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ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その8 タイルとテラコッタ《後編》

テラコッタによる美の競演

テラコッタとはイタリア語で“焼いた土”を意味し、彫刻などを施した建築装飾用品の総称である。
躯体にモルタルで圧着するタイルとは違って、針金などで緊結する外壁装飾材である。
日本への導入はアメリカ経由でもたらされた。
アメリカにおけるテラコッタの隆盛はシカゴ派の時代で、鉄骨構造を被覆する石の代用品として考案されたものである。
懸案であったスカイスクレイパーの高層化と軽量化にとってテラコッタは最良の外装材であった。
老舗の「シカゴ・テラコッタ社」の設立は1868年、1880年から1930年代の間がアメリカでの全盛期といわれる。
 
日本では鉄骨煉瓦造の「三井本館」(1902年)に使われたのが国産テラコッタの最初といわれている。
アメリカの最新技術と合理性に早くから着目していた横河民輔によって
カーネギー社の鉄骨構造とテラコッタの技術はセットで持ち込まれたのである。
元々は鉄骨造の被覆材として開発されたが、
日本ではむしろ鉄筋コンクリート造の外装材として、スクラッチタイルと一緒に使われることが多く、
震災復興時から1930年代まで、華麗な装飾性をもつ建築群が、大衆文化の花開いた都市文化に華を添えることとなった。
ライトの弟子として来日したA・レーモンドは、当初はタイルを用いた作品も手がけたが、
ライトの作風から離れてオーギュスト・ペレーの影響を受けるようになるとRC造の打ち放し表現へと向かうようになる。
 
テラコッタやスクラッチタイルへの強いこだわりを見せたのはミッション・アーキテクトのW・M・ヴォーリズである。
 

写真-6-1 大丸心斎橋店・外観 大川撮影

写真-6-1 大丸心斎橋店・外観 大川撮影


 
写真-6-2 大丸心斎橋店・玄関 大川撮影

写真-6-2 大丸心斎橋店・玄関 大川撮影


 
写真-6-3 大丸心斎橋店の装飾 大川撮影

写真-6-3 大丸心斎橋店の装飾 大川撮影


 
ヴォーリズ作品の中でも商業施設におけるテラコッタの存在感は圧倒的で、
「大丸心斎橋店」(1933年、写真-6)や京都の「東華菜館(旧・矢尾政レストラン)」(1926年、写真-7)などが知られる。
 
写真-7 東華菜館の装飾 大川撮影

写真-7 東華菜館の装飾 大川撮影


 
「丸ビル」と肩を並べる巨大ビルの双壁で、
ヴォーリズの代表作であった大阪土佐堀の「大同生命ビルディング」(1925年)にはアメリカの資材と技術とが投入されていた。
構造用の鉄骨はトラスコン社製、テラコッタはアトランティック社製、金物類はサージェント社製である。
最上階回りのゴシック風意匠を始め、内外に用いられたテラコッタの装飾は圧巻であったが1988(昭和63)年に解体された。
 
写真-8 生駒ビル 大川撮影

写真-8 生駒ビル 大川撮影


 
東京のテラコッタ建築が次々と取り壊される中、大阪にはタイルやテラコッタによる個性的な建築が数多く残されている。
北浜一帯には「生駒ビル」(1930年、写真-8)や「芝川ビル」(1927年、写真-9)など
黄色や茶系統のタイルとテラコッタの建築が建ち並んでいる。
 
写真-9 芝川ビル 大川撮影

写真-9 芝川ビル 大川撮影


 
特に工業化が進展していた大阪では汚れの目立たない茶系統のタイルが採用されたといわれる。
 
大阪を代表する建築家の渡辺節はタイルやテラコッタへの造詣が深い事で知られる。
代表作であるSRC造の「綿業会館」(1931年、写真-10)は、7階建の外壁は表面をカットした栗色の渋いタイル張りで、
イタリアルネッサンス建築を想わせる簡素ながら重厚な趣をもつ。
 
写真-10 綿業会館・外観 大川撮影

写真-10 綿業会館・外観 大川撮影


 
華麗な室内空間の中でも一番の見所は2階の談話室の空間である。
英国のジャコビアン様式を彩っているのは暖炉の右側にある6m×4mの大タイル・タペストリー(写真-11)である。
 
写真-11 大タイル・タペス トリー 大川撮影

写真-11 大タイル・タペス トリー 大川撮影


 
空間に彩りを添えるための美術タイルの好例で、京都泰山製陶所の窯変タイルを渡辺自らが陣頭に立って仕上げたものである。
創業者である池田泰山はかつて武田五一の指導の元タイルの改良に取り組んだ常滑の久田吉之助の元から独立した人物である。
このような美術タイルの作品としてはわが国の第一人者である小森忍のデザインした
「小笠原伯爵邸」(1927年、写真-12)の外壁タイルが注目すべきものである。
 
