- 2015-05-08
- 建築施工単価
准教授 安野 彰
日本近代における製鉄技術の獲得
日本にも古代から各地で製鉄が存在した。
良質の山砂鉄を原料とする中国地方のたたら製鉄が代表的だが、砂鉄や鉱石は、近江、美作、東北地方などでも産出されていた。
鉄が、武器や建築の補強材など様々に用いられてきた歴史は、ヨーロッパなどと同様のものがある。
鎖国状態にあった江戸期においても製鉄技術の理解が進むが、徳川吉宗による洋書の禁緩和で海外からの情報摂取は一層盛んになる。
そして幕末以降は、植民地化の危機に臨み、すでに鉄による近代文明を展開させ、
錬鉄から鋼鉄への移行期にあった欧米の先進技術から多くを学び実践に移すことが急務になった。
幕府と有力諸藩が共に軍事の近代化を急いだ時代、より高性能の大砲を造るため、錬鉄に精錬するための反射炉が各地に建設されたが、
これを稼働して目的を達するには、二次原料となる良質の銑鉄が必要であった。
一時はたたら製鉄にこれを求めたというが、結局は条件を満たせず、外来船を介した輸入に頼らざるを得ない状況があった。
そこで、自前の洋式高炉による製造が目指され、薩摩藩の集成館(1854年)や南部藩の釜石(1858年)で実現される。
釜石の高炉は同藩の大島高任が主導するが、彼は、これを飽くまで「日本式高炉」と呼んだそうだ。
そこで製錬された銑鉄は、海路にて水戸藩の反射炉へ送られた。
この反射炉も、藤田東湖に招かれて大島が手掛けたものだ。
一方、幕府は1855(安政2)年、オランダ人技術者の指導で長崎に海軍伝習所を設けて海軍、鉄道、造船等の教育を開始するが、
艦船修理の必要が生じるなどして、製鉄所(図-10・1861年)の建設に至る。
当時の製鉄所は、鉄をつくるだけでなく、その加工や組み立てまで、関連する様々な技術が実践される場所であった。
そこでは、艦船のみならず、橋梁、建物の一部などが組み上げられることになる。例えば長崎製鉄所では、1867(慶応3)年、
伊王島の鉄造灯台建設に関与し、翌年に日本初の錬鉄橋「くろがね橋」を製作している。
長崎に続き、幕府は1865(慶応元)年、フランス人造船技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーを招き、
江戸に近く、フランスの軍港ツーロンに似た横須賀に製鉄所を建設する。
維新を経た1871(明治4)年に錬鉄、鋳造、製鋼などの工場、学校、住宅などが竣工し、横須賀造船所と改称した。
なおヴェルニーは、パリの名門理工科学校エコール・デ・ポリテクニク出身のエリートである。
そして、明治政府は富国強兵の必要から、官営による一貫した製鉄を試みる。
しかし、外国人技師を招くも、欧米とは環境の異なる中、単純な技術移転という訳にもいかず、失敗が続く。
一時は大島が興した釜石や民間鉄山を受けて群馬県甘楽郡に整備した施設も廃業に追い込まれてしまう。
しかし、製鉄技術獲得への努力は、陸海軍の各工廠においても続けられた。
海軍ではドイツのクルップ社に大河平才蔵を派遣するなどしている。
釜石では、陸海軍御用達商の田中長兵衛が、大島の洋式高炉を再開させた。
こうした1890年代までの取り組みが、1901(明治34)年の官営八幡製鉄所開設へと結びついた(図-11)。
築地海軍兵器局の向井哲吉は、大河平の門下で、後に官営八幡製鉄所へ赴くことになる。
当初の八幡では、日本産材料の知識が不足していた外人技師の過信などもあって失敗が続いたが、
技術者達の実践的かつ的確な対処の結果、1904(明治37)年7月、一時は吹止めとなった高炉の再操業にこぎ着ける。
以降は銑鉄、鋼材の生産を急速に増やすことに成功し、日露戦争後の1908(明治41)年の鋼材生産高は、
創業当初の目標年産9万t を超え、1910(明治43)年には黒字経営を実現するのである。
八幡製鉄所の開設に前後して、住友鋳鋼場、神戸製鋼所、川崎造船所兵庫工場など民間製鉄所の設立も相次いだ。
かくして鋼材生産は、1925(大正14)年以降輸入を上回り、1929(昭和4)年には民間の生産が八幡のそれを超え、
1932(昭和7)年にはほぼ自給可能な状態となる。
生産が拡大する過程では、安価なインド銑鉄や良質なアメリカ産鉄屑の輸入に頼りがちだったが、1937(昭和12)年以降は、
鉄屑製鋼からの脱却も目指された。
幕末から明治中期の鉄と建築
このように、日本は製鉄技術の獲得を着実に成し遂げていったが、
製品の多くは、軍需や船舶、鉄道などのインフラに優先的に用いられ、
