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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第24回 ピラミッドの謎(2)─ ギザ台地の3基の巨大ピラミッド ─

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 技術参与
竹村 公太郎

 


 
2009年真夏の早朝、銀座中央通りで立ちつくしていた。
 
そこは不思議な空間であった。
太陽はビルの陰なのに、身体は朝日の光に包まれていた。
通りの反対側のビルのガラスが、太陽を反射させていたのだ。
 
ピラミッドの最後の謎が解けていく瞬間であった。
 

前回のあらすじ

ナイル西岸のピラミッド群

図-1 ナイル西岸のピラミッド群

図-1
 ナイル西岸のピラミッド群


エジプトのピラミッドは、人類の第一級の遺産であり、世界七大不思議の筆頭である。
 
考古学者たちの努力により「何時、造られたか?」「誰が造ったか?」「どのように造ったか?」は次々と解明されてきた。
 
ところが「何故、ピラミッドは造られたのか?」は未だ解明されていない。
 
約100基のピラミッド群は、全てナイル川の西岸に位置している。
 
(図-1)がナイル川の左岸、つまり西岸に点在するピラミッド群の分布である。
このピラミッド群の配置が、ピラミッドの目的を示していた。
 
それはナイルの西岸が堤防を必要としたからだ。
ナイル川東岸には、山岳地形が連続している。
そのため東岸の流路は安定していた。
一方、ナイル川左岸つまり西岸には、アフリカのリビヤ砂漠が広がっている。
 
西岸の砂はナイル川で削られ、リビヤ砂漠に向かって西へ西へと逃げて、
ついには砂漠の中に消滅していく。
 
ナイル川は水と土砂を運んでくれた。
特に、河口デルタの干拓には土砂がどうしても必要であった。
そのため、西岸の流路を安定させる堤防が必要となった。
 
しかし、目もくらむような長いナイル川に堤防など築けない。
そこで、古代エジプト人たちは巨大な「からみ」のピラミッド群を建設することとした。
 
日本でも「からみ」はあった。
日本の「からみ工法」は、木杭に木の枝をからませ、土砂を堆積させる工法である(前号を参照)。
 
こうしてナイル川のピラミッド群は、巨大な「からみ」の杭となった。
 
 

解けた謎と残った謎

毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる。
そのナイル川西岸に、ピラミッドを適当な間隔で配置すれば、洪水はピラミッド周辺で澱む。
洪水が澱めば、流速は落ち、土砂はピラミッド周辺で沈降し堆積していく。
 
このようにして、ピラミッド周辺に土砂のマウンドが形成されていって、そのマウンドが連続して長い堤防となった。
古代エジプト人は、ナイル川の自然の力で見事に堤防を創出させた。
 
これで、ナイル川は水と土砂を地中海まで確実に到達させることとなった。
 
ナイル川西岸の約100基のピラミッド群の目的は説明できた。
 
しかし、重大な謎が残った。
それは、カイロ市郊外のギザ台地に建つ3基の巨大ピラミッドの存在である。
 
ピラミッド群がナイル川の堤防なら、ナイル川河口のギザ台地の3基のピラミッドは不必要である。
 
あのギザ台地のピラミッドの目的は何か?
「ナイル川の堤防」では説明できない。
この謎は、私の胸に沈んでいった。
 
 

ビルの反射

2008年の春、勤務する事務所が麹町から下町の茅場町へ引越しをした。
それを機に、運動不足解消のため有楽町の駅から事務所まで歩くことにした。
 
有楽町から歩いて約30分かかる。
歩くのは好きだが、問題は汗であった。
事務所にはシャワーなどない。
汗が引くまで仕事に取り掛かれない。
そのため、歩くルートは、なるべくビルの陰を選んだ。
 
有楽町から銀座中央通りを歩けば、太陽はビルの陰になる。
銀座四丁目の交差点から日本橋に向かって右の歩道を歩いていく。
日中は賑やかな銀座中央通りも、朝は閑散として人とぶつかることもない。
 
