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国立競技場建設と1964年東京オリンピック

国立競技場(正式名称:国立霞ヶ丘競技場陸上競技場。以下「国立競技場」という)は、
前身である明治神宮外苑競技場を取り壊して1958(昭和33)年に建設された。
国が競技場を建設することになった直接の動機は、
1952年に第3回アジア競技大会を東京で開催することが決定し、
その主会場となる競技場を建設したいという機運が高まったことに始まる。
 
一方、東京都も1960年の第17回オリンピック大会を招致したい旨を国際オリンピック委員会に申請し、
国としても「アジア競技大会および東京オリンピックの主会場を国費をもって建設する」という流れとなった。
残念ながら第17回オリンピック大会はローマに譲ることになったが、
1958年アジア競技大会の大成功を経て、1964年第18回オリンピックは東京開催が決定したのである。
 
明治神宮外苑競技場は1957年1月からわずか4カ月で解体され、
アジア競技大会を2カ月後に控えた翌年3月30日には新しい国立競技場の竣工式を行うという、
今では考えられない速さで建設された。
 
それでも、グラウンドの基礎工事は、元のグラウンドを約50cmの深さまで掘り起こして新たに20cmの玉石層を敷き、
その中に有孔コンクリート管を埋め込むというものであり、
さらにトラックについては5本の試験走路をつくり、
当時の有名ランナーによる試走や透水実験を行って決定したアンツーカで施工した。
 
また、国立競技場の設計には、スポーツをする人々にとっても、スポーツを見る人々にとっても、
またスポーツ・ニュースを扱う人々にとっても、それぞれできる限りの満足が与えられるよう考慮が払われ、
設備を完備することに重点がおかれた。
スタンドは観衆が見やすいように楕円形に近い四心の円弧をもって構成され、
今までのものに比べて著しく丸みをもたせたことが特徴の一つであった。
また、スタンドをできるだけトラックに近づけたのは、
近くから競技が見られるようにし、観衆に競技に親しみをもたせようという狙いもあった。
 
この競技場のもう一つの特色は、スタンドの下を多目的に最大限利用したことだ。
会議室、食堂、25m6コースの室内練習用プールなどがあり、陸橋下には体育館もある。
その他にもスポーツ博物館や合宿施設などもあり、
国民にスポーツをより楽しく身近に感じてもらうための計画があったことを、設計の段階からうかがい知ることができる。
 

写真-1 1958年建設当時の航空写真

写真-1 1958年建設当時の航空写真


 
建設当初5万8,000人であった収容人員は、東京オリンピック開催決定を受けてバックスタンド上段が増設され、7万1,328人となった。
1962年からの拡張工事では、スタンド増設のほか聖火台の移設、グラウンドのレイアウト変更および地下道の新設、
電光掲示板や夜間照明設備の改修などが行われた。
バックスタンド増設には、特殊生コンも大きなクレーンもなかった時代だったため、
いかにして大きなコンクリートを支える足場を築くかが大きな課題であった。
スタンドは傾斜しているので足場は階段状に組むしかない。
足場の強度をチェックしながら全て現場で専用の設備を作り、
そこで型枠を作ったり、既存のスタンドの一部を撤去してその先に継ぎ足していったりと大変な苦労があった。
そしてバックスタンド完成後、建設当初はスタンドの南側に設置されていた聖火台をバックスタンドの最上段へ移設。
一時保管したところから2.6tもある聖火台をスタンド最上段へ持ち上げるのは、関係者の緊張もさることながら至難の業であった。
 
こうして無事に拡張工事を終了し、プレオリンピック大会開催を経て、
1964年10月10日より15日間にわたって東京オリンピックが盛大に開催された。
国立競技場では開・閉会式および陸上競技、サッカー競技(決勝および3位決定戦)、馬術競技(大賞曲障害飛越)が行われている。
 
写真-2 東京オリンピック開会式の航空写真

写真-2 東京オリンピック開会式の航空写真


 
 

東京オリンピック以降の施設運営

東京オリンピックを成功させ、国立競技場は総合競技場として各種施設設備を完備し、
名実ともに日本最高、最大のスポーツの殿堂となった。
これらの施設はすべて国の出資によるものであるため、
競技場は国民のために真の意味でのスポーツ振興に努力する義務を負うこととなった。
 
折しも、オリンピックを機に国民の間でスポーツに対する関心が高まり、スポーツを愛好する国民の層が急激に増加した。
そのため、国民の期待に応えるべく、室内水泳場での水泳教室、体育館での体操教室、
トレーニングセンターやスポーツサウナの新設などの新規事業が、
スタンド下の有効活用や体育施設運営のモデルケースとして開設された。
特に1966年に開設したトレーニングセンターは、
400mトラックの一般開放、雨天でも走れる3階回廊コースの設置、最新機器を備えたジムにより利用会員数が急増した。
国立競技場は、国際的な総合競技場であると同時に、
スポーツの底辺拡大を図り、市民スポーツの場としても全国の公共施設のモデルとなったのである。
 

