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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第29回 歴史から生まれた近代インフラ ー京都の電気路面車ー

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 技術参与
竹村 公太郎

 


 
明治の土木技師、田邉朔郎(たなべさくろう)は、土木界では最も有名な技師の一人である。
日本が明治になり、近代に向ってばく進していった時代、琵琶湖疏水工事を計画し、それを実施した土木責任者である。
 
大学を卒業して直ちにこの事業の責任を負った田邉の若さと、琵琶湖疏水の大規模な土木工事の成功が高く評価されている。
 
田邉には、一般には伝わっていないもう一つの素晴らしさがある。
それは、日本の古い歴史を、近代の最先端技術として姿を変えて登場させたことである。
 
そのことに気が付いたのが、新幹線の中で食べた弁当の包み紙の絵であった。
 

大津の宿

桜が満開の4月、新大阪行きの新幹線で幕の内とお茶を購入した。
その弁当の蓋の表紙は、広重の東海道五十三次が並んでいた。
いかにも東海道新幹線らしいデザインであった。
名古屋を過ぎて関ヶ原あたりで幕の内を開いて食べはじめた。
食べながらその幕の内の蓋の表紙に見入ってしまった。
 

写真-1 名古屋で購入した幕の内弁当

写真-1 名古屋で購入した幕の内弁当


 
その弁当の蓋の五十三次が(写真-1)である。
隠れている絵が多いが、間違いなく東海道五十三次であった。
ただし、江戸の日本橋と京都の三条大橋はない。
日本橋と三条大橋の2枚は、旅の風景ではないから除かれたのだろう。
 
見入ってしまったのは、今、新幹線が通り過ぎようとする「大津」であった。
 
広重の東海道五十三次は、もう何度も見ている。
ただし、五十三次を見るのは、どうしても日本橋からになってしまう。
品川、神奈川、箱根、大井、桑名…と京都に近づくにつれ目線は早送りになる。
京都の手前の大津宿までくると、視線はすぐに最後の京都・三条大橋へ飛んでしまう。
そのためか、大津宿の記憶はいまひとつ曖昧で、はっきりした構図で頭に残っていなかった。
 
それが気になって、幕の内の蓋を改めて見直したのだ。
 
蓋の表紙の絵は小さいが、構図は十分把握できた。
 
大津宿の絵を見続けているうちに、一つの歴史を思い出した。
 
江戸時代、日本最古の線路がこの大津から誕生していた。
 
 

大津宿

この大津宿では、牛車が3台連なっている。
絵には3台だけしか描かれていないが、次々と牛車が連なって通り過ぎていく様子がよく分かる構図だ。
 

図-1 東海道五十三次 大津・走井茶屋 広重

図-1 東海道五十三次 大津・走井茶屋 広重


 
(図-1)が東海道五十三次の最後の大津・走井(はしりい)茶屋である。
 
この絵には、描いた広重自身の驚きが率直に表れている。
なんと多くの牛車が次から次へと京に向っていくのか、という驚きである。
 
広重は、東海道五十三次の品川宿と神奈川宿でも驚きを描いている。
品川宿と神奈川宿では多くの船を描いている。
そのことで、なんと多くの船が次々と江戸に向っていくのか、という驚きを表現していた。
 
この絵で広重は、大津の特徴を十分に伝えている。
その大津の特徴とは、日本列島の地形の中心であり、京への東の玄関口であったことだ。
 
「広重は東海道五十三次を想像で描いた」との説がある。
しかし、この大津宿のあふれんばかりの牛車の列を、想像だけでは描けない。
やはり、広重は実際に見た大津の驚きを素直に描いたのだろう。
 
 

日本列島の焦点・大津

大津は、日本の歴史で重要な土地であった。
 

図-2 京都への東の玄関口:大津

図-2 京都への東の玄関口:大津


 
西日本と東日本、そして日本海側と太平洋側の結節点が、大津である。
日本の歴史は、この大津を通る交流軸で展開していった。
 
中仙道で江戸から京都に向かうと、岐阜、関ヶ原を過ぎ琵琶湖に出て、大津に到る。
東海道で江戸から京都に向かうと、桑名、四日市、亀山そして鈴鹿峠を越え琵琶湖に出て、やはり大津に到る。
 
