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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 教訓そして再生へ(2) 海岸林を着実に再生する

 

クロマツと海岸林

海岸林の起源は明らかではないが、江戸時代になると各地で造成の動きが活発に始まる。
佐賀県・虹の松原は慶長6(1601)年より寛永4(1627)年まで、青森県・屏風山保安林は延宝7(1679)~明治7(1874)年まで、
あるいは、鹿児島県・吹上浜は貞享年間(1684~1688)に作られる1)
 
これらを含めわが国の海岸林が造成された所は、わが国の有数の砂丘地でもある。
日本の海岸に発達する砂丘はすべて地質時代の第四紀に形成したものであり、
日本海側に特に大規模な砂丘が多いのは、沿岸流と北西の季節風の影響である2)
屏風山保安林は屏風山砂丘に、吹上浜は吹上浜砂丘に造成されたものである。
 
海岸林を代表する構成種はクロマツである。
クロマツは本州、四国、九州に広く分布し、天然分布の北限は青森県下北半島の先端大間崎、南限はトカラ列島の宝島である3)
 
クロマツは林冠が大規模に破壊された後の明るい環境を利用して定着する種、いわゆる先駆種と呼ばれ、
比較的短命な樹種で、耐陰性は弱いが土壌を選ばず痩せ尾根や海岸にも生育する。
 
クロマツの根は、ショウロやハツタケなどの外生菌根を形成する。
外生菌根菌の菌糸は、細根が届かない広い範囲の小さな土壌中の隙間に伸長して、養水分の吸収を行い、根の細胞に供給している。
一方、樹木は光合成によって作られた糖分の一部を菌根菌に与える。
外生菌根の菌鞘が土壌病原菌に対する障壁ともなる。
このような相利共生関係を菌類と結ぶことによって、クロマツは瘠悪(せきあく)な土壌条件や乾燥、塩分への耐性をもつ4)
 
マツの葉には、蒸散を抑える仕組みが備わっている。
①外気に触れる表面積を出来るだけ減らせるように葉の形を針状にする、
②気孔を表皮のレベルから陥没した位置に配置し、気孔装置内の気流を緩和して過度な蒸散を防げるようにする、
③表皮のクチクラ層を発達させて体表からの蒸散を抑えることである5)
 
マツ葉の生量1gあたり表面積は42㎠で、海岸より10~12km離れたところにおけるクロマツ等の飛塩捕捉量は1.2~1.6mg。
針葉状のものは広葉のものに比較して約3~35倍も多く捕捉する。
これは、葉の断面形状や表面の粗度および一細枝に群状に着葉していることなどから飛塩が捕捉されやすくなる。
海岸の森林は、海風中の塩分を濾過する作用が大きい。
これは、林木の枝葉による空中塩分の捕捉作用と、森林が風の中に強い乱流をつくりだして塩分濃度を減少させる作用とがあり、
前者は後者に比較してはるかに大きく作用する6)
 
クロマツの海岸林はこのような樹種特性を発揮して潮風害や飛砂を防ぐ働きをしている。
 
ところで、マツ属はほぼすべてが北半球に分布している。
これは約2億5千万年前のローレシア(北半球大陸のもとになる)と
ゴンドワナ(オーストラリア、アフリカなど)に大陸移動したことにもとづき、
マツ属はローレシアに分布していたためである7)
マツ属は世界中で111種類が知られ、クロマツはわが国と朝鮮南部に分布する。
総延長3万4,000kmにおよぶわが国の海岸線には砂丘地が至る所に発達し、
クロマツは海岸林を作るために最も適するわが国必須の樹種といえる。
 
 

海岸林に込められた先人の気概

江戸時代は各地に海岸林造成に挑んだ先覚者が登場する。
彼らはいかに造林を成し遂げ、彼らが残した言葉に込められた意味は何かを考える。
 
野呂理左衛門は青森県屏風山保安林の基礎を作った人物である。
 

写真-1:屏風山保安林

写真-1:屏風山保安林


 
延宝7(1679)年、藩主津軽信政から御立山諸木取扱に任ぜられ、貞享3(1686)年までに松杉3万1,300余本を植えた。
元禄14(1701)年、住民が薪炭を得るため盗伐が横行する。
藩主は『もし盗伐等の悪行をなす者あらば、これを斬罪に処し、該首を樹木養成の肥料に用いるべし』と厳命を発すると、
人々は驚愕して悪習は絶たれた。
理左衛門は享保4(1719)年に病没。
その後を子理太夫、孫彌右衛門が引き継ぐ。
ところが、天明4(1784)年の凶作に遭遇し、森林は濫伐され惨憺(さんたん)たる状況を呈した。
 
