• 建設資材を探す
  • 電子カタログを探す
ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その9 コンクリートブロック

 

鉄筋コンクリートの造形

モダニズム建築に欠かせない建築構造として,鉄筋コンクリート造を挙げることは誰もが認めるものであろう。コルビュジエの建築表現にとっても,この新しい構造としての鉄筋コンクリート造が不可欠なものだったこともよく知られていることである。
 
ところで,コルビュジエがこの鉄筋コンクリート造という新しい建築にふさわしい構造の可能性を学んだのは,オーギュスト・ペレ(1874-1954)であったこともよく知られていることである。このペレは,エコール・デ・ボザールで建築を学んだが,卒業を前に退学し,家族の経営する建築会社に入り,1890年にはコンクリートの建築を設計していたという。そして,1903年には,フランクリン街のアパート(写真-1)を手掛け,鉄筋コンクリート造の可能性を示した。このアパートは,コンクリート造による建築の造形的可能性と同時に,コンクリート造の置かれていた状況もまたよく示していた。すなわち,このアパートは,表面をきれいなアール・ヌーヴォー風のタイルで覆われており,一見するとコンクリート造の建築には見えない(写真-2)。このことは,コンクリートは煉瓦や石の代用品であり,そのまま剥き出しにして材料そのものの姿を見せるようなものとは,考えられていなかったことを意味していたのである。それでも,ペレは,その後もコンクリート造の可能性を追求し続け,建築表現として,表面のタイルをはぎ取ったコンクリートの姿をそのまま見せるコンクリート打ち放しによるル・ランシーの教会堂へと進んでいった(写真-3,4)。
 

写真-1 フランクリン街のアパート(内田撮影)】

写真-2 フランクリン街のアパート 細部(内田撮影)】


写真-3 ル・ランシーの教会堂(内田撮影)】

写真-4 ル・ランシーの教会堂 内部(内田撮影)】

>


こうした試みを行っていたペレは,その後どうなったのか。実は彼の実験的コンクリート造の可能性の追求は,その後もしっかりと進められていたのである。その実験の成果が,世界遺産となったフランスのル・アーヴルの街に残されている。このル・アーヴルに関しては,『現代建築事典』によれば,「ペレはル・アーヴル(1947-54)によってついに,重量プレハブを大規模に利用し,都市的スケールで鉄筋コンクリートを使う大きな実験の機会を与えられた」と記されている。ル・アーヴルは,フランス北西部の港湾都市で,第2次世界大戦のフランス最大の被害都市であった。そのため,戦後直後の1945年,旧都市部に市庁舎・学校・住宅などを中心とする都市復興計画が起こり,71歳のペレの率いるペレ事務所にその計画が委ねられたのである。ペレは地元の建築家をはじめ他の建築家たちを集めてアトリエ・ペレを組織し,再建計画を進めた。ペレは,計画の基本方針として,鉄筋コンクリートの使用,プレハブ化,モジュールの使用,装飾の排除といったことを掲げ,多くの建築家が手掛ける建物による街並みに統一感を与えることをめざしたのである。そして,自ら立案した全体計画の中の新しいモニュメントとしての市庁舎とサン・ジョセフ教会の設計を担当したのである。
 
 
 

サン・ジョセフ教会について

1957年竣工したサン・ジョセフ教会で,まず驚くのがその高さだ(写真-5)。109mというその高さこそ,最大の魅力であり,おそらく,ペレのテーマであったに違いない。あるいは,こうした高さの追求の歴史はフランス人特有のものなのかもしれない。高さやその垂直性を特徴とする中世のゴシック建築もパリを中心とした地域で生まれたし,エッフェル塔もパリで生まれた。エッフェル塔の建設は,石造建築の延長としての巨大な塔をめざした建築家たちには対応できず,橋梁技師だったエッフェルにより鉄骨造で実現したことはよく知られている。おそらく,ペレがもう少し早く活躍していれば,鉄筋コンクリート造の塔を提案していたかもしれない。彼の代表作品として知られるル・ランシーの教会堂も,言い換えればコンクリート造の可能性を示すために,ゴシック建築を鉄筋コンクリート造で実現したものであったように思えるのである。
 

