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ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 建築から眺める世界の都市 No.4 中欧 ウィーン(オーストリア) 前編
中欧 ウィーン(オーストリア)


様式の博物館

ウィーンは「様式の博物館」だ。
すなわち,さまざまなスタイルの一級品が並べられている。
どの時代が優れていて,どの時代が劣っているといった価値判断を行っていないように感じられる。
 
同じことが時間軸だけでなく,地理軸に対しても言える。
オーストリアという国家や特定の民族,あるいはウィーンという場所と照らし合わせた際に,様式の中から何を採るべきなのか,指導してくれるようなものではないのだ。
 
中世の共同体を反映したゴシック様式も,個人名を冠した文芸の偉人たちの活躍で知られるルネサンスのスタイルも,総合芸術としてのバロック様式にしても,同時期にできたものをこの街では鑑賞可能だ。
一つの建築に複数のスタイルを折衷したとしても,最上で唯一の解答を提出しようという雰囲気ではない。
 
文頭で「様式の博物館」と記したのは,そのような「公平さ」においてである。
博物館は良い。
すぐに役には立たないかもしれないけれど,楽しみがあって,古びない。
時代ごとに異なる発見を訪問者にもたらしてくれる。
19世紀の後半に完成したのは,そんなミュージアムのようなウィーンなのである。
 
これは,その後のモダニズムとは違って定見がない時代だったからそうなった,のではない。
博物館がそうであるように,背景には一定のイデオロギーが存在する。
 
さまざまな様式が並列している状況は,同時代―数十年遅れるが―の日本と一見,似ているようで,ずいぶん違う。
この点に留意すれば,ウィーンと日本との違いを超えて,19世紀後半という時代を捉える解像度が上がりそうだ。
さあ,ウィーンを巡ろう。

 
 

凍れる音楽

「リングシュトラーセ」という名称をロマンティックに感じるのは私だけだろうか。
1858年にウィーンの市壁の解体が開始され,緑地を伴った大通りに置き換えられた。
街を取り囲んでいた環状の存在は,往来を遮断するものから,それに沿って人が行き来するルートに変化した。
大通りに面して数々の公共建築が配置された。
巡るリングの輝きを引き立てる宝石のような建築が,一つまた一つと姿を見せていったのだ。
 
初めにお目見えしたのは「ウィーン国立歌劇場」(1869年)だった。
1860年のコンペによって選ばれた,共にウィーン美術アカデミー教授のアウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルクとエドゥアルト・ファン・デア・ニュルが設計を行った。
 
各階に柱とアーチが規則的に並んだ外観で,前期ルネサンス建築のパラッツォ(城館)を彷彿とさせる。
巨大な施設ではあるのだが,既存の都市になじむようにしたかったのだろう。
それでも正面では5連の大きなアーチが目を引く。
左右の騎馬像も勇ましい。
凱旋門のように高らかに,ここがイタリアとドイツのオペラの伝統を共に継承する殿堂であることを,周囲に告げているのだ。
 
ウィーン国立歌劇場のオーケストラがウィーン国立歌劇場管弦楽団であり,その団員が自主運営するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地として「楽友協会会館」(1870年)が建設された。
こちらは,より古代ギリシアの建築を彷彿とさせる。
 
設計者のテオフィル・フォン・ハンセンは,コペンハーゲンに生まれ,ギリシアのアテネで大学や図書館などを手掛けた後にウィーンで活躍した。
外観の付け柱は簡素でありながら,壁から独立した感を強く与え,一定のリズムで建物全体を律しているのが分かる。
古代ギリシアの神殿において,独立した柱とともに主たる構成要素になっているのがペディメントだ。
その三角形が最上部にあって,左右が対称である規則性を簡潔に表明している。
 
ペディメントのあふれんばかりの彫刻は古代ギリシアを手本としたもので,その下にある3連アーチは後の古代ローマの手法だが,ペディメントの人物像と各アーチ中央の立像は同じ性格を持っている。
言葉にすれば,躍動感と形式性との調和になるだろう。
これは建築全体が放つ特徴でもある。
 
