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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第27回 地形と気象が生んだ中部のモノづくり ー流通と閉じこもりー

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 技術参与
竹村 公太郎

 

風の気球

私は土木を専門に選び、建設省に入省して転勤を繰り返した。
2年から3年間隔で、全国各地で生活した。
子供時代も含め住んだ都府県を北から数えると、宮城、福島、新潟、栃木、埼玉、東京、神奈川、愛知、大阪、広島そして熊本となる。
もちろん、出張で北海道や四国も何度も行っている。
半生を日本列島を歩き回っていたことになる。
 
転勤族の私はあることに自信を持っている。
それは、全国各地を相対的に比較できることだ。
 
その土地に長く住んでいる人たちは、自分の土地の歴史や文化を他の土地と比べて相対的に見ることが苦手だ。
なぜなら、その社会で懸命に生きている人々は、その社会の歴史と文化の中で毎日生活しているからだ。
 
20年前に、栃木県の渡良瀬遊水池で気球に乗った。
その気球に乗って初めて知ったが、高く上がった気球の上では風を全く感じない。
それは当たり前だ。
気球は風に乗っている。気球そのものが風になっている。
自分たちが風になっているから、風を感じない。
 
風を感じ、気球が風で移動していると分かるのは、地上に立って気球を見上げている人たちだ。
 
これと同じで、その土地で生きている人たちは、その歴史と文化の中で生きているから、その歴史と文化を意識しない。
私のように転勤族のよそ者は、その土地の歴史と文化を強く意識し、他の土地と比較してしまう。
 
 

中部の地形

30代前半に2年間、40代に3年間、私は名古屋で勤務した。
中部地方の河川行政に携わったので、中部の各地を歩き回った。
その中部を表現すると、やはり「モノづくりの中部」だ。
 
なぜ、中部は「モノづくり」なのか?
 
この問いは、人生最後の転勤を終え、東京に落ち着いた頃から、心の中で生まれていた。
 
中部の地形を見ると、南側には急激に深くなる日本海溝の海が展開している。
北側には険しい日本アルプスが連なっている。
そのアルプスの山々から何本もの川が一気に太平洋に流れ出ている。
平らな土地は、それらの川の河口部に点在しているに過ぎない。
 
中部の社会的な状況を見ると、西には京都と大阪の関西があり、東には東京の関東がある。
つまり、中部は地形的には海とアルプス山岳に挟まれ、社会的には関西と関東に挟まれた、東西に長い地域である。
 
中部の特徴は、この土地と社会環境から生まれていた。
 
 

関西と関東の2極

関西は云わずと知れた日本文明の発祥の地である。
 
奈良の大和盆地で、日本の律令国家が誕生した。
約400年間この大和盆地で、飛鳥、奈良時代を経て、都は京都へ移った。
その後、家康が江戸幕府を開府するまでの約1,000年間、関西は日本文明の中心であった。
 
1603年、家康が江戸に幕府を開府した。
朝廷は京都に残ったが、権力の中心は江戸に移った。
 
19世紀末、幕藩封建体制から国民国家への大変革があった。
江戸は東京と名前を変え、天皇も京都から江戸へと移られた。
 
2,000年の激動の日本史の中心地は、2極あった。
京都・大阪の関西と東京の関東であった。
 
関西と関東の2つの極は、交互に強烈な光と情報を発信し続けていた。
 
 

関西と関東の2極

関西の特徴は流通である。
流通の商人で有名なのが「関西商人」と「近江商人」である。
 
数千年前からユーラシア大陸の人々たちが、日本列島に渡ってきた。
 
ユーラシア大陸の南西から来た人々は、九州にたどり着いた。
九州は中国に近く、大陸の暴力の震動が伝わってきた。
そのため、人々は大陸の暴力から逃げるように瀬戸内海を東に向かった。
 
東へ向うと、瀬戸内海の端に大きな小豆島が横たわっていた。
その島を回り込むと、上町台地が現れた。
大坂に着いたのだ。
人々は上町台地を回り込んで、大坂湾に入って行った。
そこには淀川と大和川が流れ込み、穏やかな水辺が広がっていった。
人々はここを「河内」と呼んで、船から降りて陸に上がっていった。
 
西日本の交流の拠点の大坂の誕生であった。
 
 

流通の大津

一方、朝鮮半島から渡ってきた人々は、日本海側の沿岸にたどり着いた。
日本海側は雪が深い。
雪が少ない南へ向かうため、福井の若狭湾から陸路をとった。
福井と滋賀の境の深坂峠を越えると、大きな琵琶湖が広がっていた。
 
舟に乗って琵琶湖を南に下ると、大津に着いた。
その先の瀬田川は狭い渓谷の急流なので、大津から陸路をとることにした。
大津から逢坂の峠を越えると、京都に出た。
京都の巨椋池から淀川を下ると簡単に大坂に着いた。
 
長い旅の末、渡来した人々は関西で合流した。
 
その後、武士の時代になると、大津から東に向って東海道と中山道が形成されていった。
大津は陸上の流通の拠点となった。
 
遠くヨーロッパや中国の情報が、関西に流れ込み、それが日本各地に流通されていった。
(図-1)は、古代から近世の流通軸を示した。
 

図-1  ユーラシア大陸からの情報ルート 古代~近世

図-1  ユーラシア大陸からの情報ルート 古代~近世


 
 

