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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第47回 真の名将 ー奪い合いから分かち合いへ ー

 

戦国時代の奇跡

1467年,応仁の乱が起こり,日本は下剋上の戦国時代に突入していった。徳川家康が天下を制するまでの150年間,日本列島の国土は乱れに乱れた。何しろ領土の奪い合いである。領土を整備して優良な土地にしても,いつ奪われるか分からない。
 
ところが,この戦国時代の真っ只中,領土を開発整備した大名がいた。その大名は日本史に残る堤防を築いた。ハードな土木工事のみではなかった。特筆すべきは,工事後の堤防を守る共同体のソフトなシステムを創出した。
 
さらに,この大名は,水を公平に分かち合う方法を確立した。戦って水を奪うのではなく,話し合いと技術で水を分かち合う。下剋上の戦国の価値観と全く異なる手法であった。
 
その戦国大名とは,武田信玄であった。
 
 

危険な甲府盆地

武田信玄が拠点とした甲府盆地は,かつては大きな湖沼であった。地殻変動の激しい日本列島で大規模な平地などない。日本国内で平らな地形があれば,有史以前の昔,そこは海か湖沼であった。
 
日本列島の地質は若い。その若くて脆弱な山からは,雨のたびに土石流が流れ出した。濁流は海や湖に突入すると,急速に流速を落とした。流速が落ちると,水で運ばれてきた土砂は次々と沈降していった。その沈降していった土砂は,水底で平らな地形を形成していった。何千年,何万年の積み重ねで,河川の河口付近では扇状地や沖積平野が形成され,山間の窪地や湖では平らな盆地が形成されていった。
 
甲府盆地もその過程でできた。特に,甲府盆地は周辺をアルプスに囲まれている。盆地に流れ込んでくる土砂含みの洪水の勢いはただ事ではなかった。
 
甲府盆地に住む人々は,この山々からの濁流に悩まされ続けていた。(図- 1)で,山々に囲まれた甲府盆地の地形が鮮やかに示されている。
 

【図- 1 関東地方陰影段彩図】 提供:国土地理院




 
 

信玄堤(しんげんつつみ)

この甲府盆地で,武田信玄は知恵を使った治水事業を行った。甲府盆地に突っ込んでくる狂暴な河川があった。釜無川に合流する御み勅だ使い川であった。信玄はこの御勅使川の勢いを弱めることを計画した。
 
まず,御勅使川を分流する水路を造り,水量を少なくして勢いを減少させた。さらに,分流した川は釜無川の高岩と呼ばれる岩の絶壁にぶつけて勢いを消した。さらに,甲府市街を守る釜無川の左岸堤防の足元に木杭の枠を並べ,濁流が堤防に衝突しないようにした。(図- 2)がその周辺の概要図である。
 

【図- 2 信玄堤の概要図】出典:みんなの旅行記「甲斐武田氏の史跡」




 
信玄堤と呼ばれるこの堤防は土木技術としては有名だが,優れていたのはこの土木技術だけではない。この堤防を守るためのソフトな社会的な仕掛けをしたことだ。
 
 

三社神社のお祭り

信玄は,この地域の守り神の三社神社を堤の上流端に祀った。そして,近辺の村々の神社から神輿を担いで,三社神社に集まってくる祭りを盛んにした。各村から集まってくる神輿は,堤の上を三社神社に向かっていった。ワッショイ,ワッショイと力を込めて,男たちは信玄堤を踏み固めていった。
 
堤防を造るだけでは治水とはいえない。維持をしなければ堤防は弱体化してしまう。お祭りで住民が集まり,堤防を踏み固め,住民たちの力で堤防を強化していく。
 
この「おみゆきさん」と呼ばれる祭りは,21世紀まで続いている。(写真- 1)が,その「おみゆきさん」である。神輿を担ぐ男たちの着物は地区ごとに異なっている。人々はお祭りを楽しみ,その共同体の一員になりきり,力を合わせ堤防を踏み固めている。
 



 

地域ごとの神輿




 

堤防の上を埋める人々




【写真- 1 三社神社,おみゆきさん】 出典:甲府市HP
 
 

戦国時代の奇跡

武田信玄の逸話は治水だけではない。「水の分かち合い」という世界に誇る日本独特の水利用ルールを誕生させた。
 
稲作は大量の水を必要とした。人々は力を合わせて川の中に堰を造り,村まで水路を造り,水を引き込んでいった。人々は堰や水路の建設を通じて強い共同体意識を醸成していった。
 
