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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 復旧・復興のキセキ(2) とりもどそう 笑顔あふれる女川町

 
 
かつて経験したことがない激震、大津波、未曾有の大震災の発生からひと月ほど経ったその日、
私は、町の高台、町立女川第二小学校の空き教室、町災害対策本部にいた。
その日も町内16カ所の避難所には、2,000人近くの避難者が身を寄せ、つらく、不自由な生活を強いられていた。
役場庁舎を含めて、大津波により、全体の約7割の建物が倒壊、流失した本町は、避難施設の確保や避難者数の把握に困難を極めた。
当初、5,700人以上にのぼった避難者のうち、半数近くの2,500人ほどが、総合運動場の体育館に、
そのほか最大で25カ所の避難所に分散しているという状況だった。
さらに、町内外の親戚、知人宅への避難者についてはその実数を把握できない状況であった。
 
役場庁舎を失った我々町職員は、
被災以来、小学校の空き教室を間借りして対策本部、避難所班、食糧物資班、捜索班、保健班などに分散し、
被災された町民の方々の対応に追われた。
日々膨れ上がる被害状況、犠牲者の数、先が見えない復旧作業、それでも山積する業務に翻弄、忙殺された。
余震が続き、収まる気配は感じられず、被災者の喪失感もピークに達していた。
 

被災前人口1万人のまち。

被災前人口1万人のまち最多で5,700人を超えた被災者。平成23年11月にすべての応急仮設住宅への入居が完了した(写真は、総合体育館避難所)。


 
 

大津波が湾口防波堤を越えて

世界三大漁場の一つ、金華山沖を眼下に控える女川町は、宮城県の東端、牡鹿半島の付け根に位置する人口1万人の小さな港町。
養殖ぎんざけ生産量日本一、全国屈指のさんまの水揚げ量を誇り、牡鹿半島のほぼ中央には女川原子力発電所3基が立地している。
 
平成23年3月11日。
激震直後のそれを伝えるテレビのアナウンスは「…太平洋沿岸に大津波警報発令、6mの大津波が想定され…」と発した。
大災害の予感に誰もが緊張感で高揚していた。
ただちに災害対策本部を設置した。
地震発生直後、突然庁舎内の通電が途絶え、
防災無線による広報、テレビからの情報収集は、自家発電装置などからの電源のみに限られた。
職員は、防災広報無線と、数班に分かれて町公用車での避難誘導。
揺れの激しさから、これは大災害になると直感した。
役場の目の前にあった二階建ての公民館へ逃げ込んだ人たちに「もっと高いところへ逃げろ」と声をかけ、役場庁舎に呼び込んだ。
町民の避難誘導の最中、大地震発生から数十分後、我々は、想像を絶する光景を役場庁舎二階災害対策室の窓から目撃した。
太平洋の沖合から到達した大津波は、数mの湾口防波堤の天端高をはるかに越え、勢いを増しながら町内に迫っていた。
 

津波はこの後、写真左上の5階建ての生涯教育センターの屋根上部まで到達。

津波はこの後、写真左上の5階建ての生涯教育センターの屋根上部まで到達。町中心部のあらゆるものを飲み込み一面が海と化した(役場庁舎屋上から撮影)


 
町中に入り込んできた津波は、瞬(またた)く間に水量、その高さ、勢いを増し、
ギシギシと建物などを破壊しながら奥へ奥へと浸入しては引いていく。
それらを繰り返し、津波は最大で20mを超え、町は一面どす黒い海と化した。
高台16m地盤にあった病院も一階の天井部分まで浸水。
津波は、夜になっても何度も何度も押し寄せ、真っ暗な闇の中に不気味な波の音だけが響いた。
夜が明け、がれきの山と化した町並み。
その後、本町は約3日間孤立した。
情報が寸断し、女川町が全滅したとのうわさも流れた。
 
被災後の町中心部。

被災後の町中心部。大津波によって、7割の建物が全壊流失した(平成23年6月19日撮影)


 
死者・行方不明者は800人超。

死者・行方不明者は800人超。人口に対する被災率は被災地最大。その多くが高齢者で占められた


 
 

復興方針を早く町民に示したい

平成23年4月20日、その日の私の手帳には『FM局、電源、インターネット引込み』と記されていた。
「避難所を含め、情報が極めて少ない。身近な町の情報を含め、災害コミュニティFMラジオ局を立ち上げ情報発信したい」
との若者ボランティア有志の強い要請に応える形で、私は災害FM局の開局手続きを進めていた。
その日の午後、安住宣孝女川町長から呼び出され
「復旧、復興を急ぎたい。町民に一日も早く、復興の方向性を示す必要がある」
「被災から2カ月目の5月11日には、町民に対して、町長としてメッセージを発信したい」
と命じられた。
その日が町の復興計画を策定する始まりとなった。
 