写真-5 サン・ジョセフ教会(内田撮影)】




サン・ジョセフ教会を見てみよう。平面形式は,いわゆる集中式プランで,造形的には3層からなり,1層部分の中央に正方形状の2層部分が載り,その上に3層部分として八角形の塔が建つ。この八角形の塔を支えているのは,1.2mの柱を4本一組とした巨大な構造体で,1層目の内部中央に四組の構造体が置かれている(写真-6)。これらの柱と梁はすべて打ち放しコンクリートで,外壁はプレキャストのコンクリートパネルからなる。このプレキャストコンクリートパネルの一部に50種の色ガラスからなるコンクリート製の格子状パネルであるクロストラが配されている。そのクロストラによる低層部の寒色系の色彩から徐々に暖色系に変化する色合いは,内部に神秘的な空間を生み出している。ル・ランシーのステンドグラスにより生み出される内部空間も魅惑的だが,ここも見上げると天空に吸い上げられそうな恐怖感とともに未知なる空間への高揚感のある空間ともいえるだろう。外観はコンクリート造でも,その仕上げは粗い仕上げの洗い出しにするなど石造を意識した重厚感漂うものである。そこには,ペレが晩年に至っても,石に代わる素材としてのコンクリート造の可能性を求め,新しい造形性を追求していた思いが見て取れるのである。いずれにせよ,このサン・ジョセフ教会は,今日当たり前の素材として普及しているコンクリートという構法の意味を考えるためにも改めて注目されるべき建築といえるであろう。
 

写真-6 サン・ジョセフ教会 内部(内田撮影)】



コンクリートブロックと鉄筋ブロック造建築の出現

ところで,今回の主題はコンクリートブロック(以下,「ブロック」と記す)である。いわゆる鉄筋コンクリート造の建築が出現し,その耐震性・耐火性あるいは耐久性といった特徴が強く認識されつつも,その積極的導入を鈍らせていた大きな課題がコストの問題であり,構法の問題であった。型枠の中に鉄材を組みそこにコンクリートを流し込んで一体化させる構法を熟知していた職人が少なく,また,材料も高く,当時普及していた他の構法と比べると坪単価が高かった。そのため,コンクリート造の普及と並行して,わが国ではコンクリート造の耐震性・耐火性・耐久性といった特徴を維持しながら,より経済的で軽便ないわゆる廉価版の構法も同時に摸索され始めたと推測される。そうした中で考案された代表的な構法として,コンクリート製のブロックによる鉄筋ブロック造建築と鉄網コンクリート造建築が挙げられるであろう。
 
今回取り上げるコンクリートブロックを用いた鉄筋ブロック造建築の歴史は,いまだにきちんと整理されてはいない分野である。ちなみに堀勇良博士によれば,鉄筋ブロック造建築がいつから登場したのかという明確な記録は欠くとしつつ,最初期の建築事例として,1912(大正元)年10月に竣工した河合浩蔵設計の愛国生命保険会社(写真-7)や同年の『建築画報』に紹介されている駿河町郵便局(写真-8),そして,1914(大正3)年6月竣工の小野田セメント山手倶楽部(写真-9)などを挙げている。また,特許および実用新案の申請書類などからその詳細な構造を確認できる最も古い事例として,建築家酒井祐之助考案の酒井式鉄筋ブロック造と建築家の中村鎮の考案による「鎮ブロック」で知られる中村式鉄筋ブロック造を紹介している。
 

写真-7 愛国生命保険会社(建築学会編『明治大正建築写真聚覧』)】

写真-8 駿河町郵便局(『建築画報』1912年8月号)】

写真-9 小野田セメント山手倶楽部(『笠井真三』)】


また,その後の藤井輝恵氏や藤谷陽悦博士らの研究によれば,このコンクリート製のブロックの特許は1832年にイギリスのランガーが初めて取得し,また,1901(明治34)年にアメリカでコンクリートブロックマシンが考案され,わが国では4年後の1905(明治38)年に初めて導入され,生産が開始されたという。ブロックは,型枠を用いて製造される製品でもあり,こうした大量生産化に対応する製造機械が必要であったのである。
 
