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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料公表価格版 > 特集 景観と文化の保全 > 昌平坂学問所と学びの地~学問がつなぐ街の歴史を訪ねて~

はじめに

春先の天気の良い週末、所用のため秋葉原を訪れた。
用件はすぐに終わったが、街は春の香が漂っており、このまま帰途につくのももったいなく感じられたため、少し界隈を散策してみることにした。
 
 

1.秋葉原からお茶の水へ

JR秋葉原駅の電気街口を出ると、かつては家電販売店や電気部品を扱う店が建ち並んでいたが、今はアニメやキャラクター関連ショップが真っ先に目に飛び込んでくる。
それらの店を目当てに日本人のみならず外国人の姿も多く見かけるが、その割合は東京のどこよりも濃密である気がする。
土日ともなればその賑わいは凄まじい。
新型コロナウイルス感染症の拡大による影響が街の賑わいを奪ってから3 年が過ぎたが、ようやく街に人が戻り、かつての賑わいを取り戻そうとしている(写真- 1)。
 
写真-1 秋葉原中央通りの様子
写真-1 秋葉原中央通りの様子
 
秋葉原の街を南北に貫く中央通りを渡り左手に向かうと、旧万世橋駅舎を活用したレンガ調の建物と万世橋、その下にはかつては江戸城外堀としての機能を担った神田川が見える(写真- 2)。
神田川の水面は透明とは言えないが、水辺は人々が行き交うその喧騒を一時、和らげてくれるようだ。
神田川に沿って歩いていくと、外堀通りと交差する交差点に差し掛かる。
交差点のすぐ横には神田川に架かる幅員の広い「昌平橋」、頭上には緑色の優美な二重アーチが印象的な「松住町架道橋」が迎えてくれる。
この2 橋が見える景色もまた秋葉原を象徴している(写真- 3)。
 

写真-2 万世橋駅舎跡と万世橋(下は神田川が流れる)
写真-2 万世橋駅舎跡と万世橋(下は神田川が流れる)
写真-3 昌平橋と松住町架道橋
写真-3 昌平橋と松住町架道橋

 
松住町架道橋の下をくぐるとそれまでの雑然とした店の連なりが途切れ、街は落ち着いた印象に変わる。
道は緩やかで長い上り坂となるが、坂の途中に「相生坂(昌平坂)」と書かれた看板を見つけることができる(写真- 4)。
歩みを進めると右手には手前に濃い緑の重なりと築地塀、奥には近代的な高層ビルが見えてくる。
手前は「湯島聖堂」、奥は東京医科歯科大学の校舎であり、どちらも江戸時代にこの地にあった昌平坂学問所の跡地に建っている(写真- 5、6、7)。
また神田川を挟み聖橋やお茶の水橋でつながる南側は駿河台となり、今では明治大学、日本大学など、数多くの学校が所在する日本有数の学生街である。
この辺りは昔も今も学問と深く結びついた土地である。
 

写真-4 昌平坂看板
写真-4 昌平坂看板
写真-5 湯島聖堂と東京医科歯科大学
写真-5 湯島聖堂と東京医科歯科大学
写真-6 名所江戸百景「昌平橋・聖堂・神田川」(※)(特徴的な築地塀が描かれている)
写真-6 名所江戸百景「昌平橋・聖堂・神田川」(※)
(特徴的な築地塀が描かれている)
写真-7 湯島聖堂(仰高門)
写真-7 湯島聖堂(仰高門)

 
 

2.昌平坂学問所と湯島聖堂

「昌平坂学問所の跡地に建っている」と前述したが、昌平坂学問所は上野忍ケ岡にあった孔子廟(幕臣である林羅山邸宅内に建てられていた)を徳川5 代将軍綱吉の時代に現在の地へと移し、敷地を拡大・整理した上で幕府の学問所としたことが始まりである。
その時点では「(湯島)聖堂」と呼ばれており、11 代将軍家斉の時代にさらに規模を拡大して「昌平坂学問所」となったため、正しくは「湯島聖堂の規模が狭められる前の跡地に建っている」となる。
「昌平坂」という名前は儒学の祖である孔子の生誕地、中国魯の国の「昌平郷」からとられたという。
以降、江戸幕府の最高学府として幕臣のみならず他藩の武士も学ぶことができ、数多くの知識人、賢人を世に輩出、この地に学問が根付いていくことになった。
 