復興計画を策定するための委員会には、専門的な知識と視点が不可欠だ。
また、可能な限り、地域の特性を知り得た方を人選すべきと思った。
委員は、本町にゆかりのある震災復興や都市計画などを専門とする大学教授等5名に就任を依頼したほか、
町内を熟知している町民代表6名。
さらに安住町長は、復興には国との繋ぎや技術的サポートを担う宮城県職員が不可欠と考え、
自ら県と交渉し、土木部次長の就任を取り付けた。
 
 

運動場の移設、集落の集約化は反対

平成23年5月1日、第1回復興計画策定委員会(会長鈴木浩福島大学名誉教授)を開催。
安住町長は、あいさつで
「今なお不安な気持ちでいる多くの町民のために現状復旧にとどまらない、
 港町女川の再生を目指すべく、新たな女川町の設計に取り組みたい」
と決意を述べ、復興計画案策定を諮問した。
 
5月9日、第2回委員会では、鈴木会長から復興計画の核となる復興方針の中間答申が示され、
被災から2カ月目の5月11日、女川さいがいFMに町長自ら生出演し
『安心・安全な港まちづくり(防災)』『港町産業の再生と発展(産業)』『住みよい港町づくり(住環境)』
の3つの柱からなる復興方針をメッセージとして発信した。
復興方針は最終的に、
『心身ともに健康なまちづくり(保健・医療・福祉)』『心豊かなひとづくり(人材育成)』を加え、5本柱としている。
 
復興方針は「完全防災には限界がある。減災の視点でまちづくりを」との安住町長の強い意志を反映し、
居住地の高台移転や多重防御の考え方に基づいたまちづくり、中心部のゾーニング案、
さらに被災による人口減少等が懸念される離島、半島部の集落を数カ所に集約し、
できる限り地域コミュニティを維持、増大する案などが示された。
それらをもとに、5月、7月の2回、公聴会(住民説明会)を行った。
 

町中心部から離半島部までを巡回した公聴会(住民説明会)。

町中心部から離半島部までを巡回した公聴会(住民説明会)。これまで、ほぼ3カ月に1回の割合で説明会を開催している


 
公聴会では、大きく2つの論点があった。
居住地の一つを町中心部高台にある総合運動場とし、
施設の一部を被災した清水地区に再建する案と離半島部集落の集約化案についてだった。
甚大な津波被害を受け、どの地区でも居住地の高台移転に関しては一定の理解が示された。
しかし、中心部では
「数十億円の巨費を投じ県内屈指の施設規模を誇る運動場を居住地とし、
 運動施設を近傍の低地、被災した地区に再建するのはもったいない」という意見、
さらに離半島部では「どんなに小さな集落でも、住み慣れた集落の高台で顔馴染みのコミュニティを保ちたい」と。
中心部では、一日も早く、安全な居住地を確保するため、広大な土地が必要になる。
急峻な山を切り土造成するには、時間と莫大な経費が必要である。
そのため、一定の面積を確保することができる総合運動場をそのタネ地として住宅地に転換する案を示したが…。
 
公聴会での論点1
 
公聴会での論点2
 
本町は被災前、中心市街地に全体の約8割、8,000人ほど、離半島部に約2割、2,000人ほどが居住していた。
2つの離島があり、半島部と合わせて15の漁業集落で形成されている。
 
それらの各浜、集落も中心部と同じように、大津波で家屋、カキ処理場、養殖施設、船舶などが押し流され、壊滅的な被害を受けた。
震災により、残念ながら100名近くが死亡または行方不明となってしまった(町全体としては約830名が死亡または行方不明)。
 
各浜の公聴会で、安住町長はこう提案をした。
「これからの新たな浜づくり、将来に向けた地域づくりをするために、地区コミュニティをもう少し大きくしませんか。
 高齢化率も高い。行政サービスも向上されます。隣接する集落を集約し、新しい地域づくりを進めましょう」と。
集落を数カ所に集約する案だった。
各地区の出席者からは一斉に「それには反対」の意見が噴出した。
「地区のコミュニティは、それぞれ違いがある」「各浜には、それぞれに歴史、文化がある」「自分の浜だからこそパワーがでる」
などの意見だった。
結果として、地区との話し合いを続け、将来の漁村づくりのあり方を検討していくということで、
事実上、集約化案は撤回せざるを得なかった。
 
ゾーニングイメージ
 
 