笠井は,竣工年は不明だが自邸も同じブロックで造っている(写真-10)。この小野田セメント山手倶楽部や笠井邸の写真では,そのブロックは,表面にはデコボコが付き,粗い仕上げの石造に見える。わが国のコンクリート製のブロックは鉄筋コンクリート造の廉価版をめざして開発されたと推定されると述べたが,こうした表現を見ると,このブロックは鉄筋コンクリート造の廉価版というよりも石の代用品として開発されたように思える。このことから,木造文化圏であるわが国とは異なり,石造文化圏では加工し難い石の代用品として考案された可能性が高いと推測されるのである。
 

写真-10 笠井自邸(『笠井真三』)】



この「石造」の代用品としてのブロックの様子についてもう少し触れておこう。1904(明治37)年に発行された三橋四郎の『和洋改良 大建築学上』(大倉書店)には,コンクリート造に関しても詳細な記述がある。特にコンクリート壁の記述のなかに興味深い箇所がある。すなわち,壁外部の仕上げ方として,型枠に「石ノ如ク接手ヲ造ル為メ表面堰板ノ内部ヘ三角四角等好ミノ断面ヲ有スル横木」を設ける事例が紹介されているのである(図-1)。これは,コンクリートの壁に石造風の目地を付けた仕上げとするもので,硬化し始めたら素早く表面を箒で水洗いする(洗い出し)と,表面に砂粒が現われ,また,鑿切(のみきり)や小叩きなどの手を加えると本物の石のように見えるという。これは,コンクリート壁を切石積みのように見せるための工夫であり,石造の代用品として考えられていたことを示すものといえるのである。そしてまた,コンクリートによるブロックに関する記述もある。すなわち,三橋はブロックを「中空のコンクリート磈」と称し,このブロックを用いて家屋を組立てる方法は,ワシントン市のハルモン・S・パルマーの考案によるもので,機械を用いて種々の大きさのブロックを抜き出し組立てると紹介している。そして,そのブロックは,「天然石ニ類似シテ製造シ又鑿ニテ自在ニ彫刻シ得ベク美麗ナル大理石ニ類似セルモノ」であるという。そのため,出来上がった建築は,「防火,防水,防寒,防虫ニシテ修繕ノ必要ナク経済的ナルノミナラズ美術的ノ操形模様等モ随意ニ型ニテ打抜クヲ得ベク又其コンクリート磈ノ穴ハ瓦斯管,水管,電気線,電話管,換気器等ヲ取付クルノ用ニ供セラル」と,記されているのである(図-2,3)。この記述によれば,ブロックは,石に代わる素晴らしい材料で,それを用いた建築は防火・防水といった性能はもちろんのこと経済的でかつ意匠的にも優れていると紹介されていることが分かる。この書籍の発行は,わが国へのコンクリートブロックマシンの導入1年前であり,石に代わる新素材・新工法としてブロックへの期待が感じられるのである。いずれにせよ,明治末から,わが国では極めて有望な新しい構法として鉄筋ブロック造建築が出現し始めたのである。
 

図-1 型枠およびその完成の姿(『和洋改良 大建築学 上』)

