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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第26回 家康の野外調査 ー利根川東遷のある仮説ー

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 技術参与
竹村 公太郎

 

背水の陣

ある国際会議に出席しているとき、日本の首脳がアドリブで「背水の陣」という言葉を発した。
 
外務省の若い有能な外交官が、通訳を担当していた。
それまでスムーズだった通訳が急に乱れた。「背水の陣」の意味は当然知っていた。
しかし、その英語表現が分からなかったのだろう。
その場は直訳で押し通していたが、十分に伝わったかは疑問であった。
 
翌日の朝食でその外交官と一緒になった。
彼は私の横に座って
「あの『背水の陣』の英語が分かりました。辞書で調べたら『Fight with my backon the wall』でした。」
と照れくさそうに囁いた。
 
なるほど、退路を断って不退転の決意で戦うことを、ヨーロッパ人は壁を背にして戦うと表現するのか、と頷いてしまった。
 
ユーラシア大陸の騎馬軍団の戦いでは、城壁は厳しい障害物となった。
一方、日本のように歩兵軍団の戦いでは、川が重大な障害物となった。
戦国時代の歩兵戦では、川が合戦を左右する重要な鍵となった。
 
その川を強く意識した戦国大名が、徳川家康であった。
 
家康は、地形を徹底的に調査し、その地形を見極める天才であった。
 
 

家康の鷹狩

家康の鷹狩は有名である。
生涯に1,000回以上行ったと伝わっている。
駿府に隠居してからは単なる娯楽だったが、それ以前の鷹狩は間違いなく戦場の「地形調査」であった。
 
当時の戦いは、兵士たちが直接ぶつかり合う白兵戦である。
その戦いで勝利するのは、地形を味方にするのが絶対条件であった。
 
何十年もの戦いの中で、家康は戦いの前の地形調査の重要性を熟知していた。
ただし、戦闘が開始されていないのに、隣国と接する土地を傍若無人に歩き回れば挑発となり、相手に余分な口実を与えてしまう。
そのため、鷹狩という遊びの姿をとった。
 
鷹狩一行は大陣容であり、東照宮祭礼で鷹狩行列を再現した絵巻でも、何人もの鷹匠が列をなしている。
 
戦いで血を流す勝利より、力の差を見せつけ、戦わずして屈伏させるにこしたことはない。
鷹狩は自軍の威容さを見せつける目的も兼ねていた。
示威活動と分かっていても、鷹狩と言われれば他陣営も文句は言えないし、自分たちの面子も保てた。
 
家康はこの鷹狩で関東地方を制することとなった。
 
 

関東の地形調査

1590年、豊臣秀吉は関東を支配していた北条氏を屈服させた。
これが秀吉の天下統一の瞬間であった。
その秀吉は、即座に家康を駿府から関東へ転封させた。
 
この転封は2つの点から左遷であった。
まず、江戸城からみる関東平野は、見渡す限りアシ原が広がる不毛の湿地帯であった。
さらに、応仁の乱以降、関東一円は、100年近く北条氏の支配下にあった。
秀吉に屈服したとはいえ、北条氏の息がかかった武将が関東各地に構えていた。
 
江戸に転封された家康の家臣団は、この秀吉の仕打ちに激高した。
しかし、家康は怒っている暇はなかった。
一刻も早く、広大な関東を傘下に治める必要があった。
時は関ヶ原の戦いの10年前、豊臣家との天下分け目の戦いは迫っていた。
 
江戸入りして以来、家康は古びた江戸城の修復もせず、江戸を留守にして鷹狩に出かけていた。
 
家康の鷹狩の言い伝えは関東各地に残っている。
西の武蔵野台地、多摩川から横浜、三浦半島、北の秩父、群馬、さらに東の房総半島に及んでいる。
 
家康の威風堂々の行軍に各地の豪族は圧倒され、関東は家康の支配下となっていった。
家康はこの地形調査旅行で、関東を防衛する上で重大な弱点を発見した。
 
当時の関東防衛の仮想敵は、奥州の若き覇者・伊達政宗であった。
北条氏と同盟関係にあった伊達政宗は、東北から関東を視野に入れる勢いを示していた。
 
 