写真-12 小笠原伯爵邸 大川撮影

写真-12 小笠原伯爵邸 大川撮影


 
関西を代表するテラコッタ建築の名作としてライトの一番弟子である遠藤新の
「甲子園ホテル(現・武庫川女子大学甲子園会館)」(1930年、写真-13)がある。
 
写真-13 甲子園ホテル 大川撮影

写真-13 甲子園ホテル 大川撮影


 
外壁全面に張られているのは細長い棒状の素焼きのボーダータイルである。
それに「打ち出の小槌」をモティーフとしたスクラッチ装飾や竜山石や日華石のレリーフなど、
様々な要素が混じり合い、陰影の深い表情を生み出している。
 
日本の近代建築が歴史主義からモダニズムに大きく急展開していく1920年代から30年代にかけて、
“装飾”によって美を生み出そうとする美学に支えられて、都市の建築文化を華やかに彩ったのはテラコッタの建築群であった。
そのような動きに合わせ、1920年代より伊奈製陶、大阪窯業、伊賀窯業などの会社が本格的な生産体制に取り組むようになった。
 
スクラッチタイルとテラコッタは様々なビルディングタイプに使われている。
官公庁の建築、大学、病院、美術館・博物館、劇場そしてデパート等々、
それらは成熟しつつあった大衆文化を背景にした親しみやすさをもっていた。
様式的には古典主義系の細部装飾が製品カタログ化されているのに対し、非古典系のものには個性的なものが多い。
ゴシック調の「日比谷公会堂」、外壁に動物の顔が並ぶロマネスク調の「大阪ビル一号館」(1927年)、
多彩色タイルを使ったイスラム調の「静岡市役所」、スパニッシュ調の「神戸女学院」、
そしてライト調の「首相官邸」など様式的には実に多彩であるが、さらに日本趣味建築への適用も見逃せない。
1930(昭和5)年をピークに各地で日本趣味建築の設計競技が開催され、いくつかの記念的な作品が生れた。
 
写真-14 神奈川県庁舎 大川撮影

写真-14 神奈川県庁舎 大川撮影


 
「神奈川県庁舎」(1928年、写真-14)を初めとして、「京都市美術館」(1934年、写真-15)や「高島屋東京店」、
「旧軍人会館(九段会館)」、「名古屋市庁舎」、「愛知県庁舎」などである。
具象的なモティーフを使うことで“日本”を表現しようとする日本趣味建築にとってテラコッタは極めて有効性が高い材料であった。
 
写真-15 京都市美術館 大川撮影

写真-15 京都市美術館 大川撮影


 
震災復興期を中心に広がったテラコッタ建築は、
RC造という新技術との出会いから、構造体を保護する機能性と装飾性との融合を目指すものとして数多く造られたが、
その時代は長くは続かなかった。
徐々に迫りくる戦時色の中、豪華さや華麗さを競うことがはばかられるようになった。
建築家の個性を反映した一品生産体制で造られるテラコッタは、
製造業者にとっては経営的にも厳しいものとなり、急激にその数を減らしていったのである。
 
 

モダニズム建築とタイル

「大阪そごう」と「森五ビル」は渡辺節事務所から独立した村野藤吾の最初期の作品である。
歴史主義からの解放とモダニズムへの熱い想いが感じられる一方、師匠譲りの巧みなタイル表現が試みられている。
2作品ともにエントランス部分にモザイクタイルを用いた華やかな空間が演出されているのである。
「大阪そごう」の天井画「天空」は、村野の原案に基づきステンドグラス作家の鶴丸梅太郎が手掛けたものである。
 

写真-16 宇部市民館 大川撮影

写真-16 宇部市民館 大川撮影


 
村野の設計した「宇部市民館」(1937年、写真-16)は昭和戦前期におけるタイル建築の傑作である。
凸型に緩やかなカーブを描く3層の曲面で構成された外壁は全面タイル張りで、
食塩釉を施した炻器(せっき)質タイルの肌は青紫がかった艶をもっている。
張り方にも工夫が凝らされ、所々のタイルの表面をわずかに突出させることで、表情に陰影を与えている。
タイル使いの名手の名に恥じない作品である。
村野自身の証言によれば「チリハウス」で知られるドイツの建築家フリッツ・ヘーガーの影響を受けたという。
 
写真-17 新風館 大川撮影

写真-17 新風館 大川撮影


 
同じように、北ドイツや北欧への憧れを抱いた建築家が吉田鉄郎である。
逓信省営繕で活躍した吉田の初期の作品には、優れたタイル建築が多い。
「旧京都電話電信局(現・新風館)」(1926年、写真-17)は、
遠目にはモダニズムだが、近づいてみると茶褐色タイルという単一の材料を用いて豊かな表情を創り出していることが判る。
 