家族間でも意見が真っ二つ

各浜での公聴会のあと、役場仮設庁舎の復興対策室(当時)に、若い世代が数人、グループでやってきた。
重い口をあけると彼らは
「集約化に反対しているのは、親父の世代だ。60~70代は、確かに、このまま暮らしていきたいのだと思う。
 しかし、数年後に海の作業は、自分たちが担うことになる。今のままでは、将来も漁業を継続できるか不安」
「自分たちは、集約化案に賛成。コンビニや診療所を造ってもらって、安心・安全な浜づくりをしてほしい」
「このままでは『嫁ご(お嫁さん)』もこない」
と切実な声を聴かされた。
家族間でも意見が真っ二つに割れている現実。
そうした声をどうすることもできない、もどかしさ、悔しさがあった。
 
最終的に中心部は、運動場の一部を先行復興エリアと位置付けて「災害公営住宅」を整備することとした。
また、離半島部の各集落は、それぞれの高台背後に安心・安全な居住地を確保する計画とした。
 
平成23年11月。
町長就任から12年1カ月間、そして震災直後の混乱の中、復興計画を仕上げ、
復旧・復興のリーダーとして私たちを先導してくださった安住町長が勇退された。
そのあとを引き継いだのは、30代の若きリーダー、須田善明町長だった。
 
就任直後、須田町長は
「安住町政を踏襲しつつも、町のつながり、一体感を形成するため、
 町中心部の高台、地域医療センターの背後の堀切山を新しい宅地として造成し、
 町の南北を一体的、連帯性のある町並みとしたい」
と土地利用計画案の一部を修正した。
須田町長のまちづくりの思いを反映し、町の中心市街地は、よりコンパクトなまちづくり計画へと進化した。
 

ほぼ町の中心部に位置する医療施設の背後の高台を新しい造成地に。

ほぼ町の中心部に位置する医療施設の背後の高台を新しい造成地に。新町長の意見が反映され、さらなる町の一体感が醸成された計画となった(平成24年7月に開催した住民説明会資料から抜粋)


 
 

立ちはだかる多くの課題

復興計画は、その完了を平成30年度とした。
はじめの2年間を「復旧期」、残りの6年間を基盤の整備期などに位置付けた。
8年間で成し遂げたいということである。
そのための財源確保は、まず最初の課題だった。
それまでの制度上の補助率では、復興に要する一自治体の財政負担があまりにも大きく財政破たんしてしまうからだ。
どの被災地からも復興予算は全額国費とするよう強く声があげられた。
その後、国は全額国費とすることを決定。
東北から関東までの太平洋沿岸の被災地の復興のため、莫大な国家予算が投入される。
本町のみでも数千億円の復興予算が必要との試算もある。
 
さらに、ほとんどの被災地では圧倒的なマンパワー不足に頭を抱えていた。
復興交付金の申請手続きや膨大な許認可、国や県などとの調整事務のほか、本格的な復興事業における膨大な数の工事等々である。
また、相当量の被災宅地や高台居住地の買い取りを行っていかなくてはならない。
そこには抵当権や相続といった多くの課題も立ちはだかっていた。
そのほか、被災市街地復興土地区画整理事業や、
防災集団移転促進事業など複数の制度を活用することで生じる被災者側が受ける自立再建支援などの不公平感も悩ましかった。
しかし、被災地の声に応える形で国の制度の弾力的な運用や、さらなる財政的な支援などが様々な面で図られつつあり、
本誌が発刊される時期には、復興へ向けた進度がさらに加速されていることだろう。
 
また、本町の被災の特徴は、就労の場が壊滅的な被害を被ったことである。
水産業を基幹産業とし、海岸部に魚市場、数多くの水産加工場、冷凍冷蔵施設が林立し、
その周辺を囲むように商店街も形成されていた。
それが一晩にして流失してしまったのだ。
就労の場の確保なくしては、人口流出に歯止めが掛からない。
早期の対応が必要とされた。
 
さらに安心・安全な居住地の確保。
そのためには、今次津波(いわゆるレベル2津波)が再度襲ってきても安全な高台の居住地を確保することが必要であり、
被災したエリアは、
災害危険区域に指定し居住できないこととすること(ただし、建物の構造等、一定の条件を満たせば居住は可とする)を基本とした。
また、水産加工業を営む方などとの話し合いの結果、
海(岸壁)と仕事場となる海岸部での作業効率を考慮し、その妨げとなる防潮堤は設けないこととした。
その代りに、海岸部を囲むように形成された国道398号は、
その背後の商業地や居住地をレベル1相当の津波(本町では4.4mと想定されている)から守るため、5.4mまでかさ上げする。
 
