建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 特集:東日本大震災から3年 本格復興に向けて|とりもどそう 笑顔あふれる女川町《前編》

 

女川町復興推進課 参事
柳沼 利明

 


東日本大震災から早3年。被災各地で、本格的な復興の槌音が響きだしている。
本町では、復興計画で定める第二幕、基盤整備期の2年目に入った。
復旧・復興の中盤に差し掛かり、災害公営住宅建設や自立再建の防集団地の造成などの基盤整備とともに、
産業の根幹をなす基幹産業の水産業のほか、商工業も再生へ向けた取り組みが加速化している。
 
被災前、人口1万人の女川町は、震災直後の大津波によって、町内の住家4,400棟のうち、7割の3,100棟が流失(全壊、大規模半壊)。
離島、半島部に点在する漁業集落でも、
家屋のほか、カキ処理場、ギンザケやカキなどの養殖施設、漁船等が流失、壊滅的な被害を被った。
人的にも人口の1割近い800人以上の尊い生命が奪われてしまった。
 
着々と造成が進む水産加工団地。まもなく、上物の建設が本格化する。秋漁のサンマの水揚げに向け、関係者が一丸となって動きだしている

着々と造成が進む水産加工団地。まもなく、上物の建設が本格化する。
秋漁のサンマの水揚げに向け、関係者が一丸となって動きだしている


 
被災直後の平成23年4月下旬。
「復旧・復興を急ぎたい。町民に一日も早く、復興の方向性を示す必要がある。
 被災から2カ月目の5月11日には町民に対してメッセージを発信したい」
との安住宣孝町長(当時)の命を受け、復興計画の策定に着手。
復興計画では、方針として
「完全防災には限界がある。減災の視点でまちづくりを」
との安住町長の強い意志を反映し、居住地の高台移転や多重防御という考え方に基づいたまちづくりなどを決定した。
 
そのほか、復興期間は8年間とし、はじめの2年間(平成23〜24年度)は復旧事業や復興に向けた準備の時期「復旧期」に、
平成25〜27年度の3年間は、町の基盤の再建、整備の時期「基盤整備期」、
平成28〜30年度の3年間は、整備された基盤に基づき、地域の価値を高めていく時期「本格復興期」と位置付けた。
 
 

安心安全なコンパクトシティづくりがスタート

復旧・復興の拠点、情報収集・発信の拠点となる本丸、役場庁舎と、
それまでの行政情報のほとんどを大津波によって流失してしまった我々町職員は、
町の高台にある小学校、避難所などに分散し、町長以下、全職員が泊まり込みながら、
それぞれの担当執務(対策本部、避難所、捜索、食糧物資など)に当たっていた。
昼夜を問わず、大きな余震が続き、そのたびに緊張が走った。
 

当時、海抜16mの地盤にあった町立病院(現:町地域医療センター。写真右上の建物)。大津波により1階部分が浸水した(平成23年3月11日)

当時、海抜16mの地盤にあった町立病院
(現:町地域医療センター。写真右上の建物)。
大津波により1階部分が浸水した(平成23年3月11日)


 
本町では、一日も早く復興計画を策定する必要があった。
前述したように、町の7割にのぼる住家のほか、
水産業の核となる魚市場や水産加工場、冷凍冷蔵施設、商店街の多くも失ってしまったからだ。
安心・安全な居住地の確保と就労の場の確保なくしては、人口流出に歯止めが掛からない。
そのため、できるだけ早く復興計画を策定したかった。
平成23年8月、第5回目の復興計画策定委員会で鈴木浩会長(福島大学名誉教授)から答申を受けた復興計画は、
町議会9月定例会で一部の文言を修正した後、議決をいただき、その後の土地利用計画案の作成へと突き進んでいく。
 
平成23年11月、町長就任から12年以上にわたり、そして復旧・復興のリーダーとして先導してくださった安住宣孝町長が勇退された。
その後、須田善明新町長に復旧・復興の舵取りが引き継がれた。
就任直後、須田町長は
「安住町政を踏襲しつつも、町のつながり、一体感を形成するため、町中心部の高台、
 地域医療センターの背後の堀切山を新しい宅地として造成し、町の南北を一体的、連帯性のある町並みとしたい」
と土地利用計画案の一部を修正、よりコンパクトなまちづくりへと進化させている。
 
翌24年3月。女川町は、マンパワーと高い技術力、知見、ノウハウを新たなまちづくりに生かしていくため、
国内各地で実績のあるUR都市機構と被災地では唯一となる「パートナーシップ協定」を締結。
さらに、復興事業のスピードアップ化を図るため、
国が初めて導入するCM(コンストラクション・マネジメント)方式を採用することとした。
 
