文明誕生と下部構造
インフラ・ストラクチャー(Infra Structure)を直訳すると「下部構造」である。
下部構造の上に産業、経済、政治、学問、芸術、スポーツ、ボランティアなどさまざまな人間の上部活動の世界が花開いていく。
(図-1-①)で、下部構造と上部構造の関係を示す。
下部構造とそれに支えられる上部構造を「文明」と呼んでいる。
文明の質と規模はその下部構造によって規定され、
しっかりした下部構造の上には多様で幅広い人間活動が花開き、弱々しい下部構造の上ではか細い人間活動しか営めない。
文明の上部構造を規定する下部構造は、「安全」「資源」「食糧」「交流」という要素で構成される。
この下部構造を構成する要素の一つでも失われると、下部構造全体が崩壊し、遂には、文明全体が崩壊していく。
(図-1-②)がそれを表わしている。
下部構造に規定される文明は、既にある文明だけではない。
文明が誕生していくときにも、下部構造によって大きく左右され、その後の文明の方向が決定されていく。
そのことを日本文明の誕生の地、奈良の歴史が教えてくれている。
日本文明誕生の地、奈良盆地
日本文明は奈良盆地で誕生し、奈良盆地で発展していった。
古墳時代を経て、奈良盆地の南の明日香村で飛鳥の宮群が造られていった。
宮殿の建造物だけではない。
604年には聖徳太子の「十七条の憲法」が制定され、701年には「大宝律令」が制定された。
さらに、この奈良盆地で日本最古の土地区画制度である条里制が誕生していった。
文章で規律を定める社会、土地所有の権利を定める社会が、奈良盆地で出現した。
この社会こそ文明である。
日本文明が奈良盆地で誕生したのだ。
21世紀の現在も、奈良では遺跡の発掘と解明がたゆみなく積み重ねられている。
飛鳥京、藤原京そして平城京は、いつ、誰によって、どのようにして造られたのか、は次第に明らかになっている。
しかし、なぜ、この奈良盆地で日本文明が誕生したのか?
なぜ、奈良盆地で日本文明が発展していったのか?
福岡ではなく、広島でも、香川でも、大阪でも、京都でも、名古屋でもなく、なぜ、奈良だったのか?
この問いには、誰も答えてくれない。
しかし、地形と気象がこの問いに答えてくれる。
奈良には日本文明が誕生する条件が揃っていた。
その条件こそが地形と気象であった。
奈良盆地の地形と気象が、日本文明の誕生を祝福してくれたのだ。
それを理解するためには、ユーラシア大陸から渡来人たちが日本列島にたどり着き、奈良盆地に集結するまでの過程を、
地形と気象の視点から光を当てていく必要がある。
日本列島の玄関、博多
紀元前から紀元後にかけて、ユーラシア大陸から多くの人々が日本列島に渡ってきた。
その数は十人、百人ではない。
千人オーダーの人数であった。
(図-2)は、日本列島に漂着するゴミの分布である。
海を漂流する魚雷対策として防衛大学の山口教授が調べたゴミ漂着調査結果は、
古代の日本列島には周辺各国から人々が漂着したことを示してくれた。
なぜ、そのように大勢の人々が、海に出て、日本列島に渡って来たのか?
諸説ある中で、「ユーラシア大陸の暴力から逃げてきた」という答えが最も腑に落ちる。
何しろユーラシア大陸の歴史は、次々と湧き上がる暴力の連続であった。
極東の海に浮かぶ列島に不老不死の薬草があると、決死の覚悟で船に飛び乗った徐福の物語も、
大陸の暴力から逃げる口実だったのかもしれない。
大陸に最も近い土地は、九州であった。
長崎、福岡そして大分にかけて、船が安全に停泊できる湾は数多くあった。
九州は大陸からの玄関口となった。
渡来した人々は、九州各地に広がって行った。
しかし、九州はあまりにも大陸に近すぎた。
大陸では帝国や将軍たちが戦いを繰り広げ、北方からは狂暴な騎馬民族が襲いかかっていた。
九州にいると、大陸の暴力の音が間近に聞こえてきた。
戦いの煙も漂ってきた。
九州は大陸からの玄関にはなったが、落ち着いて日本文明を誕生させ、発展させていく土地ではなかった。
渡来した人々は、大陸から逃げるように日本列島を東へ向かって移動していった。
瀬戸内海へ
日本列島を東へ向かうには3ルートあった。
一つは日本海ルート、一つは瀬戸内海ルート、一つは太平洋ルートである。
日本海ルートで船を進めると、出雲や若狭の良好な入江があった。
しかし、冬の日本海は大荒れとなり、豪雪に覆われる厳しい気象であった。
太平洋ルートの気候は暖かかった。しかし、波が高く、船が停泊できる良好な入江が少なかった。
三つ目のルートは、関門海峡から瀬戸内海であった。
瀬戸内海の気候は冬でも暖かく一年中温暖であった。
冬の北風もなく、夏の台風も少なかった。
さらに、瀬戸内海の山口、愛媛、広島、香川、岡山には、停泊する良好な入江が豊富にあった。
