建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第64回 恐れる信長 ─なぜ,比叡山を焼き討ちにしたか─

 

歴史の敗者

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が面白い。
NHKの大河ドラマで歴史の敗者が主役になったのは初めてだろう。
歴史はいつも勝者の物語である。
 
戦国時代を武田信玄,今川義元,毛利元就,織田信長,豊臣秀吉そして徳川家康が駆け抜けた。
彼らは戦いで勝ち,戦いで死んでいった。しかし,彼らは皆,英雄であった。
戦いで負けた者が,歴史の敗者ではない。
戦いに負け,人格的に貶(おとし)められた者が,歴史の敗者である。
 
戦国時代で明智光秀ほどの敗者はいない。
明智光秀は,天下をほぼ手にした織田信長を裏切って闇討ちにした。
信長を継いだのは,信長の部下の豊臣秀吉であり,信長と兄弟のような関係の徳川家康であった。
 
信長の後を引き継いだ秀吉や家康,そして歴代の徳川将軍たちが,明智光秀を貶めたのは当然であった。
 
歴史の敗者の光秀をどのように描いていくのか,特に,光秀が信長を討った理由をどう描いていくのかが興味深い。

 
 

逢坂山の峠

15年前,立命館大学で講義を持っていた。
理工学部は滋賀県の草津市にあり,大学に週1回通うため,新幹線で京都駅まで行き,京都でJR琵琶湖線に乗り換える。
京都から山科(やましな)を過ぎると,すぐに逢坂峠(おうさかとうげ)のトンネルに入って行く。
 
トンネルの手前で左右の山々が一気に近づき,JR湖西線や国道1号線が接近し,一つの束となってトンネルへ突進して行く。
このトンネルを潜(くぐ)るたびに,妙に重苦しい気持ちになった。
トンネルを抜け琵琶湖南岸の大津へ出ると,胸の重苦しさは消えている。
 
この重苦しさは,逢坂では何本もの鉄道と道路が集中しているためだと考えていた。
ある時,トンネルを抜けた大津駅ホームでとっさに電車を降りてしまった。
ホーム後方の端に立ち,逢坂山と比叡山を仰いだ。
 
薄く雪を被った比叡山は,逢坂峠を真上から見下していた。
 
その時,織田信長が比叡山延暦寺を焼き尽くした仮説が生まれた。
 
この逢坂の地形が鍵だった。

 
 

京の鬼門

風水での鬼門は,東北の方角と相場が決まっている。
平安時代の京は魔界の都といわれ,災いを鎮めるため「平安京の東北の鬼門の比叡山に延暦寺が建てられた」と伝わっている。
 
しかし,これは明らかに誤りである。
 
桓武天皇が京都の平安京へ遷都したのは794年である。
その6年前の788年,長岡京の時代に,延暦寺は創建されている。
桓武天皇は長岡京のために延暦寺を創建した。
平安京のためではない。
 
長岡京の東北の方角に鬼門があった。
その鬼門は形而上の問題ではない。
極めて現実的な危険な鬼門であった。
東から京へ侵入する地形であった。
 
桓武天皇は比叡山に延暦寺の創建を命じた。
そして,その延暦寺に僧侶群を構えさせ,鬼門を見張らせ,京を守らせたのだ。
 
比叡山は琵琶湖全体と京一帯を見渡せる。
そして,足元の鬼門をしっかり見張ることができた。
図−1)が位置関係を表している。
 
長岡京の鬼門,それは「逢坂」であった。
逢坂は長岡京の東北の方角にあった。
 

  • 京都盆地の地形
    【図−1 京都盆地の地形】出所:国土地理院 作図:竹村 

  • 「頚動脈」の地形

    日本列島には昔から古道があった。不思議なことに,日本列島の古道は全て京都に向かい,逢坂に集中していた。
     
    日本海から東に向かうと島根,鳥取,福知山そして亀岡を通り京都に着いた。
    山陰道である。
    瀬戸内海から東に向かうと広島,岡山,兵庫の神戸を通り京都に着いた。
    山陽道である。
    瀬戸内海の海上を船で東に行くと,大阪に着き,その大阪から淀川を遡(さかのぼ)ると京都に着いた。
     
