によっては,この街道は敵に簡単に抑えられてしまう。そうなれば取り返しの効かない決定的な敗北になる。戦国時代,敵対する両軍が,なぜわざわざ逃げ道が限られた狭い盆地に閉じこもって,大会戦を繰り広げたのだろうか。
 
退路を断って戦う。引き分けはない。勝つか負けるしかない。まるで,逃げ道のない殴る蹴るの格闘技の「金網デスマッチ」のようだ。
 
 

島津の中央突破

逃げ場のない関ケ原で語り草になっているのが「島津隊の退き口」と呼ばれている中央突破の退却戦である。
 
戦闘当初は西軍がやや優勢に進んだ。しかし,小早川陣営の裏切りで戦局は一気に東軍が優勢となった。戦闘に加わらず戦局の動きを見守っていた島津義弘率いる約1千名の島津軍は,敵陣に囲まれてしまった。(図−2)の布陣を見ても,北国街道を東軍に抑えられたら,前面は全て徳川軍だらけとなり,島津軍は孤立してしまうことが理解できる。
 
ここで島津軍は東軍の中央突破を図ることとした。目指すは南へ延びる伊勢街道であった。勇猛な薩摩隼人の島津軍の思わぬ行動に東軍も一瞬たじろぎ,中央突破を許してしまう。
 
その後,東軍による激しい追撃戦が伊勢街道で展開された。島津軍の殿(しんがり)の小隊は,東軍の足止めを担い徹底的に戦った。その小隊が全滅すると,次の小隊が足止め役を担い,その小隊が壊滅すると次の小隊が戦った。
 
本隊の島津義弘は伊勢街道を南下し,海路を利用して薩摩に帰還した。その数80名という激しい撤退であった。
 
この関ケ原の戦いは,戦局が不利になって逃げようにも逃げ口のない「金網デスマッチ」であったことが分かる。
 

【図−2 関ケ原の戦い 布陣図】 出典:「戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ」




 

不思議な関ケ原

20年ほど前,車で岐阜から大津に向かった。途中の関ケ原に立ち寄った。関ケ原の所々で止まり,車外に出て周辺を見回した。何か変であった。
 
風景が変だった。見渡せなかったのだ。西側の山道に車を走らせて,小山に登り,道路に立っても同じだった。
 
建物や木々の切れ目から見通せる場所はあるが,関ケ原全体を見渡せる場所などなかった。歴史の本で理解していた関ケ原の風景と違う。読み物では関ケ原の各陣営が手に取るように描かれている。
 
関ケ原に集結した味方の陣のみならず,敵方の動きも見えている。その動きを見て,作戦を立てている。その最も有名な場面は,小早川陣の動きであった。
 
小早川秀秋は西軍の石田三成と東軍の徳川家康双方へ加担の約束をしていた。松尾山に陣取った小早川は,戦局を見極めどちらの陣営につくかを窺(うかが)っていた。朝から始まった激しい戦いは,西軍がわずかに優勢に戦いを進めていた。家康は動きのない小早川の様子を見てイライラし,その怒りを表すため,小早川陣に向かって鉄砲で威嚇射撃をしたとも伝わっている。
 
鉄砲の威嚇射撃の真偽はともかく,丘の上から情勢を見詰めていた小早川秀秋は,ついに西軍を裏切り,西軍の大谷軍に攻め込んでいった。小早川の行動を見ていた他の軍団も,次々と西軍に攻撃を仕掛けていった。
 
この小早川の情勢判断と行動が,東軍勝利のきっかけとなったことは間違いなかった。
 
つまり,関ケ原で交戦していた東西の各陣営,そして行動を決めかね丘から戦局を見つめていた各陣営,それら全ての陣営は関ケ原を見渡していたのだ。
 
私にはそれが不思議で,理解できなかった。
 
何しろ私が見た関ケ原は,木々で満たされて,関ケ原の全体を見渡せなかった。関ケ原の戦いは現在の10月20日ごろである。紅葉は始まっていたかもしれないが,木々の葉っぱが落ちて,関ケ原全体が見渡せるような枯れ木の時期ではない。
 
関ケ原の風景に釈然としないまま,関ケ原を後にして大津に向かった。
 
 

ハゲ山の関ケ原

関ケ原に立ち寄った時から何年か経ったある日,東京大学の林学の太田猛彦教授の講演を聴く機会があった。その講演会で配布されたレジメの図の一枚に,眼が釘付けになってしまった。それが(図−3)である。
 
英国の歴史家コンラッド・タットマンが日本の寺院を訪れ,調査した成果である。全国の寺院の創建と再建で,どの時代に,どの地方から木材を持ち出していたかの分布図である。
 
この図の紫色の部分が問題であった。この紫色の部分は,1550年までに木々が伐採されていた地方である。1550年といえば戦国時代である。その戦国時代に西は山口,南は紀伊半島,東は伊豆半島,北はなんと能登半島まで伐採されていた。つまり,戦国時代の中心であった関西には,すでに木がなくハゲ山であったのだ。
 
講演の後,太田教授を捕まえた。「戦国時代の関西は,ハゲ山だったのですか?」と聞くと,そんなことも知らないのか,という顔つきで「戦国時代だけではなく明治から昭和にかけてもハゲ山になっている」と教えてくれた。その時代のハゲ山の写真もあることを教えてくれた。早速,その写真集を探し当てた。その写真を見て驚愕した。
 
明治から昭和にかけ日本列島全体がハゲ山であった。その一つが(写真−1)の京都の比叡山の写真であった。あの神聖な比叡山がハゲ山になっていた。
 
戦国時代,関西地方には木材がなかった。関西の山々はハゲ山であった。関ケ原もハゲ山だったのだ。
 
これなら少し高台に行けば,すべてが見渡せる。この風景なら,関ケ原の戦いの物語がストンと腑に落ちていく。
 
20年越しの関ケ原の謎がスーッと消えていった。
 
逃げ場のない盆地地形の関ケ原。その関ケ原はハゲ山で,すべてが見渡せた。そこに集結した東軍と西軍の大将と侍たちは,まさに逃げ場を断って,生きるか死ぬかの決死の覚悟で戦いに挑んだ。
 
日本の歴史の方向が決まったこの場面,日本人はなんと勇ましく,そして,なんと痛ましかったのか。
 

【図−3 記念建造物のための木材伐採圏】
〔コンラッド・タットマン「日本人はどのように森をつくってきたか」(熊崎訳,1998)より引用〕

【写真−1 京都府京都市 叡山ケーブル(京福電気鉄道)】
写真:絵はがき『 全国植樹祭60周年記念写真集』
発行:(社)国土緑化推進機構


 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

非営利特定法人日本水フォーラム代表理事・事務局長,首都大学東京客員教授,東北大学客員教授 博士(工学)。神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒,1970年修士修了後,建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長,中部地方建設局河川部長,近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後,04年より現職。土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年),「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著),「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年),「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム         
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎

 
 
 
【出典】


積算資料2019年9月号



 

 

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