本町の場合、マンパワー不足に拍車をかけたのは、数多くの宿泊施設が被災したことも一因である。
安全な高台には応急仮設住宅を建設したため、場所確保が困窮を極めた。
早くから復興支援に駆けつけてくれたボランティア、応援自治体職員の多くも、
隣接市町から毎日数十分以上をかけて通勤している状況であった。
そうした中、国・県、関係機関の力強い支援と、何より「被災した町に宿泊施設を」という地元関係者の強い願いが結実し、
平成24年12月末、被災地初のトレーラーハウス宿泊村「エルファロ(女川町宿泊村協同組合・佐々木里子理事長)」が誕生した。
被災地の復興実現に寄与する施設として期待が寄せられている。
 
 

とりもどそう 笑顔あふれる女川町

被災から4カ月後の平成23年7月、県を通じてUR都市機構から技術者2名が復興支援で派遣されてきた。
そのうち1名が復興対策室(当時)に配属となり、復興まちづくり事業の検討に尽力いただいた。
そういった縁もあり、平成24年3月1日、UR都市機構と女川町は、被災地では唯一となる「パートナーシップ協定」を締結。
その後も「まちづくり事業協定」を締結するなど、
マンパワーと高い技術力、知見、ノウハウを新たなまちづくりに生かしていただくことになった。
その手法も、国が初めて導入するCM(コンストラクション・マネジメント)方式を採用し、復興事業のスピードアップ化を図る。
 
同年9月29日、平野達男復興大臣(当時)や安住淳財務大臣(当時)ほか大勢のご来賓をお招きし
「復興まちづくり事業着工式」を挙行した。
須田町長は
「いよいよスタート。震災は多くのものを奪ったが、故郷を想う心は奪えなかった。
 次世代につなぐ千年に一度のまちづくりとなる。
 女川を想うみんなが『チーム女川』として、我が町の復興と新しいまちの実現に向けて協力してほしい」
とあいさつ。
一日も早い復興に向け、UR都市機構、CMr( コンストラクション・マネージャー)との連携を強化しながら
復興まちづくりを進めていく事実上のスタートの日となった。
 

平成24年9月29日に開催された復興まちづくり事業着工式。

平成24年9月29日に開催された復興まちづくり事業着工式。関係者による鍬入れのほか、立木の伐採や盛り土施工などのセレモニーを行い、本格的な復興まちづくりがスタート


 
町中心部の先行復興エリア(水産加工団地)

町中心部の先行復興エリア(水産加工団地)では、沈下した地盤の盛り土工事に着手(平成24年12月6日撮影)


 
復興まちづくりは、一人でも多くの町民の声が反映されるべきものである。
そうした声をより多く計画の具体的な施設整備などに取り入れるため、
昨年6月、町内の若い世代を中心に64名で「まちづくりワーキンググループ」が発足した。
『漁業・水産加工』『観光・商業』『公共施設・街並み』『福祉・コミュニティ・交通』『教育・育児』の分野をグループに分かれて、
月2回のペースで議論、検討を重ねてきていただいた。
その検討結果は、3月に提言書としてまとめられた。
まちづくりワーキンググループは、引き続き、検討テーマを絞り込んでいきながら議論、検討を進めていただくことになっている。
 
まちづくりワーキンググループ

まちの将来の姿を思い描きながら、毎回真剣な議論、検討が展開されているまちづくりワーキンググループ(ワークショップ)


 
また、離半島部の漁業集落の新しい浜づくりも各浜の行政区長や役員などを中心として話し合いが継続的に展開されており、
今後もそこに暮らす人々の意見を参考としながら早期の再建を目指さなければならない。
 
まちづくりは、町議会はもとより町民の方々の理解と協力が不可欠だ。
完全復興までには、幾多の課題が立ちはだかるが、被災地では、誰もが安心・安全な居住地の一日も早い確保を渇望している。
国・県や関係機関には、今後も最大限のご支援とご協力をいただくとともに、
全国からの派遣職員の方々などの力をお借りし、災害復興を加速させるさらなる努力を町民一丸となって積み重ねていきたい。
そのことがこれまで国内外のたくさんの方々からのご支援とご協力に感謝し、報いることだと確信している。
 
復興計画で位置付けられていた平成23、24年度の「復旧期」。
膨大な量のがれきの撤去などがほぼ計画どおりに終了し、平成25年度は、いよいよ復興計画で定める「基盤整備期」である。
先行エリアに続く本格的な女川町のまちづくり事業、本格復興へ向かう『第二幕』が今、切って落とされた。
 
 
 

筆者

女川町復興推進課 参事 柳沼 利明
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2013年4月号
月刊積算資料2013年4月号
 
 

 

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