図-2 ブロックの図(『和洋改良 大建築学 上』)】

図-3 ブロック建築の図(『和洋改良 大建築学 上』)】


多様なコンクリートブロック構法の提案

藤井輝恵氏は,鉄筋ブロック造の普及状況を見る一助として,1902(明治35)年から1944(昭和19)年までの鉄筋ブロック造関連の特許ならびに実用新案について分析している。これによれば,特許が18案,実用新案は165案の計183案を数え,また,1919( 大正8)年から1935(昭和10)年頃にかけて出願数が集中しているという。これから,鉄筋ブロック造建築への関心が,大正後半から昭和10年頃までに最も高かったことが窺(うかが)えるのである。なお,この183案の特許や実用新案は,極めて技術的・実用的なものからアイデア倒れのものまで多様であったようだ。例えば,当時の住宅界に洋風住宅という新風を興していた住宅専門会社「あめりか屋」店主橋口信助も1922(大正11)年に実用新案を出願し,翌年に公告されている。それは,ブロックを積み上げていく際にずれないように,ブロック自体の上下に凹凸を付けるというもので,素人の素朴なアイデアを具体化したものといえる(図-4)。183案にはこうした事例も多数含まれていたのである。それでも,当時の建築界で活躍していた「あめりか屋」店主橋口にさえ参入したいと思わせる魅力が,この時期のブロックには存在していたのかもしれない。
 

図-4 橋口信助提案のブロック(実用新案資料)】



さて,こうした提案のなかには実際の建築に応用された実用的な提案もあった。その最初期のものが建築家酒井祐之助考案の「酒井式ブロック構造」であった。酒井祐之助(1874-1935)は,1897(明治30)年に工手学校(現工学院大学)を卒業後,アメリカに渡り,1906(明治39)年にペンシルバニア大学を卒業している。1908(明治41)年に帰国し,酒井建築事務所を開設した。そして,酒井は帰国早々に,現存するわが国最古の鉄筋コンクリート造の建築として知られる三井物産横浜支店(竣工1911年)に建築家遠藤於お菟ととともに携わった。おそらく,アメリカの実務を重視した建築教育を受けた新進気鋭の建築家として,遠藤が注目したのであろう。酒井は,この経験から鉄筋コンクリート造の長所と短所を学び,1914(大正3)年から1921(大正10)年までの間にブロック関係の実用新案5件を登録し,また,特許1件を取得したのである。特許は,「酒井式ブロック構造」と称され,1914年に出願し,翌1915年に特許を取得している。この酒井式ブロック構造は,中空のブロックを2列に並べ,その中空に鉄筋を配しコンクリートを充填し一体化させるというものであった(図-5)。この構造の提案については,酒井自ら「酒井式ブロック構造に依る建築」(『建築工芸叢誌』1916年8月号)と題して,ブロックを用いることにより鉄筋コンクリート造の施工に必要な仮枠(堰板)の使用を省き,また,工事を簡略化し,壁厚も自由に調節し亀裂も防げると主張している。まさに,鉄筋コンクリート造の廉価版として提案されたものであったことが窺えるのである。また,この構法により建設された事例として,1916(大正5)年7月に竣工した東京慈恵会医院医学専門学校記念館(写真-11)と同校長の高木男爵邸倉庫とともに,計画案として京橋木挽町に建設予定であった江島屋倉庫部物品倉庫(図-6)などが紹介されている。酒井は,この鉄筋ブロック造による倉庫建築の普及をめざし,1916年1月にはワイエス商会を設立し,翌年,ワイエス商会を継承発展させ東洋コンクリート工業株式会社を興している。その後の詳細は不明だが,1929(昭和4)年当時,酒井は株式会社酒井コンクリート工業店を経営し,その後も鉄筋ブロック造を手掛けていた。
 

図-5 酒井式ブロック構造(『日本における鉄筋コンクリート建築成立過程の構造技術史的研究』)】

写真-11 東京慈恵会医院医学専門学校記念館(内田撮影)】

図-6 江島屋倉庫部物品倉庫(『建築工芸叢誌』1916年8月号)】



 

この酒井に相前後して,ブロックの特許や実用新案を出願していたのが山内源吉であり,山内の関与していた日本セメント工業株式会社であった。山内は,1918( 大正7)年から1921(大正10)年の間に45件のブロック関係の実用新案や特許を出願していた。山内の最初に出願した実用新案は「耐火石造」という名称で,1919(大正8)年に登録されている。名称は「耐火石造」だが,まさしくブロックのことで,中空ブロックの側面に溝を設け,その溝に鉄筋を配置し,その溝の中にコンクリートを流し込み固定するというものであった(図-7)。これを機に,山内は1919 年8 月に日本鉄筋コンクリートブロック株式会社を設立した。一方,1920年に設立された日本セメント工業株式会社と同年に日本鉄筋コンクリートブロック株式会社は合併し,山内は日本セメント工業株式会社の取締役となり,ブロック開発を続けた。1920年12月には「コンクリート,ブロック」の実用新案を出願し,翌年11月に登録されている。この「コンクリート,ブロック」は,2本の縦用の鉄筋を通す穴を持ち,上面に2本の3角形断面の凸状の突出部,底面には横筋を配するための凹状の窪みを設けたものであった(図-8)。
 