考え事をしながら歩いていたとき、突然、太陽の光に囲まれていた。
 
ビル街が切れたかと思った。
しかし、太陽は間違いなく右手の銀座メルサの陰にあった。
その銀座メルサのガラスは、朝日でキラキラ光っていた。
その光は通りの反対側の反射光であった。
反対側のビルのガラスが、こちら側のビルのガラスを照らしていた。
その反射光がまた向こうのビルのガラスを照らしていた。
 
あちらこちらのビルのガラスが、複雑に反射し合っていた。
そこは、まるで光のダイヤモンドの中にいるようだった。
 
私はその光の中で立ち止まっていた。
 
頭の中でもやもやしていた霧が晴れていった。
 
「あの写真だ!」と思い出し、急いで事務所に向かった。
 
事務所でエジプト関係のファイルを取り出した。
ファイルの中にその写真はあった(写真-1)
 
やはり、そうだった。
(写真-1)は、ギザ台地の3基の巨大ピラミッドの謎を解く鍵となった。
 

写真-1 ギザのピラミッド 光の反射面と陰面

写真-1 ギザのピラミッド 光の反射面と陰面


 
 

ギザのピラミッドの謎

ピラミッド建設の頂点と言われているのが、ナイル川河口のギザ台地の3基の巨大ピラミッドである。
 
紀元前2,520年頃(約4,500年前)から建設されたこの3基のピラミッドは、南北方向に配置されている。
北から高さ146mのクフ王のピラミッド、中央が高さ136mのカフラーのピラミッド、
一番南が高さ70mのメンカフラーのピラミッドである。
中央のカフラーのピラミッドは、高い場所に造られているので一番高く抜きん出ている。
 
さらに、ピラミッドの表面は大理石で張られていた。
大理石は盗掘にあって一部を除いて大部分は失われた。
(写真-2)の私たちが立っている足元の壁が、残された大理石の一部である。
 

写真-2 足下のピラミッドの壁が大理石

写真-2 足下のピラミッドの壁が大理石


 
ピラミッド群の目的がナイル川の堤防なら、ギザ台地のピラミッドは謎だらけとなる。
 
● ピラミッドをギザの高台に建設する必要はない
● あれほど高くする必要はない
● あれほど正確な正四角錐にする必要はない
● 表面をわざわざ大理石にする必要はない
 
これらの謎に全て答えるのが、あの(写真-1)だった。
写真の3基のピラミッドの面は、太陽に反射してそれぞれ異なった光と陰を造っている。
 
これがギザのピラミッドの目的であった。
 
 

ナイル河口の干潟の登場

ギザから下流には広大な三角州、いわゆるデルタが広がっている。
エジプトの農業の中心地はこのナイルデルタである。
 
このデルタは、何時ごろ形成されたのか?
 
その答えは明らかである。
6,000年前の紀元前4,000年以降である。
 
紀元前4,000年つまり6,000年前、地球の気温は現在より高かった。
そのため、海水は温められて、体積を膨張させていた。
陸上の氷河も溶けて海に流れ出していた。
その結果、地球上の海面は現在より約5m高かった。
この現象を、日本では縄文海進と呼んでいる。
 
(図-2)は、南極大陸の氷のボーリングデータから解析した約30万年間の地球の気温の変化を示す。
この図からも、6,000年前の気温が高かったことが分かる。
 

図-2 30万年間の地球の気温変動

図-2 30万年間の地球の気温変動


 
6,000年前、海面は約5m高かったので、現在ある世界各地の沖積(ちゅうせき)平野は、海面下にあり未だ姿を現していなかった。
 
もちろん、ナイルデルタも海面下にあった。
(写真-3)で、現在のナイル河口のデルタと、約6,000年前のデルタが海面下だった状態を示した。
 
写真-3 スペースシャトルからのナイルデルタ

写真-3 スペースシャトルからのナイルデルタ


 
地球の気温は、6,000年前をピークに低下していった。
海水は体積を収縮させ、陸には氷河が形成されていった。
そのため、海面は次第に降下していった。
いわゆる海の後退である。
これにより、世界中の河川の河口で、干潟が姿を現していった。
 