天保6(1835)年、理左衛門4代の要吉、続く喜太郎は、再び植え付け66万6千本余りに達する。
その子武左衛門は、元治元(1864)年より屏風山新松仕立掛合、並びに海岸取締役を任命されて以降、
明治7(1874)年まで78万本余りを植え付け、今日の七里長濱の海岸線に沿って防風林を築いた。
 
秋田県では寛政9(1797)年に栗田定之丞(さだのじょう)が砂留方、林取立役を命じられ、
61歳の生涯を閉じるまで砂防林事業に身を捧げた。
 
写真-2:栗田定之丞

写真-2:栗田定之丞


 
ある日海岸を巡った際、波に巻き揚げられ樹木の枝に草履が繋がり、
そこに飛砂が堆積して草履の背面に青草が生えているのを見出した。
そこで数百間の海辺一帯に樹木の枝を連ね、古草履を拾い集め、四、五尺(約1.2~1.5m)の高さに結び付け、
その後方にグミやヤナギを西風に向けて植えた。
翌春、砂と草履は同じ高さとなり、後方のグミ、ヤナギは青々と生育していた。
この方法を用い、寛政9(1797)年より文化11(1814)年まで19年間、マツ苗、グミを砂地に植付けた。
定之丞はさらに他の郡でこの方法を実行しようとするものの、村民たちは到底成功の見込みがないとして頑として聴かない。
この地方に住む3人の者が、
「我等三人の首と林役の貴公の首を賭けよう。
 此の如き児戯に等しい方法を以て樹木の一株でも生育するものがあれば、吾々三人の首を刎ねよ。
 もし成功せざるときは林役とは認めず、白髪の首を申し受けん」
と意気軒昂に申し立てた。
定之丞はこれを了承した。
翌春、三人は定之丞の妻に命乞いをする。
三人は草履の背面のグミやヤナギが活着していることを認めた。
定之丞は大いに喜び、村のため藩のため作業に務めるよう諭したという。
 
かくして、秋田県一帯の海岸には数百万の老松が鬱蒼と枝を交え、潮風害、飛砂の害を全く絶ち、
村民は落葉枯枝を拾い燃料に供し、松露の副産物を手に入れることができた。
 
あるいは、山形県・庄内海岸砂防林の造林に遊佐町で尽力した佐藤藤左衛門・藤蔵父子がいる。
宝暦2(1752)年、父藤左衛門は臨終の際、次のように藤蔵に言い残した。
「我死して後に植付けを怠ることあらば子孫絶えるべし。
 植付けに昼夜心を寄せ出精あらば、我霊は彼の山に止まり朝夕守神となりて禍、貧苦の難を遠ざけ、
 子孫繁昌すること濱の草木の茂るが如し」。
藤蔵は寛政9(1797)年85歳にして病没するが、子孫は植栽に従事し、保護撫育を怠らず9代の久しきに及び造林に邁進した1)
現在、遊佐町の西遊佐小学校では、郷土の偉人の功績を学び、次代へ海岸林を育む思想を伝えるため、
毎年、子どもたちによる佐藤藤蔵祭が開かれている。
 
実に、野呂理左衛門から6代目の武左衛門に至るまで、造林事業は195年間をかけて完遂した。
 
海岸林の先人たちが残した言葉に込められたメッセージは、
荒漠不毛の地を人の住める、作物の育つ土地にせんがためにクロマツ林を築き上げる、
まさに郷土を創造せんとする強靱な意志であった。
 
 

高田松原の消失と復活

江戸時代当初、気仙郡高田村立神濱(現在の高田松原)一帯の海岸は、飛砂の移動が甚だしく、
田畑の大部分は、毎年潮風水害を受けていた。
高田松原の造成には2人の先人が関わっている。
 
1人は菅野杢之助(すがのもくのすけ)で、
寛文7(1667)年3月、高田村立神濱の東部に長さ約360mあまり、高さ約90cmの防風の葭簀(よしず)を造り、
クロマツ・アカマツ7千本余りを植え付けた。
その後6年間かけて、延宝元(1673)年に、面積16ha、植え付け本数は1万8千本に達した。
杢之助は寛文11(1671)年に没し、2代目杢之助が父の志を継ぎ、
ついに海岸線約1,600mの間に、クロマツおよびアカマツの混生林を誕生させた。
もう1人は松坂新右衛門で、高田村の海岸林に習い、
享保10(1725)年より自費を投じて海岸線約720m、面積9.3haにアカマツを植栽した。
 
これまで、高田松原は明治三陸大津波(明治29年)、昭和8年三陸大津波、昭和35年チリ地震津波を経験している。
昭和9年の調査報告書によると、
当時の松原はアカマツ、クロマツの胸高直径10~50cm、樹高10~25m内外(前面に幅員約20m、20年生内外の林分を含む)の
混交林と記されている。
 