    京都から東へ向かうと,逢坂を越えて大津に出る。
    琵琶湖岸を北に向かうと,日本海側の福井,石川,富山そして新潟へつながった。
    北陸道であった。
     
    陸路を東に進み関ヶ原を越えると,山岳ルートの東山道となり岐阜,長野,群馬,栃木そして福島,宮城の東北へとつながった。
    これが東山道であった。
     
    大津から米原を過ぎて南へ向かうと,海岸ルートとなり,湿地を越えて相模湾や東京湾を船で渡ると,房総半島の上総に上陸した。
    房総半島からは陸路を北上すると茨城,栃木となり東山道と合流した。
    江戸時代の東海道の基となったルートである。
     
    これら山陰道,山陽道,南海道,北陸道,東山道そして東海道の古道は,京都に遷都してから新しくできたのではない。
    京都が都になるずっと以前から,日本列島を行き来する古代の人々が通る道であった。
     
    図−2)が京都を中心として形成されていた古道を示す。
    日本中の古道は逢坂に集中していた。
     
    現在でも,逢坂には日本の動脈が集中する。日本列島の頚動脈と言える。
    新幹線,JR東海道線・北陸線(琵琶湖線・湖西線),京阪電鉄,国道1号線,名神高速道路さらに琵琶湖疎水までが集中している。
     
    この逢坂が長岡京の鬼門であった。

     

  • 京都(逢坂)に集中する古道
    【図−2 京都(逢坂)に集中する古道】出所:国土地理院 作図:竹村 

  • 恐れる桓武天皇

    784年,桓武天皇は大和盆地の平城京を出て長岡京へ遷都した。
    長岡京は桂川,宇治川,木津川の3川が合流する巨椋池(おぐらいけ)のほとりであった。
    舟運の便がよく,稲作に適していた。
     
    南の方向はすでに制圧しており不安はなかった。
     
    北から東にかけては,屏風のように丹波山地と比良山地が連なっていて,防御しやすい。
    しかし,その鉄壁に見えた屏風に唯一の穴があった。
     
    東北の方角の逢坂であった。
     
    畿内より先の東北は,完全に制圧していない。
    東北の地では弓矢を得意とする人々が跋扈(ばっこ)していた。
    その彼らが京を襲う時は,必ず逢坂を通るはずだった。
     
    当時,東北で跋扈する人々は「夷(い)」と呼ばれていた。
     
    桓武天皇は,この夷を恐れ,長岡京へ遷都後,夷を征伐する軍団を東北の地へ送り込んだ。
    その後,大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を初代の征夷大将軍に任じた。
    役目はその名前のとおり「夷を征伐する」大将であった。
     
    さらに,長岡京へ侵入してくる逢坂を「鬼門」とした。
     
    鬼門の逢坂の真上の比叡山に延暦寺を創建した。
    その延暦寺に僧侶を配置した。
    延暦寺の僧侶達は武装し,東北から侵入する者を監視し,京を守ることとなった。

     
     

    比叡山延暦寺焼き討ち

    桓武天皇が征夷大将軍を任命して800年が経った。
     
    戦闘集団の武士群は独自に力を蓄えていった。
    征夷大将軍という称号は夷を征伐する意味から,武士群の頭目という意味に変質していた。
    源頼朝が征夷大将軍となり,足利家がそれを継ぎ,世の中は武士の頭目を巡る戦国の世に入っていた。
     
    1560年,日本中に衝撃的なニュースが流れた。
    室町幕府の足利将軍家を支え,将軍職をも継ぐ実力を誇っていた今川義元が討たれたという。
    それもたった26歳の織田信長という若造に。
    場所は,桶狭間という聞いたことのない山中だという。
     
    1568年,信長は,頼ってきた足利義昭を奉じ上洛した。
    同年,足利義昭は第15代将軍に就任した。
     
    1570年,信長,家康連合軍は琵琶湖を勢力圏にしていた浅井,朝倉連合軍を姉川の決戦で打ち破り,朝倉軍は越前に逃げ込み,浅井軍は小谷城に逃げ込んでしまった。
     
    それを見届けると,1571年,信長は直ちに比叡山に向かった。
    僧侶といわず女人,子供までも殺害し,寺院を焼き払ったと伝えられている。
    焼き払いの程度の真偽はともかく,信長が比叡山の僧侶軍団を壊滅させたことは事実であった。
     
    なぜ,そこまで信長は比叡山延暦寺を焼き討ちしたのか?