天然の要塞と鬼門

(図-1)は、コンピュータによる、現在の関東地方の陰影地形図である。
 

  • 図-1 現在の関東

    図-1 現在の関東
    提供:(一財)日本地図センター

  • 図-2 縄文前期の関東(海面5m上昇)

    図-2 縄文前期の関東(海面5m上昇)
    提供:(一財)日本地図センター

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(図-2)は、約6,000年前の縄文前期の時代である。
縄文前期、海面は5m上昇していたので、当時の関東平野は海面の下にあった。
 

図-3 江戸時代の関東平野の河川再現図

図-3 江戸時代の関東平野の河川再現図
提供:(一財)日本地図センター
作図:(公財)リバーフロント整備センター 竹村・後藤


 
(図-3)は、家康が江戸入りした当時の関東である。
江戸時代になると、海面はすでに低下していた。
利根川や荒川が海だった跡地に土砂を運び込み、広大なアシ原の沖積平野が形成されていた。
 
雨が降れば上流から利根川や荒川の水が流れ込み、アシ原は何日間も水が引かない湿地帯となった。
この湿地帯は防衛上極めて有利であった。
湿地は水深が浅く、大軍勢を乗せた船は行き来できない。
行軍する兵士も泥沼に足を取られれば、弓矢の格好の的になり射ぬかれ放題となる。
 
関東の西には、伊豆箱根から山梨、群馬にかけて険しい山々が屏風のように連なっている。
その山岳地帯から荒川、利根川、渡良瀬川という大河川が流れ出していた。
その3河川は関東の平地に出ると南に向きを変え、湿地帯で溢れながら江戸湾に注ぎ込んでいた。
 
関東の東では、日光山系から鬼怒川が流下し、小貝川と合流して印旛沼、霞ヶ浦の大湿地帯を形成していた。
 
背後の山々と何本もの大河川と湿地帯で、関東は天然の要塞となっていた。
(図-3)でもそのことが分かる。
 
ところが、この盤石の関東の要塞に鬼門があった。
鬼門はいつも東北の方角にあるようだ。
それは現在の埼玉、茨城、千葉の3県の県境の「関宿(せきやど)」であった。
 
関宿には「橋」が架かっていた。
それは地形による橋であった。
北関東と房総半島は、関宿でわずかな幅で繋がっていたのだ。
東北の伊達軍団がこの関宿を駆け抜ければ、一気に房総半島を制圧することができたのだ。
 
 

東日本の玄関、上総(かずさ)

中世以降、房総半島は東日本の重要な戦略地点であった。
 
関西から太平洋を船で東へ向かう。
途中に静岡の三保の港があり、休息に適していた。
さらに東へ向かうと、三浦半島を越え東京湾に出る。
そこからさらに東へ向かうと房総半島にぶつかり、その房総半島の先端では大きな難所と出会う。
 
日本列島沿岸では、南から北へ強い黒潮が流れている。
その黒潮は銚子の沖で、北から南に向う親潮とぶつかる。
ぶつかった黒潮と親潮は、房総半島に沿って太平洋へ流れ去っていく。
 
この潮流に乗ってしまうと太平洋の彼方へ流されてしまう。
高知の漁師のジョン・万次郎が太平洋へ漂流したのは、この潮流に乗ってしまったからだ。
(図-4)で、黒潮が太平洋に流れているのを示した。
 

図-4 日本列島の海流

図-4 日本列島の海流
出典:海洋研究開発機構


 
当時の船で、銚子沖で幅100〜500mの潮流を横断するのは危険であった。
そのためやむなく船を下り、陸路で東北に向かうこととなる。
その上陸地点が房総半島であった。
 