高田松原は杢之助が植樹を始めた頃からおよそ340年間に、繰り返し大津波の洗礼を受け、
その都度立ち直ってきたが、平成23年3月11日に市街地とともに消失した8)
この大津波の後、奇跡的に生き残ったマツは、「一本松」などと呼ばれ陸前高田市民の希望の光となる。
7月3日、前年の葉がほとんど枯れた後に、生命を持続するシグナルとして新芽が伸びる。
夏を超し、再び衰弱に陥り、12月には枯死を公表するに至った。
この間、同時進行していた後継樹の育成は、
林木育種センター東北育種場と住友林業(株)・住友林業緑化(株)の2箇所において継続している。
 

写真-3:高田松原ふたたび

写真-3:高田松原ふたたび


 
岩手県は「高田松原地区震災復興祈念公園のあり方に関する提言(素案)」をまとめつつある。
この中で、高田松原は、この地域に生まれ育った人々にとって、子供の頃から慣れ親しんだ原風景であり、
7割以上の市民が「高田松原」の再生を望んでいる。
地域に暮らす人々の原風景を取り戻すためにも、再び、最先端の技術と地域の人々の手によって「高田松原」を再生するとしている。
その場所は、高田地区・今泉地区土地利用計画(案)によると、汀線側のほぼ元の位置に計画されている9)
岩手県・社会資本の復旧・復興ロードマップにおいて、
高田松原の防災林造成工事は平成26年度後半から30年度に計画されている10)
 
今から100年後には、陸前高田市の人たちが記憶の中に描き続けている松原を、もう一度、眼前に眺めることができるのである。
 
 

動き出す海岸林の復旧

林野庁は、海岸防災林の再生を以下のように計画・実施している。
 
①青森県~千葉県の6県の海岸林の浸水被害は、約3,660haの被害状況。
 海岸防災林の再生は、安全性が確認された再生資材を活用し、
 様々なNPOや企業等の支援も得つつ植林等を行う「『みどりのきずな』再生プロジェクト」として実施。
②これまで、地域生活・産業・物流等に不可欠な施設が背後にある箇所において防潮堤等の応急復旧工事を完了。
 宮城県気仙沼市における防潮堤は、国の代行により復旧に着手。
③平成24年2月に海岸防災林の復旧・再生に向けた技術的な方針(今後における海岸防災林の再生について)を取りまとめた。
④被災した防潮堤、海岸防災林のうち、既に、青森県、茨城県、千葉県では復旧工事に着手し、
 岩手県、宮城県、福島県でも詳細設計を実施中で、設計が整い次第順次着手。
 
今後、海岸防災林の復旧・再生は、防潮堤の復旧等海岸防災林の造成に必要な基盤造成については概ね5年間までに完了し、
基盤造成が完了した箇所から順次植栽を実施。
全体の復旧は、概ね10年間までに完了することを目指す11)
 
さらに、被災市町村の海岸防災林植栽事業計画を整理すると、
青森県から千葉県の6県における被災林帯は58箇所、復旧面積は合計1,753.03haとなる12)表-1)。
 

表-1:被災市町村の海岸防災林植栽事業計画

表-1:被災市町村の海岸防災林植栽事業計画


 
前掲『みどりのきずな』再生プロジェクトは、
林野庁が、国有林の被災延長約140kmのうち、平成24年度中に約50kmについて海岸防災林の再生に着手するもの。
可能な限り広い林帯幅を有する海岸防災林の将来像を描いている(図-1)。
 
図-1:海岸防災林再生のイメージ図(望ましい将来像)

図-1:海岸防災林再生のイメージ図(望ましい将来像)


 
対象箇所や民間団体の要件等を示し、公募を行い、
公平性や技術的な視点等から活動内容や実施体制等を確認の上で民間団体を決める。
民有林(直轄箇所)は、土地所有者である県、市町村の意向を踏まえて対応する。
 
協定期間は、植栽から保育までの成林が見込める期間(5~10年程度)とし、
保安林機能の維持等の観点から、樹種選定、苗木の取扱い等について、最低限の実施条件を設定する。
植え付けるクロマツ・アカマツについては、
林業種苗法第24条に定める苗木の配布区域と合致する区域で生産された苗木を使用する13)
 
東北森林管理局によると、仙台湾沿岸地区における進捗状況(平成24年10月末現在)は、
被災延長約40km(七ヶ浜町~山元町)、詳細設計約11.6km、工事発注約8.2km、工事着手約2kmとなる。
 