図-7 山内の「耐火石造」(藤谷陽悦『コンクリートブロック造住宅調査報告書―岩田文雄邸―』)】

図-8 日本セメント工業株式会社の「コンクリート,ブロック」(藤谷陽悦『コンクリートブロック造住宅調査報告書―岩田文雄邸―』)】


さて,日本セメント工業株式会社の最初期の作品としては,横浜市営中村町共同住宅館が知られている。日本セメント工業株式会社と横浜市は,1920(大正9)年12月に契約を交わした。『大正九年横浜市事務報告書』によれば「十二月中村町共同住宅館鉄筋『ブロック』造二階建新築工事日本セメント工業株式会社ノ請負ヲ以テ起工」し,翌年の1921(大正10)年5月に竣工している(写真-12)。この横浜市営住宅事業における共同住宅館は,明治末期頃から社会問題化し始めていた低所得者の救済事業として1920年から開始された新しい事業であった。長屋建ての木造住宅群の中にあって,耐震・耐火性を持つ都市型の新しい住宅形式のモデルとして建設されたものでもあり,今日一般化しているわが国の都市型集合住宅の走りともいえる建築であった。この建築は大いに注目され,東京市も開始したばかりの市営住宅事業の住宅モデルとして視察し,木造住宅とともに耐震耐火性とともに高層の高密度住宅の建設をめざした。そして,横浜の実例を参考に日本セメント工業株式会社と契約し,東京市営古石場住宅地として3階建ての住棟4棟と付設食堂および浴場を鉄筋ブロック造で建設した(図-9)。この建築群は,『東京市営住宅要覧』では「本邦に於けるアパートメントハウスの濫觴(らんしょう)」と記されており,構造も,その住まいの形式も時代を先駆けるものであった。
 

写真-12 横浜市営住宅共同住宅館(『関東大震災以前の横浜市営共同住宅館に関する研究』)】

図-9 東京市営古石場住宅(『共同住宅及びビルディングに関する調査』)】


また,日本セメント工業株式会社では,1922(大正11)年に上野で開かれた平和記念東京博覧会会場の住宅実物展示会・文化村にも2階建ての住宅を出品した。この住宅は,「如何にも理想的の都会住宅です。準防火的で有るのが此住宅の特長で,屋上庭園も都会の住宅には必要になつて来ます」と紹介されている(写真-13)。屋上庭園は,鉄筋ブロック造故に可能なものでもあり,単に構造だけではなく,造形的にも生活的にも新しさを表現した住宅であった。いずれにせよ,日本セメント工業株式会社では,鉄筋ブロック造を住宅系の建築に普及させることをめざしていたように思える。ただ,その後の活動は不明なものの,1926(大正15)年頃には活動を終えていたものと思われる。
 