ここにはフィレンツェを中心に建築の新たな構成を探求していた前期ルネサンスの若々しさと,「永遠の美」とされる古代ギリシアの規範とが軽やかに重ね合わされている。
優れた演奏は1回限りの生き生きとした生成であることと,永続的な形式であることを両立させることができる。
楽友協会会館は,そんな音楽を固形化したような建築だ。

リングシュトラーセの光景

リングシュトラーセの光景

リングシュトラーセ沿いに建てられた集合住宅

リングシュトラーセ沿いに建てられた集合住宅


ウィーン国立歌劇場

ウィーン国立歌劇場

5連のアーチを持つ正面

5連のアーチを持つ正面

建物脇の噴水

建物脇の噴水


周囲にはコロネードがまわる

周囲にはコロネードがまわる


楽友協会会館

楽友協会会館

正面のペディメントと3連アーチ

正面のペディメントと3連アーチ



 

古代ギリシアへの憧憬

楽友協会会館が開館する前年の1869年,ハンセンは栄誉ある「国会議事堂」(1883年)の設計を依頼された。
「リングシュトラーセ体制」というようなものがあるとしたら,これこそが最もふさわしい施設かもしれない。
なぜだろうか。
 
オーストリア皇帝であるフランツ・ヨーゼフ1世は1857年末,自らの意志としてリングシュトラーセの建設を命じた。
彼は旧体制の変革を求めて起きた1848年の三月革命の収拾を図れなかった叔父・フェルディナント1世から譲位される形で,18歳の若さで帝位に就いた。
 
三月革命の背景の一つが憲法制定を求める人々の声だったが,新帝は王権は神から与えられ,絶対のものだという思想を1916年に死去する最後まで捨てなかった。
憲法などには縛られない自らの意志によって,オーストリアを導きたかったのである。
1848年にいったん定められた憲法は,1851年大晦日の勅令によって廃止された。
 
しかし,フランツ・ヨーゼフ1世の新絶対主義は,1859年の第二次イタリア独立戦争における敗北,戦争に伴う財政状況の悪化,民族主義の高まりを受けて改革を余儀なくされ,1861年に勅令を発して事実上の立憲君主制に転じた。
 
そして,プロイセン王国との戦争に破れた翌年の1867年,三月革命以来の動揺は一応の安定に至る。
ドイツ統一の主導権を失ったオーストリアは,ハンガリーに名目的な独立を認める「アウスグライヒ」(妥協の意味)を結んでオーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねるオーストリア=ハンガリー帝国となり,本格的な立憲主義の憲法も発効したのである。
 
フランツ・ヨーゼフ1世にとっても「妥協」と呼べるこうした体制の下でリングシュトラーセ周辺の整備は進み,それは新しい帝国が確かな基盤の上にあると信じさせる装いとなった。
国会議事堂は,その機能においても威容においても,リングシュトラーセの性格を最も代表するものである。
 
選ばれたのは古代ギリシアの様式だった。
中央にある正面玄関は神殿そのもののようである。
左右に向け,一定の間隔で列柱が続く。
壁と妥協した角柱ではなく,それとは視覚的に切り離された円柱だ。
 
古代ギリシアの形が採用されたのは,そこにおいて民主主義が始まったとみなされているためである。
いわゆる「新古典主義」(グリーク・リヴァイヴァル)と呼ばれる様式だが,ともすれば陥りがちな画一的な威圧感ではなく,古代ギリシアに託した自由の感覚が確かに感じられる。
 
彫刻と共演した効果も大きいだろう。
正面には古代アテネのパルテノン神殿のためにつくられた女神アテナ像をもとにした大きな立像がある。
インターナショナルで躍動的な姿が正面玄関の固さを和らげる。
ペディメントの中心にはフランツ・ヨーゼフ1世に敬意を表してその姿が彫刻されているが,まとうのは古代ギリシアのゆったりとしたトガであって武威的ではない。
なお,皇帝は一度も議会に臨席することがなかった。
 