消費の江戸

1603年、戦国の世を制した徳川家康は江戸に幕府を開府した。
これ以降、江戸が日本の首都となった。
 
世界の文明の中心地は、みな共通の性格を持っている。
それは消費である。
首都は生産しない、消費するだけである。
江戸もまさに消費の都市であった。
 
各藩の領主の母親も妻も子供も、江戸に住んでいた。
そのため、大名といえど3代目の領主ともなると、江戸生まれになっていた。
その領主は2年に一度、江戸と自領地を往復したが、生活の中心は江戸であった。
 
江戸の大名屋敷へ、さまざまな農作物や工芸品が届けられた。
江戸湾の近くや街道沿いに点在する各藩の下屋敷は、領地から届いた米や物産や工芸品を荷揚げし保管した。
 
全国から江戸に届いた物は、江戸でミキサーのようにかき回され、今度は他国に向って流れ出て行った。
 
物は情報である。
物という情報が江戸に流れ込み、江戸で混合され、そして全国に発信されていった。
 
 

街道の中部

江戸時代、大名たちの参勤交代は、中部の東海道と中山道を通った。
参勤交代は、街道の宿場に泊まった。
川が増水したり、天候が崩れたり、山道が崩れたりすれば何日も滞在することとなった。
 
何百人という参勤交代の人々たちは、宿場で暇を持て余し、街道筋の人々にさまざまな物や情報を披露した。
江戸に向かう参勤交代の人々は、領地のお国自慢や産物を、故郷へ帰る参勤交代の人々は、全国の物産や江戸の情報を披露した。
 
陸上だけではなかった。
関西と関東を結ぶ太平洋には、水運ネットワークが形成され、大量の船が行き交っていた。
江戸に向かう船は、各地の物産を積み込んで、江戸から帰る船には、江戸の瓦版や浮世絵や工芸品が積み込まれていた。
 
それらの船は夜になれば港に停泊し、天候が荒れればやはり何日も停泊した。
 
中部の港は賑わい、陸の宿場と同じように、全国各地の物と情報が、居ながらにして入手できた。
 
広重も、中部の港に多くの船が寄港している様を描いている。
(図-2)は、静岡の三保の港である。
 

図-2  東海道五十三次 江尻・三保遠望(広重)

図-2  東海道五十三次 江尻・三保遠望(広重)


 
このように、中部は日本列島の交流の真っ只中に位置していた。
しかし、中部の特徴は、情報の交流だけではなかった。
 
中部は閉じこもる地域でもあった。
 
 

閉じこもる中部

中部は流通の中継だけを担ったのではない。
中部は物と情報の蓄積をもとに、新しいモノづくりへと向かって行った。
 
中部はそのモノづくりの拠点を持っていた。
それは中部の背後に並ぶ山々であった。冬になると深く雪に閉ざされてしまう山岳地帯こそ、中部のモノづくりの拠点であった。
 
中部には、岐阜と長野の山々が連なっている。
春から秋にかけて、中山道を人々は行き来した。
しかし、冬になると、この山岳一帯は雪に埋もれてしまった。
(写真-1)は、雪で閉じこめられた岐阜の飛騨である。
 

写真-1  雪の白川郷(岐阜県)

写真-1  雪の白川郷(岐阜県)
出典:空から眺める「世界遺産」(PHP研究所)


 
飛騨や長野の山々の人々は、3~4カ月間も雪に閉じこめられた。
雪に閉じこめられた人々は、囲炉裏の周りに集まった。
囲炉裏の側で全国から集まった物産や情報を取り出し「ああだ、こうだ」と議論が進んだ。
そして、木材を削り、木材でさまざまなモノを細工していった。
 
 

中部のモノづくり

中部の山々において、雪に閉じこめられて細工する人々が、世界の情報に出会ったのだ。
 
江戸時代、西欧の時計の機械を知った飛騨高山の人々は、その技術を人形に組み込んでいった。
木の歯車とクジラのヒゲのバネで、人形たちは動き出した。
木製の人形に命を与え、動きを与えていった。
それが「からくり人形」の誕生であった。
 
細工をする人は一人ではなかった。
雪の間、多くの家族が動く人形を作った。
春になると、町中でその人形の出来栄えを競って楽しんだ。
 
人形だけではない。
春の稲作に必要な農耕具が作られた。
それらは、春になると尾張や三河へ下っていった。
その工具や家具は精緻であったため、あっという間に広がって行った。
 
その精緻な細工技術は、中部地方一帯の人々の共通の財産となった。
 
 

近代のけん引力・中部

江戸が終わり明治になった。
近代工業化が最優先課題になった時、中部のからくり人形作りの技術は、豊田織機に引き継がれた。
豊田織機の初期の機械は、木製の歯車で造られた。
この織機が日本近代の繊維産業をけん引した。
(写真-2)は、からくり人形と豊田織機の木製の歯車である。
 

写真-2 豊田式自動織機

写真-2 豊田式自動織機:“第1号”の木製歯車(上)とからくり人形の歯車(下)
出典:「からくり人形の文化史」高梨生馬


 
この豊田織機の物づくりの延長に、世界に冠たる自動車のトヨタが生れていった。
 
これが「モノづくり中部」の地形と気象から見た物語である。
 
21世紀の現在、この中部には多くのモノづくりの特徴が残っている。
 
中部の人々は、習い事が好きだ。
中部の人々は、技術をマニュアル化し、それを皆の共有物にしてしまう。
 
今も中部は、日本のモノづくりの拠点となっている。
 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年10月号
月刊積算資料2014年10月号
 
 

最終更新日:2015-01-06

 

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