街道を行く人々だけではない。
全国各地の物資も大津に到る。
東国から太平洋沿岸航路を来た船は、三重県の津に停泊する。
荷物はここで陸揚げされ、東海道の鈴鹿峠を抜け大津に到る。
船で紀伊半島を回り込むルートもあるが、そこには難所の潮岬が待ち構えている。
そのルートは風任せで、500km以上も大回りすることになる。京都へ急ぐのなら直線距離70kmの陸路が、安全で早く確実であった。
 
日本海側の航路でも同じであった。
北海道、東北、北陸から南へ向かった船は敦賀湾に入る。
そこから物資を陸に揚げて、牛車に乗せて、敦賀から峠を越えると琵琶湖に出る。
琵琶湖の水運を利用すれば、簡単に大津に到る。
 
日本列島の東と北から、人々と物流が集まる土地が大津であった。
レンズの焦点で光が集中するように、大津は日本の物流の焦点であった。
 
広重はこの大津の特徴を、賑わう牛車の列で表現した。
 
 

逢坂の峠

京都と大津は直線距離で数キロで、目と鼻の先にある。
しかし、その間には峠があった。逢坂であった。
 
昔から逢坂は、京を防衛する要であった。
戦国時代、この逢坂を越えた者が天下を制した。
平和な江戸になると、京へ向う旅人と物資はこの逢坂を越え、京から出る人もこの逢坂を越えて行った。
 
この峠越えは、人々にとってはそれほど苦ではない。
もっと難所の峠はいくらでもあった。しかし、問題は牛車であった。
 
雨が降ると峠の道はぬかるんだ。
そのたびに、牛車は立ち往生した。
砂利を敷き詰め固めたが、少しでも大雨が降れば小石は流出し、牛車の通行は途絶えた。
 
逢坂は道のぬかるみ以外にも、難問を抱えていた。
 
それは、旅人の賑わう狭い逢坂で、牛を冷静に歩行させるという難問であった。
 
 

牛の制御

牛は力強く持久力がある。車を引く動力としては最適であった。
 
しかし、動力としての牛は弱点を持っていた。
通行中、暴れてしまうという弱点であった。
日本人は、牛を完全に制御することはできない。
 
奈良時代、大陸から日本に牛車が入ってきた。
日本人はその牛車をまねた。しかし、大陸の牛車に関して、もう一つの技術をまねなかった。
その技術は去勢であった。
 
日本人は牛に「花子」とか「太郎」というように人間の名前を付け、家族にしてしまった。
家族になった牛に去勢を施せない。
 
去勢を施さない牛は危険だ。
発情期だけではない。
人が賑わう場所では思わぬ刺激で暴れだす。
牛が暴れると手に負えない。
平安絵巻を見ても、
牛車が暴走して人々が大騒ぎしている場面が多い。
 
旅人や牛車がひしめく逢坂で、牛が暴れれば大事故となる。
 
雨が降ってもぬかるまない道。
人波の中でも牛が静かに歩行できる道。
このハードとソフトの課題を一挙に解決する知恵が生まれた。
 
日本で初の線路が、この逢坂で誕生した。
 
それが「車石(くるまいし)」であった。
 
 

線路の誕生

文化2(1805)年、京都の心学者・脇坂義堂が一万両を投じて建設したのが「車石」である。
 

図-3 逢坂の車石

図-3 逢坂の車石
出典:国土交通省近畿地方整備局


 
(図-3)は国道1号線の脇にある車石の説明図であり、(写真-2)が「料亭かねよ」の庭に展示されている車石である。
 
写真-2 逢坂の車石

写真-2 逢坂の車石
出典:料亭かねよ


 
轍(わだち)の溝を彫った花崗岩が敷き詰められた。
これは、ぬかるみでも滑らないで通行するためと説明されている。
しかし、この車石は、単なる牛車の滑り止めではなかった。
日本史上、最初の線路であった。
 