特に、房総半島には船が接岸できる舘山、富浦、上総湊、君津、木更津、袖ヶ浦の良港が連なっていた。
(図-5)でその港の配置を示した。
 
図-5 江戸時代の関東平野の河川再現図

図-5 江戸時代の関東平野の河川再現図
提供:(一財)日本地図センター
作図:リバーフロント研究所 竹村・後藤


 
房総半島の南側が「上総」と呼ばれる理由は、京都から近いことを示しているため。
関西から見れば、房総半島の南側の上総は、東日本への玄関口であった。
 
この上総を制圧すれば、江戸湾の制海権を掌握できる。
江戸湾の制海権を握れば、関西への海上ルートも制する。
 
伊達政宗が陸路で関宿を一気に南下して、上総を占拠すれば江戸は危機に陥る。
家康はこの関東の弱点を発見したのだ。
 
 

関東防衛作戦

これに対する家康の防衛作戦は徹底していた。
 
まず、江戸城から船橋までの小名木川と新川の運河を建設した。
この工事は江戸入りした1590年代に最優先で実施された。
 
この小名木川と新川の運河により、悪天候でも江戸湾の波に影響されず、一気に船橋へ到達できた。
船橋に着けば房総半島に上陸できた。
また、小名木川から利根川に入り、利根川を船で遡れば北関東まで容易に進軍できた。
これらは、軍事用の高速の運河であった。
 
さらに、大坂の陣の直後、家康は船橋から東金までの直線の「御成街道」を建設した。
どの資料を読んでも、「御成街道は鷹狩りのため」と記述されている。
しかし、40km近い直線道路は、決して鷹狩のためではない。
鷹狩で直線道路など必要としない。
それは素早く房総半島を遮断し、伊達軍の南進を阻止する軍用道路であった。
(図-5)で、小名木川の運河と御成街道を示した。
 
一方、1594年から関宿で重要な工事が開始されていた。
利根川の会ノ川締切り工事である。
 
この工事は、関宿で下総台地を開削し、利根川と渡良瀬川の流れを銚子に導くものであった。
北関東と房総半島が陸続きになっている関宿で、それを分断する巨大な堀を造る。
その堀へ利根川と渡良瀬川を流れ込ませる。
その流れが防衛線となる。
 
川は防衛線としては最適であった。
武装した歩兵軍団が渡河しようとして泥や流れに足をとられれば、動きは鈍くなり対岸から簡単に弓矢で射抜ける。
 
いったん事があれば、この利根川でしばし敵を足止めさせ、その間に小名木川と新川の運河と御成街道で軍隊を素早く送り込む。
これが家康の関東防衛作戦であった。
 
 

関東平野の誕生

1621年、下総台地が開削され、利根川の流れが銚子に向かった。
 
家康の工事開始から30年が経過し、天下は徳川のものとなり3代将軍家光の時代になっていた。
 
もう東北の伊達の脅威はなかった。
しかし、江戸幕府は憑かれたように利根川の拡幅と掘り下げを継続していた。
1809年、11代将軍家斉の時代、利根川の川幅は70m以上に広がっていた。
もう利根川東遷は、伊達への防衛の目的ではなかった。
この工事の目的は、利根川の洪水を銚子へ導き、関東平野を利根川の洪水から守る目的に変わっていた。
 
明治維新、この関東平野に日本全国から人々が集結した。
関東平野は日本人が力と知恵を結集して、近代化を成し遂げる舞台となった。
 
400年前に家康が開始した利根川東遷で生まれた関東平野は、近代日本文明の舞台として途方もなく大きな役割を果たした。
 
 
家康は鷹狩と称し関東地方を歩き、関宿の下総台地の地形を発見した。
それが近代の首都圏の誕生につながった。
 
家康の利根川東遷着手の理由は、明確な形では残されていない。
そのため、後世の私たちは、この謎にいろいろな仮説を立てて楽しむこととなった。
家康の頭の中の考えを断言することはできない。しかし、一つだけ断言できることがある。
 
日本史上で、家康は最高級の野外調査の達人であったことだ。
 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年9月号
月刊積算資料2014年9月号
 
 

 

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