     
     

    地形からの歴史

    信長の延暦寺焼き討ちの理由は,さまざま述べられている。
     
    延暦寺の僧侶達が浅井氏に味方したため。
    信長がキリスト教を庇護しようとしたため。
    僧侶たちが仏道の戒めを破ったので懲らしめるため。
    寺社勢力の商業利益を我がものにするため。
    古い権力のシンボルを破壊するため。
    この焼き討ちは常軌を逸した虐殺だったので,「信長の狂気」とまで言われている。
     
    これらは全て人文科学の観点からの物語である。
     
    人文の観点で人間を論じれば限りがない。
    人は多面の人格を持っていて,ある面に光を当てれば,ほかの面は影になる。
    光の当たった面だけを表現しても,その人物を表現したことにはならない。
    そのため,議論は果てしなく続いていく。
     
    しかし,地形から見ると,思いのほか単純となる。
    従来の複雑な歴史が,簡単な物語になってしまう。
     
    信長は,逢坂の地形に心から怯えていた。
    そのため,信長は比叡山の僧侶たちを徹底的に抹殺せざるを得なかった。

     
     

    地形を恐れる信長

    比叡山延暦寺は京への入口の逢坂を見下ろしていた。
     
    信長はその比叡山の地形に耐えられなかった。
    どのような強力な軍団も,山中ではその強さを発揮できない。
    日本の峠越えはどこも狭い。
    馬1頭,せいぜい2頭が並ぶ程度の幅でしかない。
    この峠越えでは,軍の隊列は細長く伸びきる。
    そのような時,大将隊を横から攻撃して,前後の隊を切り離してしまえば,大軍は全く役に立たない。
    大将隊は簡単に崩壊してしまう。
     
    歴史上,そのことを一番よく知っていた人間がいた。
    それは,織田信長本人であった。
     
    1560年,少数の信長軍は桶狭間の戦いで,圧倒的な大軍の今川義元を討ち取った。
    桶狭間の山中で今川隊が伸びきったところを,大将隊のみを狙って襲撃した。
     
    戦国の世を制するためには,京に上洛しなければならない。
    上洛するためには,あの狭い逢坂の峠を通らなければならない。
    その逢坂では,比叡山の僧兵が山猿のように,俊敏に飛び,駆け巡り,侵入者を手ぐすね引いて待ち構えていた。
    (写真−1)は僧兵の古写真である。
     
    逢坂は桶狭間を思い起こさせた。
    信長は恐怖にすくんだ。

     

  • 僧兵の古写真
    【写真−1 僧兵の古写真】出典:Wikipedia 

  • 比叡山の僧兵

    比叡山焼き討ちの3年前の1568年,信長は足利義昭を奉じて上洛した。
     
    足利家は朝廷を支えてきた名門である。
    歴史では,信長が義昭を他の大名に対して見せつけた,と説明する。
    しかし,私の物語では異なる。
     
    信長は,朝廷と親しい足利義昭を僧兵軍団に対する盾とした。
    比叡山の僧兵は朝廷の親衛隊であり,義昭に刃を向けるわけにはいかなかった。
     
    世界史上,どの親衛隊も増長していく。
    比叡山の僧兵も強力な存在となっていた。
    平安時代の白河法皇の「ままならぬものは,鴨川の水,比叡山の山法師,双六の賽の目」という言葉がある。
     
    その僧兵軍団が見張る中,信長は足利義昭を盾にして,逢坂からどうにか都に入った。
    その時,信長は僧兵達の股ぐらをとぼとぼと行く恐怖を味わった。
    その恐怖とは,桶狭間で今川義元が味わった死の恐怖であった。
     
    信長が琵琶湖周辺を制した直後,比叡山討ちに向かったのは当然であった。
     
    信長の比叡山焼き討ちは,京への入口の逢坂を自由に行き来する。
    それが目的であった。
     
    比叡山焼き討ちの後,信長は足利義昭を追放して,室町幕府を完全に崩壊させた。
    比叡山から僧兵は一人残らず消え,義昭を盾に使う必要もなくなっていた。
     
    もう信長にとっての鬼門は消えていた。

     
     


     
     

    竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

    特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長,首都大学東京客員教授,東北大学客員教授 博士(工学)。神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒,1970年修士修了後,建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長,中部地方建設局河川部長,近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後,04年より現職。土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年),「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年),「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著),「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年),「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)など。
     
     
     

    特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO法人)         
    代表理事・事務局長 
    竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

     
     
    【出典】


    積算資料2021年3月号


     

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