線路と言い切る根拠はある。
その根拠は、この車石は人々の歩く路面から分離されていたのだ。
人々が歩く路面から一段掘り下げた溝の中に敷き詰められたのだ。
 
溝の中を牛が歩めば、人との接触はなく、刺激も受けない。
もし、万が一興奮しても、溝の中の牛は暴れようがない。
 
図-4 逢坂の車石

図-4 逢坂の車石
出典:走り井餅本家のHP


 
それが描かれているのが(図-4)である。
広重の大津宿で描かれた走井茶屋の(株)走り井餅本家のHPに掲載されている。
 
牛が隠れるほど深い溝の中を、牛車の列が坂を登っていく。
人々と牛車は完全に仕切られている。
それは、明治近代化のシンボルの蒸気機関車の線路が、人との接触を避けるため柵で仕切られたのと同じであった。
 
車石が線路であった根拠が他にもある。
この車石は、逢坂だけに設置されたのではない。
京都側で逢坂を下りて市内の三条まで車石は延長された。
総延長12kmにも達する立派な路線であった。
さらに、当初この線路は昼間だけの交通であったが、常夜燈が設置されてからは昼夜を通して人と牛車が行き交った。
 
明治に入っても、京都市内や逢坂の線路は存在感を示していた。
 
 

水力発電への挑戦

写真-3 田邉朔郎

写真-3 田邉朔郎


明治2(1869)年、都が京都から東京へ移った。
衰退していく京都の産業を振興させようと、琵琶湖からの疎水事業が実施された。
 
琵琶湖の水を京都へ引き、水道や繊維産業の動力に水車を利用しようとするものであった。
その事業を任されたのが、
東京工部大学校(現:東京大学工学部)の若冠21歳の土木技術者・田邉朔郎であった(写真-3)
 
明治18(1885)年、困難な疎水の大工事が起工された。
その事業の真最中の明治21(1888)年、米国からあるニュースが入ってきた。
世界初の水力発電の報であった。
田邉は直ちに米国に向かった。
 
米国で水力発電を視察した田邉は、水力発電の可能性を見抜いた。
帰国した田邉は、琵琶湖疏水の水車の計画を、水力発電による「電気」に変更した。
 
しかし、計画の大幅な変更と、日本で未だ経験のない水力発電の実用化には、社会的課題と技術的課題の壁が立ちふさがっていた。
ところが、それらの困難を乗り越えていく強い動機が京都にはあった。
 
それが、牛が引く車石の線路であった。
 
 

田邉の信念

田邉朔朗は大学在学中から、京都と琵琶湖の間を歩き琵琶湖疎水計画を立てた。
京都に赴任してからも、数え切れないほど京都と琵琶湖の間を往復した。
 
京都と滋賀を往復するたびに、田邉の脇を進んでいたのが、車石線路の牛たちであった。
 
田邉は、車石線路で息を切らして荷物を引く牛を見て、牛の動力の代わりに横浜〜新橋間で開通した蒸気機関を頭に思い浮かべていた。
その田邉が、力が強く、制御しやすい電気と出会った。
 
産業や運輸の動力を電気にする。
車石線路を日々見ていた田邉にとって自然な発想であった。
田邉の発想を聞いた京都の人々も、それを自然に受け止めた。
 
電気が牛の代わりの動力になるのなら、計画を変更しよう。
牛に代わって人間が自由に制御できる動力さえあれば、線路を京都市内のどこにでも配置できる。
電気という動力に挑戦しようという思いが一致した。
 

写真-4 四条大橋を走る市電(大正初期〜昭和初期)

写真-4 四条大橋を走る市電(大正初期〜昭和初期)
黒川翠山撮影/京都府立総合資料館所蔵


 
明治24(1891)年、琵琶湖疎水と蹴上(けあげ)発電所が完成した。
その4年後の明治28(1895)年、京都市内で日本初の電気の路面電車が運行した。
(写真-4)が日本初の京都市の路面電車である。
 
日本社会の動力が、牛馬から電気に移行する決定的な瞬間であった。
 
このようにして、近代日本の発展をリードした「電気」は、京都の歴史の中で生まれていった。
 
 
田邉は日本文明の舞台に水力発電を初めて登場させた。
そして、彼は歴史の中で育まれていた逢坂の車石を、路面電車に姿を変えさせて登場させた。
 
京都の線路「車石」がなかったら、路面電車の登場はもっと先送りにされていた。
 
京都の古い歴史が、近代の最先端技術を生んだのであった。
 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2015年1月号
月刊積算資料2015年1月号
 
 

 

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