ナイル川河口でも巨大な干潟が姿を現し始めた。
古代エジプト人たちは、この干潟に目を奪われた。
 
荒涼とした砂漠を見慣れていた彼らにとって、干潟は潤いに満ちた天国であった。
 
この広大な干潟を自分たちのものにしたい。
この干潟を干拓して農作物を得て豊かになる。
彼らはこのデルタ干潟を干拓する決意を固めた。
 
 

壮大なデルタのランドマーク

世界各地の干潟で干拓が行われたが、このナイルデルタは際立ってスケールが大きかった。
 
ギザからデルタ先端の海岸線まで、直線距離で200km以上に及ぶ。面積は4~5万㎢で、九州全体に匹敵する。
これほど大規模な干拓は世界広しといえども他にない。
 
さらに、このデルタには葦(あし)が一面に茂っていた。
古代エジプト人は、この葦が茂るデルタを「大いなる緑」と呼んでいた。
彼らはこの広大な葦に囲まれた干潟で、干拓作業を行っていった。
 
デルタでは、水が流れてくる方向が上流とは限らない。
葦に囲まれたデルタでは方向感覚が失われる。
この葦の広大なデルタでの作業には、絶対に必要なものがあった。
それは、方向を見失わないための灯台であった。
 
ナイル川西岸のピラミッド群の建設が始まって100年が経過した頃、クフ王はギザの高台でピラミッドの建設を開始した。
(図-3、4)は、エジプト文明のピラミッド建設が開始された当時のナイル干潟干拓を示した。
 

  • 図-3 6,000年前のナイルデルタは海面下(5m上昇)

    図-3 6,000年前のナイルデルタは海面下(5m上昇)

  • 図-4 約2,000~4,000年前の干拓

    図-4 約2,000~4,000年前の干拓

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
灯台は、遠くから見通せなければならない。
 
そのため、ギザの高台にピラミッドが建設された。
さらに、そのピラミッドは可能な限り高くした。
 
しかし、何故、ギザのピラミッドは3基も必要だったか?
1基で十分だったのではないか?
 
これが最後の謎となった。
 
 

3基のピラミッド

夏の早朝の銀座中央通りで、
通り向こうのビルとこちらのビルのガラスが光を反射させ合った複雑な光の中に立った時、その謎が解けていった。
 
(写真-1)にその現象が映っていた。
この写真は2008年3月、エジプトの国際会議に参加した際の記念写真である。
背後には、ギザ台地の3基のピラミッドが映っている。
 
写真の3基のピラミッドの面は、それぞれ異なった光と影を見せている。
 
ピラミッド1基だと、太陽の位置と見る方向によってピラミッドの面が影になる時間帯がある。
それでは灯台の役目を果たさない。
 
ピラミッドが3基あれば、どこかの面が太陽の光を受ける。
ピカピカの大理石は、鏡のように光を反射させて隣のピラミッドを照らす。
 
3基のピラミッドの光の反射の組み合わせは、複雑なダイヤモンドの光のようであった。
 
キラキラ光るダイヤモンドは、何時でも、何処からでも見ることができた。
その光は、厳しい干拓作業に従事する古代エジプト人たちを勇気づけていった。
 
だから、ギザ台地の3基のピラミッドは、
 
●河口に近い高台の上になければならなかった
●可能な限り高くしなければならなかった
●光の反射のために正確な正四角錐でなければならなかった
●光を反射させるため鏡のような大理石を張る必要があった
 
ナイル川西岸の100基のピラミッド群は、ナイル川の堤防を形成した。
ギザ台地の3基の巨大ピラミッドは、デルタ干拓の灯台であった。
 
ピラミッドはエジプト文明誕生と発展のために、絶対に必要なインフラ・ストラクチャーであった。
 
 
ピラミッドの謎は全て解けた。
 
 
1993年7月1日 スペース・シャトル「エンデヴァー」より撮影した写真を加工(竹村・山田)
 作図:公益財団法人リバーフロント研究所 竹村・後藤

 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年5月号
月刊積算資料2014年5月号
 
 

最終更新日:2014-08-19

 

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