このようなリングシュトラーセ側から印象的な光景の奥に,機能的には中心となる議場が置かれている。
巨大なボリュームが隠されることで,古代ギリシアの明朗さは損なわれることなく,ただ上部に各々に違った彫刻がのぞくことで,思い思いの民主主義の殿堂であるイメージを高めている。
ギリシアで仕事をした設計者の造詣の深さは,様式の選択を必然的に感じさせる。

国会議事堂

国会議事堂


正面の立像とペディメント

正面の立像とペディメント

議場入口のバルコニーを支えるカリアティード

議場入口のバルコニーを支えるカリアティード

正面の左右に奥の議場がのぞく

正面の左右に奥の議場がのぞく



 

中世の市民自治の象徴

実はウィーンにおけるリングの輝きには,建築だけでなく,オープンスペースの働きも大きい。
多くの庭園や公園が整備され,市民に憩いを提供すると同時に,建築の威容を感じさせる視点を与えている。
 
国会議事堂の横に市庁舎公園が広がっている。
そのおかげで「ウィーン市庁舎」(1883年)の全体像がリングシュトラーセから捉えられる。
こちらは対照的に中世風の様式,「ゴシック・リヴァイヴァル」と呼ばれるものだ。
 
設計者であるフリードリヒ・フォン・シュミットは,シュトゥットガルトやケルンでゴシック建築に対する知識と興味を広げた後,ウィーン美術アカデミー教授に就任した。
ウィーンを代表する「シュテファン大聖堂」(12~14世紀)の修復にも携わり,名声を高めた。
 
ウィーン市庁舎の全体計画は,ブリュッセル市庁舎(1455年)などフランドル地方の市庁舎に範を取っている。
ヨーロッパの中でも都市の自治が早期に確立され,その象徴のように塔を抱いた市庁舎が建った地だからである。
そこにフランスの大聖堂に見られる一層繊細で規則正しいゴシックの意匠を加えた。
オープンスペースから近づいた時,次第に現れる細部は見応えのあるものだ。
 
ウィーン市庁舎に向き合っているのが「ブルク劇場」(1888年)で,国会議事堂の反対側には「ウィーン大学本館」(1884年)がそびえる。
これらもまた異なる時代に根ざした様式をまとっている。
 
次回もリングシュトラーセ沿いの建築を中心に紹介を続けよう。
そして,「様式の博物館」の意味を捉え,続く世代であるオットー・ワーグナーやアドルフ・ロースの仕事も見ていきたい。

ウィーン市庁舎

ウィーン市庁舎


塔の詳細

塔の詳細

ゴシック様式のトレーサリーが窓に用いられている

ゴシック様式のトレーサリーが窓に用いられている


シュテファン大聖堂

シュテファン大聖堂



 

倉方 俊輔(くらかた しゅんすけ)

1971 年東京都生まれ。建築史家。2021 年 10 月より大阪市立大学教授。早稲田大学理工学部建築学科卒業,同大学院修了。博士(工学)。近現代の建築の研究,執筆の他,日本最大の建築公開イベント「イケフェス大阪」実行委員会委員を務めるなど,建築の魅力的な価値を社会に発信する活動を展開している。著書に,『京都 近現代建築ものがたり』(平凡社,2021),『別冊太陽 日本の住宅 100 年』(共著,平凡社,2021),『東京モダン建築さんぽ』(エクスナレッジ,2017),『伊東忠太建築資料集』(監修・解説,ゆまに書房,2013-14),『吉阪隆正とル・コルビュジエ』(王国社,2005)など多数。日本建築学会賞(業績),日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。
 
 

北欧 ヘウィーン(オーストリア)

建築史家・大阪市立大学 教授
倉方 俊輔(くらかた しゅんすけ)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2022年夏号
建築施工単価2022年春号


 

最終更新日:2023-01-30

 

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