江戸名所図会に残る「聖堂」の様子は、昌平坂の奥に「入徳門」「杏壇門」「大成殿」が描かれているが、現在の東京医科歯科大学の辺りは「此辺学問所」と書かれるのみで詳しくは描かれていない(写真- 8)。
 
明治維新後は「昌平学校」「大学本校」と名称を変えた後、明治4(1871)年に廃校となるが、その跡地には明治5(1872)年に「師範学校」(のちの筑波大学)、明治8(1875)年に「東京女子師範学校」(同お茶の水女子大学)が設立され、学びの地としての歴史は続いていく(写真- 9、10)。
明治8(1875)年には「順天堂」(のちの順天堂大学)が隣接地に、「師範学校」「東京女子師範学校」が移転した後の昭和5(1930)年には「東京高等歯科医学校」(のちの東京医科歯科大学)が両校跡地に移転し、現在に至る。
 

写真-8 江戸名所図会「聖堂」(※)(赤枠内に「此辺学問所」とある)
写真-8 江戸名所図会「聖堂」(※)
(赤枠内に「此辺学問所」とある)
写真-9 高等師範学校(※)(「師範学校」は明治19(1886)年に「高等師範学校」に名称変更)
写真-9 高等師範学校(※)
(「師範学校」は明治19(1886)年に「高等師範学校」に名称変更)
写真-10 東京女子師範学校(※)
写真-10 東京女子師範学校(※)

 
「聖堂」が置かれた地には「大学本校」廃校後も建物は残り、大正11(1922)年には国の史跡に指定されたが、翌12(1923)年の関東大震災で「入徳門」と「水屋」のみを残して震災に伴う火災で失われた(写真- 11、12)。
現在の建物は昭10(1935)年に東京帝国大学工学博士であった伊藤忠太名誉教授の設計によりRC造で再建されたもので、第二次世界大戦でも失われずに今もその姿を私たちに見せてくれている(写真- 13)。
建物の屋根両端には頭は龍、尾は魚の「鬼犾頭(きぎんとう)」という想像上の霊獣が乗せられており、頭からは勢いよく水を噴き上げ、火災から建物を守っている。
棟には鬼龍子(きりゅうし)も乗せられているが、どちらも伊藤名誉教授が関東大震災で焼け落ちたものを新たにデザインして再現したものだそうだ(写真- 14)。
なお、伊藤名誉教授の設計した建造物は東京都慰霊堂、東京都復興記念館や築地本願寺など東京都内で震災以後に復興された建造物として都内に数多く残されている。
 

写真-11 湯島聖堂内入徳門
写真-11 湯島聖堂内入徳門
写真-13 湯島聖堂内大成殿
写真-13 湯島聖堂内大成殿

 

写真-12 湯島聖堂内水屋
写真-12 湯島聖堂内水屋
写真-14 大成殿鴟尾の鬼犾頭と鬼龍子
写真-14 大成殿鴟尾の鬼犾頭と鬼龍子

 
 

3.神田明神から湯島、本郷へ

「湯島聖堂」から昌平坂をもと来た方向に下ると「湯島聖堂」の敷地が切れる丁字路に湯島方面へとつながる坂と出会う。
坂下には「古跡昌平坂」とあり、こちらの坂も昌平坂と呼ばれていることに気づく(写真- 15)。
先ほど通り過ぎた昌平坂の看板を見直してみると、「昌平坂」とは本来はこの南北に伸びる坂を指し、お茶の水と秋葉原をつなぐ東西に伸びる坂は「相生坂」と呼ばれていたようだが、後年、どちらも「昌平坂」と呼ばれるようになったことが書かれてある。
さらに言えば、江戸寛政年間に元々の「昌平坂」が「湯島聖堂」内に取り込まれたことで南北の坂を「昌平坂」と呼ぶようになったとあるため、「昌平坂」と呼ばれる坂はこの付近に全部で3 箇所あったようだ。
坂を上った先は神田明神通りに出、名前の通り江戸総鎮守として篤く保護された「神田明神」、正式には「神田神社」が近い(写真- 16)。
 