しかし、これらの入江には島々が点在するだけで、背後の山々が海岸まで迫っていて、都を建設する平地はなかった。
広島、岡山の入江が埋め立てられ平野になるには、あと一千年以上待たなければならなかった。
四国の高松には讃岐平野が広がっていた。
しかし、この讃岐平野の地形は東西180度に開いていて、
あまりにも外敵に対して無防備であり、落ち着いて都を造る土地ではなかった。
河内湾から奈良盆地へ
瀬戸内海をさらに東に進むと、淡路島にぶつかった。
その淡路島を回って進むと、大阪の上町台地が待ち構えていた。
その上町台地のあたりは波が速く、船には険しい「浪速」であり「難波」であった。
しかし、上町台地を回り込むと、水面は静かで穏やかな河内湾となった。
(図-3)は、弥生時代の大阪の地形を示したものである。
出典:「発掘速報展大阪 大河内展」財団法人大阪府文化財調査研究センター
引用:(社)日本河川協会発行、会報 河川文化 第45号
この河内湾には、二つの川が流れ込んでいた。
北から流れ込んでいたのは淀川であった。
南から流れ込んでいたのが大和川であった。
北からの淀川は規模が大きく、しばしば激しい洪水が流れ出てきた。
このやっかいな淀川を避けて河内湾の南に向かうと、穏やかな大和川の河口に着いた。
小さな舟に乗り換えて大和川の上流に遡り、生駒山地と金剛山地が迫る亀ノ瀬渓谷を越えると、奈良盆地に出た。
その奈良盆地の中央には、大きな湖が広がっていた。
周囲を山々の緑に囲まれた湖を抱く土地、それが奈良盆地であった。
(図-4)が、全周が山に囲まれた奈良盆地である。
日本書紀(宇治谷孟「全現代語訳、日本書紀」)の中で、
神武天皇が東へ向かう「東征」で、塩土老爺(しおつちのおじ)の逸話がある。
塩土の老爺は、先発して敵陣を見てくる斥候隊(せっこうたい)であった。
歳を取った爺さまだったので、敵の目を欺けたのだろう。
その塩土の老爺が、神武天皇に向って「東に美(よ)き地あり。青山四周(せいざんよもめぐれ)り」と報告している。
つまり「大将、大将、東に良い土地がありましたよ。全周が山々で囲まれた緑豊かな素晴らしい土地です」。
この情報を得た神武天皇はその奈良盆地に向った、という逸話である。
日本書紀の信憑性について、今でも議論が続いている。
しかし、奈良盆地の地形を表現した塩土の老爺の言葉は、実にリアルである。
奈良盆地を発見した爺さまの興奮した息遣いが感じられる。
このことだけでも、日本書紀の記述は正しいと思いたくなる。
日本書紀や古事記では、その後、神武一行は河内湾の豪族との闘いで苦戦し、
それを避けるように紀伊半島の南へ向かい、熊野から吉野を経て、吉野の山から奈良盆地を制していったとされている。
恵みの地、奈良盆地
神武一行が目指した奈良盆地は、緑豊かな山地に囲まれていた。
まさに、塩土の爺さまが報告したように、青山が全周をとり囲んでいた。
この山々の森林は、潤沢な建設材と燃料エネルギーを与えてくれた。
その山々の沢という沢から、清らかな水が流れ出ていた。
この水資源は文明誕生のため絶対必要なインフラであった。
周囲の山々から流れ出た水は、盆地中央で大きな湿地湖を形成していた。
西側の山地は海風を防ぎ、東北の山地は北風を防いでいた。
奈良盆地の湖はまるで鏡のように穏やかであり、小舟を利用すれば奈良盆地のどこにでも簡単に行くことができた。
奈良盆地は、自然の水運インフラに恵まれていた。
(図-5)の奈良盆地の遺跡や文化財の分布を見ても、奈良盆地の中央には湖があったことが分かる。
『奈良盆地における埋没条里の研究』『日本農法史研究』基図は国土交通省大和川河川事務所作成パンフレットを使用。
この奈良盆地までは、ユーラシア大陸の暴力の騒音は聞こえなかった。
さらに、周囲360度の山々は外敵の急襲も防いでくれた。
奈良盆地の特長をまとめると
①安全であること
②木材資源というエネルギーが豊富なこと
③水資源が潤沢で稲作が可能なこと
④水運という交通インフラに恵まれたこと
つまり冒頭の(図-1)で示した文明の下部構造の全ての条件が整っていたのだ。
この観点から見れば、奈良盆地に豪族たちが集合して、日本文明を誕生させていったのは必然であった。
ところが、この奈良盆地は、文明を誕生させただけではなかった。
奈良盆地は文明を膨張させ、発展させるエンジンも持っていた。
それも奈良盆地の地形に深く関係していた。
竹村 公太郎
公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
【出典】
月刊積算資料2016年1月号
最終更新日:2016-06-22
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