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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第30回 泥の勝利 −13世紀の日越共同戦線−

 
2015年2月2日、ベトナムハノイからハロン湾に向っていた。
ハノイから車で3時間もかかるという。
しかし、そのドライブに飽きなかった。
車窓からは、田んぼや鳥が群れをなしている湿地帯が延々と続いていた。
 
これが、あの最強のベトナムの湿地帯だった。
 
 

泥の米兵

ハノイに行く3カ月前、別件の打ち合わせで神奈川県庁を訪れた。
横浜駅から地下鉄に乗り、日本大通り駅の地上に出たところに
「石川文洋写真展『ベトナム戦争と沖縄の地』」というポスターが目に飛び込んできた。(写真-1)
 

写真-1 田んぼを進行する米兵の様子

写真-1 田んぼを進行する米兵の様子


 
そのポスターの写真に目を離せなくなってしまった。
 
重い銃を持った米兵が田んぼを歩いていく写真だった。
 
敵陣で歩兵が進軍するときは、戦車が先頭を行き、戦車の背後から歩兵が進んでいくのが常道だ。
しかし、湿地の田んぼでは、その常道は成立しない。
 
写真の米兵たちは、田んぼに足を取られながら進んでいく。
もちろん戦車の姿はない。
米兵たちが進む向こうには、うっそうとした森林が映っている。
いかにもその森林から、すばしっこいベトナム兵が銃で米兵を狙っているようだ。
 
この写真は、ベトナム戦争の戦いを象徴していた。
 
米国軍の得意技は、アメリカ大陸を走り回る幌馬車や騎兵隊の機動性にある。
その米兵が田んぼを歩くのでは、強さを発揮できるわけがない。
米国はこのベトナムの泥に負けたのだ。
 
この泥の湿地帯が、戦争の主役になったことが過去にもあった。
中世のモンゴルとベトナムの戦いと、モンゴルと日本の戦いであった。
 
 

大地を疾走するモンゴル軍

13世紀、大モンゴル帝国が世界史に登場した。
モンゴル帝国は、東ヨーロッパから中国までのユーラシア大陸のほぼ全土を制覇した。
モンゴル軍の最大の武器は、ユーラシア大陸を疾走する機動力であった。
 

図-1 縱?亞歐 天驕絕代(英雄チンギス・ハーンのモンゴル統一〜13 世紀至14 世紀〜)

図-1 縱?亞歐 天驕絕代(英雄チンギス・ハーンのモンゴル統一〜13世紀至14世紀〜)
「絵画中華文明史」より(著者:馮天瑜、絵画:邵学海、1995.12)


 
(図-1)は、モンゴル軍の騎馬隊の行進の絵である。
この絵のモンゴル軍の迫力は凄まじい。
横一列に11頭の牛が並び、それが前後2列、合計22頭の牛の群れがジンギスカンの指令所のパオを引いている。
周囲には騎馬軍団が槍を持って整然と進軍している。
 
この絵から、北方騎馬民族の凄まじい暴力が強烈に伝ってくる。
 
北の大地で飢えが広がると、北方騎馬民族は一気に南下した。
この騎馬軍団が猛烈な勢いで攻め込めば、逃げるところなどない。
すべてが焼き払われ、虐殺と強奪が行われた。
 
北方騎馬民族に侵略される側の恐怖はいかばかりだったろう。
漢民族が壮大な万里の長城を建造した原動力は、この騎馬民族への恐怖だった。
 
このモンゴル帝国は中国を制覇し、さらに南下してインドシナ半島のベトナムに向った。
一方、モンゴル帝国はユーラシア大陸の極東の海に浮かぶ日本列島にも向かった。
 
しかし、日本もベトナムも、このモンゴル軍を打ち破り撃退した。
日本の泥とベトナムの泥が勝利したのだ。
 
 