集落の共同体意識は裏返すと,近隣の共同体への対抗意識ともなった。集落が小規模な場合は,水量はあるので問題は起きない。しかし,集落が大きくなると,限られた水の奪い合いとなってしまう。
 
水を貯めるダムがない時代,人々は変動する川の水量に頼っていた。1週間も日照りが続けば川の水はなくなってしまう。干ばつが続くと,上流と下流,左岸と右岸の集落間で水の奪い合いが始まり,血を流す争いが繰り返えされてしまった。
 
水の奪い合いは,日本だけのものではない。人類共通のものであった。ライバル(Rival)という言葉は,River から来ている。同じ川岸に住む人々は,仲間ではない。自分たちの集落が生き残るための敵対する競争相手であった。
 
 

三分一湧水

干ばつ時,生き死に直結する水の配分は,当事者間で妥協できる問題ではなかった。
 
この厳しい水争いの中で「三分の一堰」が生まれた。これは三集落で水を均等に分けるための堰であった。
 
(写真- 2)がその三分一湧水である。山から流れてくる水源を,下流の三集落が使っていた。水が豊かな時には問題がなかったが,少しでも水が枯れると,ここでも奪い合いが繰り広げられた。
 

【写真- 2 三分一湧水(武田信玄伝説)】 出典:農業土木遺産を訪ねて(土地改良建設協会)




 
(写真- 2)の中に小さな将棋の駒のようなものがある。この駒で水流が分かれて,三つの水路に均等に流れる仕掛けだ。土木技術としても合理的な設備である。
 
しかし,それ以上に感嘆すべきは“水を分かち合う”という考え方だ。
 
力の強い集落が水を独占するのではない。水があるときには,皆が均等に水を享受し,水が少なくなった時には,均等に干ばつに耐える。世界広しといえども,このように水を分かち合った事例など聞いたことがない。
 
三集落の関係者を説得して,このような施設を造るにはよほどの説得力が必要となる。この施設は武田信玄の堰と伝わっている。本当に武田信玄かどうかは問題にならない。人々を説得して「戦うのではなく分かち合え」と言えたのは,武田信玄しかいなかったのだろう。
 
武田信玄という名前が,統治力のシンボルであった。
 
 

2 1 世紀への遺産

武田信玄は人々の力を利用し「堤防を守る」ソフトなシステムを作った。
 
水を奪い合う人々に「水の分かち合い」の考えを確立した。
 
信玄の思想は甲府にとどまらなかった。空間を超えて日本全土に広まっていった。空間だけではない,時間をも超えていった。
 
江戸幕府の役人たちは,この信玄のやり方をちゃっかり利用して世の中を治めていった。江戸時代,堤防を造った後,そこに人々を集め,堤防を踏み固めるソフトの工夫をした。神社を設置して,堤防の上でお祭りをさせた。桜を植えて堤防の上で花見をさせた。遊郭を誘致して,男たちに堤防の上を歩かせた。
 
ソフトのシステムだけではなく,水を分け合う技術もさらに洗練され,日本各地で分水施設が造られていった。それらは全国各地で今でも役立っている。(写真- 3)は群馬にある分流堰である。この堰は地元では別名「地獄堰」と呼ばれている。この名前から分かるように,分流堰ができる以前,この堰では悲惨な戦いが繰り広げられたのだろう。
 

【写真- 3 群馬県榛名長野堰(地獄堰)】




 
このように江戸に伝わったシステムと技術は,明治から平成の行政にまで伝わっていった。地域の人々が協力して堤防を守るという考え方は,近代の「水防法」の基礎になった。河川の関係者が水を分かち合うという考え方は,近代の「河川法」の基礎になった。
 
世界各地には,大規模な水道遺跡が残されている。それらは大量に川から取水し,遠くの都へ導水した権力のシンボルとしての遺産である。信玄のシステムは規模としては小さい。しかし,世界遺産に匹敵する大きな価値がある。
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

非営利特定法人日本水フォーラム代表理事・事務局長,首都大学東京客員教授,東北大学客員教授 博士(工学)。神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒,1970年修士修了後,建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長,中部地方建設局河川部長,近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後,06年より現職。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年),「土地の文明」(PHP研究所2005年),「幸運な文明」(PHP研究所2007年),「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著),「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年),「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム         
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎

 
 
 
【出典】


積算資料2018年2月号



 

最終更新日:2018-05-21

 

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