写真-18 東京中央郵便局 大川撮影

写真-18 東京中央郵便局 大川撮影


 
吉田の作品が、茶褐色のタイルから白色タイルに代わるのは1930年頃からである。
厳しいまでのプロポーションや合理的な平面構成の追求などを通して合理主義へと移行していく中、外装材にも変化が現れてくる。
東京駅前に完成した「東京中央郵便局」(1931年、写真-18)は吉田の到達点と評される作品である。
日本の伝統的な木造架構の美しさをRC造に置き換える試みであり、
さらにA・ペレーに通ずる厳格なプロポーションの追求などを通して辿りついたものである。
吉田の原図を見ると図面の端に細かなピッチが採られている。
これは立面図にタイルを割り付けるためのものであり、吉田の細部へのこだわりを示す痕跡である。
吉田のもうひとつの代表作である「大阪中央郵便局」(1939年、写真-19)には、
戦時体制の中で迷彩の青灰色タイルが採用されている。
 
写真-19 大阪中央郵便局 大川撮影

写真-19 大阪中央郵便局 大川撮影


 
こうした逓信省営繕に代表されるモダニズムの動向に影響され、タイルの使われ方も極めて洗練されたものが登場するようになる。
大きなスティルサッシュの開口部枠と白タイルの対照が鮮やかな建築作品が次々と造られるようになった。
「東京歯科医学専門学校」(1931年)はドイツから帰国したばかりの山口文象の設計である。
 
写真-20 大阪ガス ビル  大川撮影

写真-20 大阪ガス ビル  大川撮影


 
「朝日ビルディング」と「大阪ガスビル」(1933年、写真-20)は関西の白色タイル建築の代表格であろう。
山田守設計の「旧東京逓信病院」(1938年)では外壁から軒裏、
さらに円弧面までが一寸角の白タイルを用いて張り詰められることになる。
医療関連施設への白タイルの適用は“健康と衛生の館”のイメージを謳いあげる上で最良の表現であった。
 
写真-21 馬場烏山別邸 大川撮影

写真-21 馬場烏山別邸 大川撮影


 
白タイルが住宅に使われた例としては吉田鉄郎の「馬場烏山別邸」(1937年、写真-21)がある。
鉄筋コンクリート造2階建で陸屋根の国際様式ながら、軒の出を深くして夏の日差しと雨を防ぐなど、
日本の気候風土への対応を意図したモダニズム住宅であり、全面に白色長手タイルを張りつめた外観が印象的である。
階段回りのガラスブロックと外壁タイルとが面一(つらいち)に収められるなど、
吉田らしい細部へのこだわりが感じられる(写真-22)。
 
写真-22 馬場邸階段室の窓まわり 大川撮影

写真-22 馬場邸階段室の窓まわり 大川撮影


 
一見、均一な工業製品のように見える白タイルは、建築家たちの細部のこだわりによって手工芸的な魅了を残しているのが特徴である。
一方、タイル業界の東洋陶器が1929(昭和4)年にトンネル窯の採用を開始、各社もそれに追随して近代設備へと脱皮を図った。
日本のタイル製造はハンドクラフトの時代に別れを告げつつあったのである。
建築家たちのこだわりのタイル表現とは裏腹に実用性のみを追求する大量生産の動きが起きていた。
 
建築界では、ドイツからの影響を強く受けた即物的な白色系タイルのモダニズム建築は、
次の世代の代表である前川國男、坂倉準三、丹下健三らコルビュジエ派の若手建築家たちからは、
空間性の欠如した単なる“衛生陶器”と揶揄されることになるのである。
戦後になるとモダニズム建築の潮流の中で、
実用性と芸術性、打ち放しコンクリート仕上げとタイル仕上げの葛藤はさらに続けられることになる。
 

参考文献

『建築のテラコッタ』INA BOOKLET、1983年
『日本のタイル工業史』(株)INAX、1991年
『日本タイル博物誌』(株)INAX、1991年
『日本のタイル文化』淡陶(株)、1976年
『日本のテラコッタ建築』LIXIL出版、2012年
 
 
 
材料から見た近代日本建築史 その8 タイルとテラコッタ《前編》
材料から見た近代日本建築史 その8 タイルとテラコッタ《後編》
 
 
 

大川 三雄(おおかわ みつお)

1950年群馬県生まれ。
日本大学理工学部建築学科卒、同大学院理工学研究科修士課程修了、現在、日本大学理工学部教授、博士(工学)。
主な著書に「近代日本の異色建築家」(朝日新聞社)、「日本の技術100年 6・建築土木」(筑摩書房)、
「近代和風建築 -伝統を超えた世界-」(建築知識社)、「図説 近代建築の系譜」(彰国社)、
「建築モダニズム」(エクスナレッジ)、「図説 近代日本住宅史」(鹿島出版会)など。
 
 
 
【出典】


季刊建築施工単価2014年夏号
季刊建築施工単価2014年夏号
 
 

最終更新日:2019-12-18

 

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