日本のモンゴル軍撃退

日本は世界史の中で侵略されなかった唯一の文明国である。
日本が侵略されなった最大の理由は、日本が島だったからだ。
 
日本列島はユーラシア大陸に一番近い対馬海峡でも200kmはある。
さらに、その対馬海峡には早い海流が流れ、容易に大陸から大軍隊を送ることはできない。
 
16世紀、モンゴル軍を紙一重のところで防いだのは、この海峡のおかげであった。
 
しかし、日本がモンゴル軍に勝てたのは、島という理由だけではなかった。
 
文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)で来襲したモンゴル軍は、九州の地に上陸した。
そのモンゴル軍は、昼間は上陸して戦った。
しかし、夜になると船に帰り、船上で寝泊りした。
そのため、嵐が襲ってきたとき、船同士が衝突して、船もろとも兵士たちは海の藻屑となった。
これが致命傷になり、モンゴル軍は撤退することとなった。
「逆・日本史」の歴史家の故・樋口清之氏は船上で寝泊りせざるを得なかった理由を「やぶ蚊」としている。
 
乾燥したユーラシア大陸にやぶ蚊はいない。
モンゴル軍にとって日本のやぶ蚊は初めての経験で、それに耐えられず船上で寝泊りした。
勇猛なモンゴル軍がやぶ蚊に弱かった、という樋口先生らしいユーモア溢れる解釈である。
 
しかし、(図-1)のモンゴル軍の進軍の絵を見ていると、モンゴル軍が日本で勝てなかった本当の理由が見えてくる。
 
モンゴル軍の強さは、騎馬軍団にある。
しかし、日本では兵士と物資を運ぶ牛車群と、敵陣に突進して行く騎馬軍団が麻痺していた。
 
騎馬軍団が活躍できるのは、縦横無尽に走り回る大地があるという前提である。
 
日本列島のどこにそのような大地があったのか。
日本にはモンゴル軍団が大進撃する乾いた大地などなかった。
 
日本には、ぬかるんだ泥の土地が広がっていた。
 
 

日本のモンゴル軍撃退

日本列島の沖積平野は、どこもかつては海の下であった。
 
日本列島の山々の地質は脆く、雨が降れば斜面は崩れ、川に土砂が流出していく。
土砂は川の水で運ばれ、河口で堆積して平野となった。
その沖積平野は水はけが悪い。
少しでも雨が降れば、ぬかるんだ泥の湿地帯となってしまう。
 
モンゴル軍が攻めた福岡も、水はけの悪い土地であった。
モンゴル軍はこの泥にはまってしまった。
騎馬軍団で突進するモンゴル軍は、泥にはまった亀になってしまった。
 
さらに、泥地の周辺の丘には、常緑樹の緑がびっしりと茂っていた。
その緑は、土漠が続くユーラシア大陸では経験したことのない緑であった。
そのうっそうと茂った木々が、モンゴル軍の動きを阻んだ。
 
日本の武士たちは、丘の陰に隠れ、緑の藪の中から突然襲った。
そして、その武士たちは、泥のあぜ道を蟻のようにすばしっこく走り回った。
 
騎馬軍団が麻痺したモンゴル軍は、夜になると船上で寝泊りするしかなかった。
その海上に嵐が襲い、船団同士でぶつかり破壊し、全滅してしまった。
 
これが、日本がモンゴルを撃退した物語となる。
この日本のモンゴル軍撃退の物語は、そっくりそのままベトナムでの物語となっていく。
 
 

ベトナムの泥と緑

1250年代、中国を制覇したモンゴル軍は、地続きのベトナムへ攻撃をしかけた。
日本の文永の役、弘安の役のその時期、ベトナムでモンゴルとの第2次戦争が展開されていた。
 
中国までは大進撃したモンゴル軍の騎馬軍団は、ベトナムのハノイに入ると一気にスピードを落してしまった。
 
現在のベトナムの首都・ハノイは、ベトナム語で「河の内」という意味である。
ハノイは、全長1,200kmの紅河(ホンガワ)のデルタ地帯にある。
雨が少しでも降れば地域一帯は湿地帯となった。
 