写真-3 1996年トレーニングセンター練習風景

写真-3 1996年トレーニングセンター練習風景


 
写真-4 1959年スタンド下に設けられた室内水泳場

写真-4 1959年スタンド下に設けられた室内水泳場


 
オリンピックが終了してからも、
国立競技場は天皇杯日本サッカー選手権大会、全国高校サッカー選手権大会、ラグビー日本選手権大会、ラグビー早明戦、
東京国際女子マラソン、サッカートヨタカップなど、国内外のさまざまな大会に利用され、数々の名勝負を繰り広げてきた。
特に、4年計画での改修工事を経て1991(平成3)年8月に開催された第3回世界陸上競技選手権大会は、
4つの世界新記録をはじめとする好記録が生まれ、大いに盛り上がった。
 
 

競技場の新たな挑戦

芝生の変遷

 

写真-5 1990年以前の冬の芝生

写真-5 1990年以前の冬の芝生


 
国立競技場という日本を代表するスポーツ施設として、芝生のグラウンドを美しい緑に保つことは大きな課題であり、
1986年の秋には茶色く冬枯れした芝生を緑に着色する試みを実施するなど、試行錯誤を続けてきた。
その中で、オールシーズン美しい芝生を保っているゴルフ場関係者との出会いがあり、
ウィンター・オーバー・シードという二毛作の工法を知ることになった。
二毛作の工法は理論的に可能とはいえ、スタジアムでの維持・管理といったノウハウはほとんどなかったため、
手探りの中で研究が重ねられ、1991年世界陸上開催に向けたフィールドの改修工事を翌年度に控えた1989年9月に
はじめてウィンター・オーバー・シードが行われた。
冬に生育する芝の種を蒔いて、夏芝が休眠する冬季でも冬芝によって緑のグラウンドを維持するこの試みは、
芝生の常緑化に向けた大きな一歩を踏み出すことになったのである。
また、グラウンドの土壌を土よりも排水の良い砂を採用するため、1990年4月、砂床構造への改修工事を実施した。
砂床の効果としては、排水性のほかにも芝の損傷を最小限にとどめ、大会後の整備作業を簡略化できること、
芝生の生育がコントロールしやすいことなどから、ウィンター・オーバー・シードにも適していることが分かったからである。
 
写真-6 1990年以降通年緑色の芝生に

写真-6 1990年以降通年緑色の芝生に


 
これらによって、芝生維持管理方法が大きく転換するとともに、
競技面において雨の日でも水が溜まらずプレーがしやすいようになった。
そしてこの試みが、全国のスタジアムの芝生管理のモデルとなっていったのである。
 

文化的行事への取り組み

1996年6月、当時、世界3大テノールとして人気を博したオペラ歌手のコンサート「3大テノール日本公演」が国立競技場で行われた。
国立競技場で大がかりな音楽イベントが開催されるのはこれが初めてで、
デリケートな芝生の上にいかに1万8,000席もの座席を設けるかが最大の課題となった。
数日間のイベント開催によって、実際に芝生がどのようなダメージを受け、どのように回復していくのか。
前例がないだけに、主催者と十分協議をしながら海外の実例などを元に、
芝生の上に養生材(プラスチックのスノコ状のもの)を敷き、その上に観客席を設置する準備が慎重に行われた。
公演は大成功を収め、有料入場者数はこの年の国立競技場の第1位を記録し、
芝生の管理においても今後のさらなる文化的行事への門戸開放を後押しする出来事となった。
 
こうして国立競技場は、約半世紀にわたりスタジアムの多角的運営の面でも先駆けとなってスポーツはもとより
文化面においてもスポーツ施設の維持管理の在り方の指針を示すこととなった。
 

国立競技場の歴史

 
国立競技場の歴史
 
 

国立競技場の芸術作品・記念作品

国立競技場には、スポーツのもつ力と美の象徴となる数々の芸術作品・記念作品が点在しており、
一部の作品は保存されることとなっている。
以下にいくつか紹介したい。
 

聖火台(バックスタンド中央)

 