写真-15 古跡昌平坂
写真-15 古跡昌平坂
写真-16 神田明神通り(右中ほどに鳥居が見える)
写真-16 神田明神通り(右中ほどに鳥居が見える)

 
この神田神社は、元々は武蔵国豊島郡芝崎村、現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺に創建され、江戸城の拡幅工事に伴い、慶長8(1603)年に神田台へ、さらに元和2(1616)年に江戸城の鬼門に当たる現在地へ移されたそうだ(写真-17、18)。
 

写真-17 神田神社と参道
写真-17 神田神社と参道
写真-18 神田神社社殿
写真-18 神田神社社殿

 

坂が多いのはこの辺りが本郷台地の南端に近いためだろう、周辺を歩くとすぐに坂にぶつかるため、崖や谷が複雑に入り組んでいることがわかる。
神田神社東側の男坂などはかなりの急坂であり、登ると息が上がる(写真- 19)。
ここより北に向かうと地番は湯島へと変わり、その先には「湯島天神」、正式には「湯島天満宮」が鎮座し、特に受験シーズンには学生達の姿で境内は溢れかえる。
訪れた時期は試験もほぼ終わりに近く、無事に志望校に合格した学生がお礼参りに訪れていた(写真- 20、21)。
「湯島天神」の創建は雄略天皇2(458)年と伝わり、以来、学問を志す人々の崇拝を集めている。
湯島天神は本郷台地の東端に位置し、境内から御徒町方面に向かう東側には天神石坂(男坂)、不忍池に向かう北側には天神夫婦坂の階段から切通坂が続き低地に出る(写真- 22、23)。
逆に西側に足を向けると本郷方面につながる。
本郷の地名は、今まで歩いてきた湯島の地「湯島郷」の中心として「湯島本郷」と呼ばれていたものが、略されて本郷と呼ぶようになったという。
本郷周辺までくると再び学生街の香りが漂ってくる。
その香りの元は言うまでもなく、東京大学の存在故であろう。
 

写真-19 神田神社男坂
写真-19 神田神社男坂
写真-20 湯島天神本殿
写真-20 湯島天神本殿
写真-21 本殿前の奉納絵馬
写真-21 本殿前の奉納絵馬
写真-22 天神石坂(男坂)
写真-22 天神石坂(男坂)
写真-23 天神夫婦坂と切通坂
写真-23 天神夫婦坂と切通坂

 
東京大学本郷キャンパスが建つ敷地は加賀前田藩の上屋敷であることは周知の事実であるが(写真- 24)、東京大学は前述の「大学本校」が設立された際、種痘所から始まり医学校を前身として設立された「大学東校」、天文方から始まり開成学校を前身として設立された「大学南校」が明治 10(1877)年に統合され発足した。
直接的な関わりはないものの、江戸、昌平坂学問所の残り香を感じ取ることができよう。
 
写真-24 古地図上の本郷界隈(※)(左下赤枠に「聖堂」,中央赤枠が加賀前田藩邸)
写真-24 古地図上の本郷界隈(※)
(左下赤枠に「聖堂」,中央赤枠が加賀前田藩邸)

 

4.昌平童夢館

本郷・湯島からの帰り路、台地から低地に下りて秋葉原方面へと向かう。
街中にはマンションや新しい建物が目立つが、街を南北に貫く中央通りを避けて裏通りに入ってみると、存外、昭和の趣を残す建物が多いことに気づく。
東京の中心地ではあるものの、賑わいの中に人々の生の暮らしを感じることが出来、懐かしい気分にさせてくれる。
神田神社近くの外神田辺りまで戻ってみると子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきた。
そう大きくはないが公園があり、子どもらが遊んでいる。
目の前の建物は石積み調の外面に窓が大きくとられた瀟洒な造りで、看板を見ると「昌平童夢館」とある。
調べてみると「千代田区立昌平小学校」「同・昌平幼稚園」「同・神田児童館」「昌平まちかど図書館」等がまとまった複合施設であった(写真- 25)。
「昌平」という地名が冠されているが、調べてみると住所表示の外神田3 丁目辺りは神田金沢町、神田末広町等が旧地名であり、「昌平」とは直接的には関係がないようだ。
とは言え、冒頭から述べてきたようにこの辺りは江戸期から続く学びの歴史が連綿と受け継がれており、「昌平」という伝統ある名前を冠するにふさわしい現代の学びの地であろう。
 