平成24年9月29日、「復興まちづくり事業着工式」を挙行。町民一丸となって復興へと向かうスタートの日となった

平成24年9月29日、
「復興まちづくり事業着工式」を挙行。
町民一丸となって復興へと向かうスタートの日となった


 
同年9月29日には、平野達男復興大臣(当時)や安住淳財務大臣(当時)ほか大勢のご来賓をお招きし
「復興まちづくり事業着工式」を挙行した。
この日が、町、町民、UR 都市機構、CMr(コンストラクション・マネージャー)など関係者が一丸となって
復興まちづくりを進めていく事実上のスタートの日となった。
 
 

復興事業の進度を左右する用地の課題

本格化する復興事業の取り組みでの課題は明らかだった。
被災から3年目の平成25年度は、ほとんどの被災地で造成工事が開始されることに伴い、大勢のマンパワーが必要とされた。
被災地では、その多くを外部からの支援に頼らざるを得ない。
被災地の復興を加速させるため、都市計画を担う技術職、用地取得に精通したマンパワーは、どの被災地でも渇望されていた。
復興計画で位置付ける前半期の計画立案、用地取得の如何が、その後のスピード感、事業進捗に大きく影響を与えるからだ。
本町でも、外部からの派遣職員の多くは、可能な限り復興事業担当に充てさせていただいた。
 

女川駅前周辺の盛土造成。平成27年3月のJR女川駅の再開、「まちびらき」に向け残された時間は多くはない。急ピッチで作業が進められている

女川駅前周辺の盛土造成。
平成27年3月のJR女川駅の再開、「まちびらき」に向け残された時間は多くはない。
急ピッチで作業が進められている


 
町民の願いである復興事業を早期に、かつ確実に推進するためには、まず、用地の取得、確保が欠かせない。
本町の被災元宅地だけでも、中心部で3,000筆超、離島・半島部でも1,000筆超の土地がある。
さらに、高台、防災集団移転促進事業団地の早期の用地取得も喫緊の課題である。
 
膨大な数の土地の取得にあたり、用地係、コンサルタントの合同チームのほか、庁内の管理職などで組織した「用地対策会議」を設置。
全庁を挙げてそれらに当たっているが、未相続や抵当権の設定など、その作業を阻む課題も少なくない。
ましてや、各地からの派遣職員は、地名・地形など一からの習得のほか、地域独特の方言、コミュニケーションの障壁も低くはない。
 
本町の復興事業・町中心部は、約200haの被災市街地復興土地区画整理事業と津波復興拠点整備事業など複数の事業を活用しながら、
また、離島半島部は、浜ごとに防災集団移転促進事業や漁業集落機能強化事業により推進する計画である。
 
通常の土地区画整理事業であれば、様々な手続きを経て、仮換地指定後に造成工事を行うという手順になるが、
復興事業という状況下で、それでは進捗速度の加速化は期待できない。
そのため、法的な拘束力はないものの、土地の契約行為と切り離し、
土地造成工事(盛土など)の「施行同意」を取得しながら同時並行的に土地契約も行っていく方式を採用することとした。
施行同意により早期の復興事業展開を図るためには、効率よく、かつ確実に取得する必要があった。
 
丁度その時期、平成24年7月から8月にかけて、本町では、災害危険区域内の土地所有者、居住者を対象として、
住宅や事業の再建、土地利用に関する具体の意向を個別に聞き取り、
今後の移転先の希望、買い取り希望など土地に関する意向を把握するための「第1回個別面談会」を開催する予定でいた。
対象世帯数は、2,520世帯。
その面談時に主旨を説明、理解を得ながら取得することで、円滑に進むのではないかと考えた。
 
結果、対象世帯数のうち、約9割にあたる2,225世帯との面談を行うことができ、
その際には、「施行同意」も全体の6割にあたる1,500世帯超から取得することができた。
その後も、土地の集団契約会や個別の取得を継続しながら、
平成25年12月の時点では、町中心部の対象者の9割5分もの世帯から施行同意をいただくことができた。
このことはその後の本町の復興事業展開上、大きな成果となったことは言うまでもない。
 
 
 

東日本大震災から3年 本格復興に向けて

とりもどそう 笑顔あふれる女川町《前編》
とりもどそう 笑顔あふれる女川町《後編》
仙台市における下水道施設の復旧
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年3月号
月刊積算資料2014年3月号
 
 

 

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