ハノイに進軍したモンゴル軍は、騎馬をあきらめ泥の中を歩かなければならなかった。
 
元寇の役の日本の侍との戦いと、同じ戦いになってしまった。
モンゴル軍は泥に足を取られ、濃い常緑樹に行く手を阻まれ、蟻のように軽やかに湿地を走り回るベトナム兵に悪戦苦闘した。
 
ベトナムは第1次戦争、第2次戦争とモンゴル軍を撃退した。
 
その湿地での戦いの様子は、(写真-2)のベトナム戦争で田んぼを徒歩で行進する米国兵で再現された。
 

写真-2 田植え(亀田郷土地改良区)昭和30年代

写真-2 田植え(亀田郷土地改良区)昭和30年代


 
 

ベトナムと日本の共同戦線

ベトナムが決定的に勝利したのが、第3次戦争の1288年のバックダン川(白藤江)の戦いであった。
 
モンゴル軍は陸の補給として、巨大船団をバックダン川へ投入した。
ベトナムの英雄、指揮官の陳興道(チャン・フン・ダオ)は、干潮時に浅くなる河口一帯に木杭を何本も打ち込んだ。
そして、満潮時にモンゴルの巨大船団を誘い込んだ。
 
満潮時には水深があったが、干潮時にはその木杭に阻まれモンゴル船団は立ち往生してしまった。
そこを狙ってベトナム軍は巨大船団に火を放ち、完膚なきまで叩きのめした。
 
この戦いはベトナム人が誇る戦史である。
ベトナムの博物館でも誇らしげに絵画や木杭の一部が展示されている。
 
しかし、この戦史で一つ腑に落ちない点がある。
 
それは、満潮時に大船団を引き込み、干潮時に大船団を動かせなくする点であった。
それほど都合よく大船団を誘導できるか、という疑問である。
 
しかし、その解答はそれほど難しくない。
東シナ海を自由に行き来する海の民たちの存在である。
 
モンゴルは強力な騎馬軍団であり、海には無知であった。
船団と船員は朝鮮半島沿岸や対馬諸島で徴用せざるを得なかった。
 
当時の朝鮮半島沿岸、対馬、九州北部沿岸、沖縄諸島、ベトナム沿岸の海の民に国境などはない。
その朝鮮半島沿岸や対馬の海の同胞が、モンゴル軍に蹂躙(じゅうりん)されていた。
 
東シナ海沿岸一帯の海の民は、密かにモンゴル軍への反撃を狙っていた。
モンゴル船団を操縦していた彼らは、上手に満潮の白藤江に船団を引き入れた。
そして、干潮時に船団が身動きを取れないようにした。
それが白藤江の戦いであった。
 
モンゴル軍はこの白藤江の敗戦で、ベトナム進攻と日本への第3次進攻を断念せざるを得なかった。
 
13世紀の日本とベトナムは、海の民を介して共同戦線を構え、世界最強の陸のモンゴル軍に勝利した。
 
 

平和なベトナムへ

私がハノイに行った2月3日は、ベトナム共産党設立85周年の記念日であった。
そして、2015年はベトナム戦争終結40周年であった。
 
そのお祝いのため、どこの家々も、一つ星の赤いベトナム国旗を掲げていた。
 
ベトナムはユーラシア大陸と地続きだったため、侵略との戦いの連続であった。
中国大陸で次々と生まれる覇権の侵略と戦い、世界最強軍団のモンゴル軍と戦い、
そして、20世紀の世界の盟主アメリカとも戦い続けた。
 
車窓から見る街や農村の人々の表情は明るい。
それを眺めながら苛酷な歴史を乗り越えたベトナムの平和を自然と祈っていた。
 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2015年4月号
月刊積算資料2015年4月号
 
 

 

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