写真-25 昌平童夢館案内板
写真-25 昌平童夢館案内板
 
 

5.建物概要

昌平童夢館は平成8(1996)年に竣工し、以後、地域の子どもたちの小学校生活までの大切な学びの場として機能している(写真- 26)。
また幼稚園、小学校のみならず大人たちが学ぶ図書館としても機能している。
児童が利用する学校図書館と地域住民が利用する公立図書館とが一体的な施設として活用されており、「書」「本」に触れること、すなわち「知」に触れる貴重な場となっている。
建物は地上6 階、地下2 階のSRC造で、地下2 階には可動床式温水プール施設、最上階の6 階は全天候型舗装が施された学校校庭で、屋根部は全面ガラス貼の可動式ドームであるため、天候に左右されずに利用することができる。
最上部外観は同じ「昌平」を冠する「昌平橋」のアーチをモチーフとしたデザインとなっており(写真- 27)、長い歴史と文化の担い手の一員として存在している。
竣工から25 年が経った令和3(2021)年には、 建物外面のタイル板剥落の危険を防ぐために外壁改修工事が行われた。
建物を供用しながらの施工であったため、乳幼児のお昼寝タイムを避けた時間帯に、大判タイルの部分的な剥落を防ぐためのピンネット工法(アドグラピンネット工法)にて剥落を防止した後、特長的な既存の砂岩人造タイルの意匠をそのまま残す改修工事を行った。
これは石材調に仕上げることのできる天然砂岩調塗装(アドグラ)を施すもので、竣工直後の美しい外観が再現され、歴史あるこの地の景観保全に大いに貢献することができた。
なお、施工の際は水性材料を極力用いることで臭気対策にも取り組み、昌平童夢館を利用する子どもたちや地域住民の方々に配慮した(写真- 28)。
 

写真-26 昌平童夢館全景
写真-26 昌平童夢館全景
写真-27 最上部のアーチ
写真-27 最上部のアーチ
写真-28 昌平童夢館を南側から
写真-28 昌平童夢館を南側から

 
 

おわりに

日本各地の街の成り立ちはさまざまだが、そのほとんどが長い歴史を持ち、その歴史によって土地の文化が育まれていく。
関東大震災、第二次世界大戦によって大きな被害を受けた東京も歴史が持つ力によってその度に復興を遂げ、今の繁栄がある。
冒頭の秋葉原の賑わいは、歴史によって育まれた今の日本の文化が日本のみならず外国の人々をも魅了し、この地に引き付けていることの現れであろう。
 
昌平坂学問所にまつわる地域には、現在でも学びの歴史と文化が息づいている。
ただ、それは歴史と文化を大切に守り続けていこうと努力する、地域に住まう人々や行政、それを応援する人々なしではあっという間に形を変えてしまい、気付いたときには何も残っていないかもしれない。
一方で守り続けていくためにはそこに住み続けられる安全や価値が必要となり、災害が多発する現在においては、地域の人々が安心して暮らしを続けていけるか、という点にも着目する必要がある。
 
目に見える形で歴史や文化が残るものもあれば、雰囲気や土地柄のように目に見えなくてもまた残り続けていくものもある。
千代田の地はそれらが複雑に絡み合い、しっかりと息づきながらこれからも残り続けていくに違いない。
 
 
【出典】(※)は全て国立国会図書館蔵
 
 
【出典】


積算資料公表価格版2023年5月号

積算資料公表価格版5月号

最終更新日:2023-06-23

 

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