写真-7 聖火台

写真-7 聖火台


 
国立競技場を56年間も見守っていながら、聖火台の製作にまつわる職人の悲話は、意外にもあまり知られていない。
聖火台は高さ2.1m、重さ2.6tの鋳物で、製作者は川口市の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助(すずきまんのすけ)さんと三男の文吾さん。
1957(昭和32)年、68歳の萬之助さんは、生涯最後の仕事として、
文吾さんとともに3カ月後の納期を目指して聖火台鋳造工事に取り掛かった。
寄る年波と持病に苦しみながらも、萬之助さんは誇りをかけて鋳造に取り組み、2カ月後に鋳型を完成させた。
しかし、溶かした鋳鉄を鋳型に流し込んだところ鋳型は大破し、全精力を傾けた2カ月間の作業が無となってしまったのである。
長い職人人生で培われた自信は泡と消え、その身体にもう余力はなく、萬之助さんはその夜から床に伏し8日後に帰らぬ人となった。
 
悲しみをよそに、聖火台の製造期限は1カ月後に迫っていた。
父の無念を晴らすべく、文吾さんを中心に家族総出で突貫工事にあたり、聖火台を納期直前にみごと完成させたのである。
1958年5月24日、第3回アジア競技大会の開会式で聖火台に灯がともり、そして6年後に東京オリンピックが実現。
聖火台は以後、毎年10月10日前後に三男文吾さんの手で丹念に磨かれ続け、
2008年に文吾さんが他界した後も聖火台磨きは弟や息子たちに引き継がれてきた。
 
こうして鈴木家の魂が宿る聖火台は、半世紀の間、国立競技場の高みから大観衆と数々の名勝負を見守り続けてきたのである。
貴重な歴史的財産である聖火台は、今後も保存され国立競技場の歴史をこの先も語り継いでいくであろう。
 

壁画(メインスタンド中央)

 

写真-8 野見宿禰像

写真-8 野見宿禰像


 
写真-9 勝利の女神像

写真-9 勝利の女神像


 
野見宿禰(のみのすくね)像(メインスタンド向かって左)
勝利の女神像(メインスタンド向かって右)
向かって右側には、
栄光を意味するギリシャの女神が橄欖(かんらん:オリーブと訳すことがあるが別種類)と月桂冠を持つ高さ4mの立像があり、
「美の象徴」とした。
左側には、国技と呼ばれる相撲の元祖、野見宿禰で「力の象徴」とした。
白と黒のモザイクをもって端的に表現し、白の部分には淡色の色ガラスを混入した美しい壁画である。
この2体の作品もメインスタンドの高い位置から競技場と競技者を見守っていたのである。
 

織田ポール(第4コーナーフィールド内)

 

写真-11 織田ポール

写真-11 織田ポール


 
1928年第9回アムステルダムオリンピックの三段跳び競技で、初の日本人金メダリストとなった織田幹雄氏を記念したもの。
長さは優勝記録の15m21cmで、三段跳びを意味するようにポールが三段に分かれている。
 

1964年東京オリンピック優勝者銘盤(正面玄関上外壁)

 

写真-11 1964年東京オリンピック優勝者銘盤

写真-11 1964年東京オリンピック優勝者銘盤


 
東京オリンピックで優勝した選手319名の名前と種目を刻んだ銘盤。
徳島県特産の黒御影石(縦2m・横1m)を54枚並べて彫刻し、優勝者を讃えている。
 

1991年第3回世界陸上競技選手権大会優勝者銘盤(南入場口に向かい左)

 

写真-12 1991年第3回世界陸上競技選手権大会優勝者銘盤

写真-12 1991年第3回世界陸上競技選手権大会優勝者銘盤


 
当時、男子100mで世界新記録を出したカール・ルイス(米国)などの名前が刻まれている。
この大会の走り幅跳びでマイク・パウエル(米国)がカール・ルイスとの激闘の末に樹立した世界記録8m95cm は、
いまだに破られていない記録である。
 
 

新国立競技場

 

写真-13 新国立競技場イメージ図

写真-13 新国立競技場イメージ図


 
2013年、2度目の東京でのオリンピック・パラリンピック開催が決定し、姿は変わるが再びこの地がメインスタジアムになる。
新しい国立競技場のデザイン案は、「新国立競技場基本構想国際デザイン・コンクール」の審査を経て、
「国立競技場将来構想有識者会議」で最優秀賞となった作品である。
日本の優れた建築・環境技術をアピールできるデザインであることが受賞の決め手となった。
 
日本の技術は、1964年東京オリンピック開催に向け、当時は困難を極めた国立競技場や代々木競技場といった建築物を完成させた。
現代の日本の技術と知性を集結し、世界に誇れるスタジアムの実現を目指したい。
また、日本におけるスポーツの価値や社会への役割の重要性は今後さらに増し、
旧競技場がそうであったように、新時代のスポーツや文化の在り方を発信していけるスタジアムになっていきたい。

(資料提供 日本スポーツ振興センター)

 
 
 

筆者

独立行政法人 日本スポーツ振興センター 広報室
 
 
 
【出典】


季刊建築施工単価2014年夏号
季刊建築施工単価2014年夏号
 
 

 

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