あるいは、宮城県では県内の海岸林発祥の地である七ヶ浜町において「海岸林再生キックオフ植樹」(平成24年6月)を開催し、
多くの県民の手による植樹を行い、美しい海岸林の再生に向けた決意を発信した。
 
このような行政主導の動きの一方、「わたりグリーンベルトプロジェクト」(宮城県亘理町)など、
地元から海岸林再生をめざす活動も始まっている。
 
 

息の長い海岸林再生

スマトラ島沖地震による津波(2004年12月26日)に見舞われた、インドのTamil Nuda州にあるNaluvedapathy村は、
モクマオウ属の低木やココヤシからなる幅1kmの樹林帯に守られ、ほとんど無傷のまま残った。
この海岸林は3年前に行政が村民たちに植樹のギネス世界記録をうち立てようと呼びかけたアイデアから80,244本の苗木を植え、
ミニ森林に生育していた。
村人の女性は、
「木々は私の祖父母や他の人たちによって時代を超えて植えられてきた。私は生涯ずっとこの村に住んでいる。
 この樹木はここ15年間に増え拡がってきている」
と話す。
しかし、この時の植樹はギネスに登録されなかった14)
 
その後、Isha財団の環境イニシアティブであるProject GreenHandsという植樹計画の一環で
大規模な植樹マラソンが2006年10月17日にスタートした。
まず州の主務大臣によって最初の苗木が植栽され、州知事により最後の苗木を植え締めくくられた。
85万2,587本の苗木を同州にある27区、6,284箇所で植栽し、3日間で25万6,289人のボランティアが参加した。
このイベントは「3日間で樹木を最も多く植栽した」としてギネスワールドレコードに登録された。
植樹プロジェクトは、州全土に114百万本の樹木を植え、州森林面積を33%まで増やすことにある15)
さらに、この州では、International Small Group and TreePlanting Programにより、
年間3,594炭素tのCO2削減をめざすCDMプロジェクトも2004年から始動している。
 
ここに海岸林が復活を遂げ、植樹の運動が地元の人たちの支持を得て、
環境を修復するとともに一定の経済効果を生み出している1つの事例がある。
 
 
岩手県、宮城県、福島県における各県被災市町村の復興計画に共通するものは、
地盤沈下している防潮堤の内陸側の土地利用の1つに防災緑地の造成が盛り込まれている。
さらに、防潮堤の前面や内陸側に海岸林を復旧する。
現代において、50年、100年という長大な時間を伴う海岸林造成には、
野呂理左衛門や栗田定之丞といった人物のカリスマ性も必要であるが、期待することは出来ない。
多くの人たちが知恵を結集して、時間のかかる作業に持続力を与えなければならい。
 
わが国に固有とも言えるクロマツによる海岸林を、長大な海岸線の随所に配置することは、
日常において内陸への潮風害や飛砂を防ぎ、沿岸生態系を保全する環境資源、美しい風景を堪能する観光資源、
超高齢社会の健康寿命を支える散策やウォーキングに勤しむ健康資源の価値を享受することにつながる。
そして何よりも、再びやってくる津波に備える心構えを絶えず意識し続ける、地元の人たちの拠り所となるものが海岸林である。
 
 
 

参考文献

1)大日本山林会(1934):郷土を創造せし人々
2)日本砂丘学会編(2000):世紀を拓く砂丘研究
3)林木育種協会(1999):日本の樹木種子 針葉樹編
4)日本緑化センター(2007):松保護士の手引き
5)日本植物生理学会:http://www.jspp.org/cgi-bin/17hiroba/question_index.cgi
6)ソフトサイエンス社(1992):日本の海岸林
7)日本の松の緑を守る会(2001):マツの生物学と松枯れ、日本の松の緑を守る、No.74
8)日本緑化センター(2011):高田松原の再生に向けて、グリーン・エージ通巻454号
9)高田松原地区震災復興祈念公園構想会議・第3回(2012):高田松原地区震災復興祈念公園のあり方に関する提言(素案)および高田地区・今泉地区土地利用計画(案)
10)岩手県(2012):社会資本の復旧・復興ロードマップ(総括工程表)
11)復興庁(2012):公共インフラの事業計画と工程表(全体版)、5月18日
12)復興庁(2012):公共インフラの事業計画と工程表(市町村版)、5月18日
13)林野庁(2012):「『みどりのきずな』再生プロジェクト」及び民間団体との連携の考え方pdfファイル
14)BBC NEWS(2005):Tsunami villagers give thanks to trees, 16 February,http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/4269847.stm
15)Project GreenHands:http://www.projectgreenhands.org/
 
 
 

筆者

財団法人 日本緑化センター 企画広報室長 瀧 邦夫
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2013年4月号
月刊積算資料2013年4月号
 
 

最終更新日:2016-03-17

 

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