明治期においては、通常の建築物に使用される量はそう多くなかったようだ。
したがって、鉄造の構造物や建築は、国産化が軌道に乗るまで、主として工場をはじめとするインフラの一部として現れる。
早い例は、前記した長崎製鉄所の施設であろう。
1861(文久元)年に轆轤(ろくろ)盤細工所、鍛冶場、鋳物場などが完成しているが、このうち轆轤盤細工所は、
煉瓦壁に鉄製のトラスを載せた、日本で最初の本格的な洋風建築の工場で、内部の柱も鉄であったと指摘される(図-12)。
また、鹿児島の集成館紡績所(1867年)についても「石造鉄柱平屋建」と文書にあり、柱が保存されているため、
鉄が構造材として使用されていたことが分かる。
また、同様に薩摩藩によって1866(慶応2)年に起工され、1869(明治2)年1月に操業を開始する長崎の小菅修船場は、
長崎製鉄所に買い取られるが、ここに残された捲上げ小屋は、
煉瓦壁に鍛鉄棒のトラス小屋組と鋳鉄製の敷桁などの鉄材が用いられている。
先進地長崎では、維新の前後から、その雛形が存在していたのである。
明治政府が建設し、鉄材が使われた施設では、
トーマス・ジェームズ・ウォートルスが手掛けたとされる大阪造幣寮の鋳造場(1871年)が挙げられる。
石造外壁の内側に鉄柱を立て、屋根にも鉄板が用いられた。
また、工部省灯台寮に雇われたリチャード・ヘンリー・ブラントンは、佐多岬(1871年)、羽田(1875年)、
烏帽子島(1875年)などに鉄造の灯台を手掛けている。
建築ではないが、橋梁も都市風景の中で目を惹く鉄製の構造物である。
まず、前記した長崎のくろがね橋に続き、横浜の吉田橋(1869年)、大阪の高麗橋(1870年)、
東京の新橋(1871年)が早くも鉄橋として架け替えられる。
1887(明治20)年、隅田川の浅草付近に架けられた吾妻橋は、東京名所となった(図-13)。
鉄道では、1874(明治7)年、大阪-神戸間で最初の錬鉄トラス橋が武庫川に架けられる。
また、新橋-横浜間を複線化する際、1877(明治10)年から2年半かけて新設された六郷川鉄橋は、
錬鉄製ワーレントラス6連で竣工する。
そして、この頃、新橋鉄道寮内には、鋳鉄柱を外観に見せる工場が建設されている(図-14)。
鉄柱を外観に見せる点は、それまでの鉄造建築に無い特徴であろう。
ちなみに、日本初の鋼鉄橋は、1889(明治22)年、東海道線で天竜川に架けられた。
都市の建築では、鉄が煉瓦造建築の弱点を補う役割を果たす(本連載その4、2013年夏号を参照)。
まず、フランスの技術者ジュール・レスカスが考案した碇聯(ていれん)鉄構法がある。
1877(明治10)年に母国の土木学会で発表されたが、これに先駆けて、
彼が東京で手掛けたニコライ邸(1875年)で採用されたと云われる。
同構法は、煉瓦壁の中に水平方向の帯鉄を根積部、床部、壁頂部に敷き、
それらを縦方向の鉄棒で繋ぐもので、耐震を目的とした。
このような鉄の用い方は、1891(明治24)年の濃尾地震を契機に注目され、
ドイツから招かれたエンデ&ベックマンによる法務省旧本館(1895年)や旧最高裁判所(1896年)に施されていたことが確認されている。
そして、これらの工事に携わった妻木頼黄は、
以降に自身が設計する東京商業会議所(1899年)や旧横浜正金銀行本店(1904年)などでも同様の補強を採用した。
鉄による煉瓦壁の補強は、ジョサイア・コンドルも早くから言及していたとされ、1894(明治27)年に竣工した三菱一号館でも、
開口部上下の帯鉄が確認される。
また、欧米と同様に、煉瓦造や石造建築の火災に対する予防も鉄材が担った。
木造床に代わる鉄梁防火床の採用である。
上記の三菱一号館は最初期の例で、床は英国ドーマン・ロング社製I型鋼の梁の間に、
独国カンマーリッヒ社製の波板鉄板をアーチ状に挟んでいる。
こうした防火床の構造は、辰野金吾による日銀本店(1896年)、河合浩蔵による大阪控訴院(1900年)など当時の主要な煉瓦造、
石造の建築には多く見られた(図-15)。
一方、製鉄所や造船所の系譜に連なる各地の海軍工廠では、
1890年代から、鉄骨煉瓦造もしくは鉄骨造の建築が日本人の手で造られるようになっていた。
鉄を主構造としている点で、煉瓦造を前提とする碇聯鉄構法とは根本的に異なる。
中島久男博士によれば、1891(明治24)年に竣工する横須賀の機械工場が最も早い事例だが、
6tスチームハンマーの設置に要する天井クレーンを支持するため、強度のある鋳鉄柱が求められたことがきっかけという。
こうした建築は、横須賀、呉、佐世保、舞鶴のほか、海軍と協力関係にあった室蘭の日本製鋼所にも継続的に建設されていった。
現存する遺構としては、舞鶴の魚形水雷庫(図-16・1903年)などがある。
また、日清戦争後には、ニューヨークのアメリカン橋梁社、日露戦争後には、英国のドーマン・ロング社が設計に関わるなど、
新技術の導入が図られた。
軍事力増強のため、工場建築の刷新が急がれたためである。
その過程で、建築界からは、渡辺譲、桜井小太郎、浜田銀次郎らが欧米各国に派遣され、建設技術の獲得に尽力した。
地上3階建てで、日本初の本格的な鉄骨造建築とされるのは、
1894(明治27)年、東京京橋の西紺屋町に建設された秀英舎印刷工場である(図-17)。
当時の『建築雑誌』によれば、フランスに渡航中の細谷安太郎が、駅舎の不同沈下対策に用いられた鉄骨造の現場に触れ、
それが東京のような弱い地盤に適すると考え、自宅用に買い付けた鉄骨と共に帰国する。
鉄骨は古河市兵衛の院内鉱山施設に使われてしまうが、別の機会に友人である秀英舎社長佐久間貞一にこの技術について話したところ、
その性能を理解した佐久間が、若山鉉吉を設計者として鉄骨煉瓦造の工場建設に着手したという。
若山は、横須賀製鉄所黌舎の出身で、1877~1887(明治10~20)年にかけて、フランス海軍造船学校に留学している。
その後は、工科大学造船学科教授と兼任で横須賀造船所の御用掛を務めており、海軍に関わりの深い人物であった。
秀英舎の建物は、柱を鋳鉄管、錬鉄管、鋼管とし、梁には鋼を使っているが、柱間に煉瓦を充填するスタイルで、
海軍工廠が手掛けた建築群と類似する。
なお、上記『建築雑誌』では、鉄骨造について、広さを自在に調整できる、高層建築を可能とするといった利点が的確に指摘され、
各種都市建築へ応用する可能性についても述べられていた。
そして、1901(明治34)年に操業を開始した八幡製鉄所には、明治30年代に大規模な鉄骨造の施設群が建設されている(図-18)。
これらはドイツからのプラントだが、鉄骨造建築の建設技術習得に重要な役割を果たしたことも見過ごせない。
このように、明治30年代までの鉄造建築は、
製鉄所や海軍工廠など、主に海軍や官営工場に近い組織が先んじて技術を獲得する様子がみられるが、
八幡製鉄所の開設後、国産材の供給が増えると、次第に建設技術への理解や建築家の関与が高まり、
鉄を主要構造材とする建築が都市の主役となる時代が到来する。
そうした明治末以降の発展については次稿でたどることとしたい。
主な参考文献
飯田賢一 後藤佐吉編『ビジュアル版 日本の技術100年 第2巻 製鉄 金属』筑摩書房 1988年
大日本百科辞書編輯所編『工業大辞書 第六冊』同文館 1911年
中島久男「明治期の海軍工廠における鉄骨造建築の導入過程について 明治期における海軍省営繕組織の史的研究 その2」日本建築学会計画系論文集596号 2005年10月
日本科学史学会編『日本科学技術大系 第17巻 建築技術』 1964年
日本工学会編『明治工業史 第4冊』明治工業史発行所 1927年
藤本盛久『構造物の技術史 構造物の資料集成・事典』市ヶ谷出版社 2001年
堀内正昭「法務省旧本館に用いられた碇聯(ていれん)鉄構法に関する研究」日本建築学会計画系論文集499号 1997年9月
村松貞次郎『日本近代建築技術史』彰国社 1976年
村松貞次郎 高橋裕編『ビジュアル版 日本の技術100年 第6巻 建築 土木』筑摩書房 1989年
安野 彰(やすの あきら)
1971年埼玉県生まれ。
東京工業大学大学院総合理工学研究科人間環境システム専攻博士後期課程修了。博士(工学)。
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。
専門は日本近代の建築や都市の歴史。
著書に『世界一美しい団地図鑑』(共著,エクスナレジ)、『住宅建築文献集成』(分担執筆,柏書房)、
『社宅街』(共著,学芸出版社)など。
材料からみた近代日本建築史 その6 製鉄技術の発達と明治中期までの鉄道建築《前編》
材料からみた近代日本建築史 その6 製鉄技術の発達と明治中期までの鉄道建築《後編》
【出典】
季刊建築施工単価2014年冬号
最終更新日:2019-12-18
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