写真-13 日本セメント工業株式会社が文化村に出品した住宅(『文化村の住宅』)】



「鎮ブロック」の普及

さて,ブロックといえば忘れられないのが「鎮ブロック」だ。開発したのは,中村鎮(1890-1933)で,中村自身は自らの構法を「中村式鉄筋コンクリート・ブロック構造」と称した。中村は,1914(大正3)年に早稲田大学建築科を卒業し,1918(大正7)年5月から翌年9月まで酒井祐之助の興した東洋コンクリート工業株式会社に技師として在籍し,その後は,1919(大正8)年9月から翌年5月まで日本セメント工業株式会社に転じ,技師長として活躍した。そうした中で自ら考案したブロックを用いた建築活動を開始するため,1921(大正10)年11月に中村建築研究所を開設した。中村は,ブロックに係る中で,1919年に縦横複筋補強「コンクリート,ブロック」で特許の出願を行っていた。これが通称「鎮ブロック」と称された「中村式鉄筋コンクリート・ブロック構造」で,その方法は仮枠を兼ねるL型ブロックを組み合わせて中空の壁体を作り,その中空部に鉄筋を配しコンクリートを流し込んで一体化させるというものであった(図-10)。また,これまでの鉄筋ブロック造は,床は鉄筋コンクリート造としていたが,床も「鎮ブロック」で造れることが特徴でもあった。中村は,鉄筋ブロック造の利点として,保温・防湿性,材料の軽減,仮枠の削除,施工の迅速性,廉価な価格,外観の優良さおよび梁・柱が突出しないこと,配管配線の利便性,耐震・耐火性を挙げており,まさしく鉄筋コンクリート構造を超える「用途・構造・経済・美」を一体化させた構法と考えていたことが窺える。
 

図-10 中村式鉄筋コンクリートブロック構造(『中村鎮遺稿』)】



さて,『中村鎮遺稿』によれば,「鎮ブロック」による作品は119例が紹介されている。最初の作品は,1920(大正9)年起工翌年3月竣工の報知新聞社ステロー工場および写真室である。そして,その後は函館市内の建物を多数手掛けていることが分かる。これらは,1921(大正10)年4月14日の函館大火後に,中村式構法を用いればローコストで防火建築が可能であると自ら市長に復興事業を進言したことによるという。いずれにせよ,中村式構法は,その構法の合理性が認められ,1924(大正13)年には京都に建つ建築家本野精吾邸(図-11)にも採用され,また,1928(昭和3)年の本野設計の鶴巻邸(写真-14)にも採用された。また,中村の恩師で早稲田大学教授の佐藤功一邸でも採用されるなど,当時,大いに注目されていたのである。とりわけ,ユニークな建築としては,本郷基督教会などの聖堂とともに伝統様式になる前橋の橋林寺開山堂が挙げられる。橋林寺は1932(昭和7)年1月起工,同年12月竣工している。中村が翌年亡くなっており,最晩年の作品といえよう(写真-15)。
 

図-11 本野精吾邸図面(『中村鎮遺稿』)】



写真-14 鶴巻邸(内田撮影)】

写真-15 橋林寺(内田撮影』)】


橋林寺の建物はブロック積による壁式工法であるが,外観上は半円柱の付柱が配され,その上部に肘木等の組物が載っている。組物の上部の垂木はコンクリートで型取りしたものである。また,特殊な建築のため,基本的なL型ブロックだけではなく,役物も使われており,こうした融通性の中で実現した建築であることが分かる。
 
いずれにせよ,中村式鉄筋コンクリートブロック造は,戦前期の鉄筋ブロック造建築として最も多数の作品を生み出した構法であった。しかしながら,時代はより強烈な耐震性を求め,また,高層化を求めていた。そうした中で鉄筋コンクリート構造は,鉄骨を導入することによりその道を切り拓いていった。残念ながら,鉄筋ブロック造建築にはまだ独自の解決方法は見いだせていなかった。
 
 
 
【参考文献】
● 村松貞次郎『日本建築技術史』地人書館 1959年
● 日本科学史学会編『日本科学技術史体系17 建築技術』第一法規出版 1964年
● 村松貞次郎『新建築技術叢書8 日本近代建築技術史』彰国社 1976年
● 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂版』彰国社 1983年
● 日本建築学会編『近代建築史図集 新訂版』彰国社 1988年
● 堀勇良『日本における鉄筋コンクリート建築成立過程の構造技術史的研究』私家版 1981年

 
 

内田 青蔵(うちだ せいぞう)

1953年秋田県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。工学博士。専攻は,日本近代建築史,日本近代住宅史。文化女子大学,埼玉大学を経て,現在,神奈川大学工学部建築学科教授。日本の近代住宅の調査をもとに生活や住宅の歴史研究にあたる。
著書として,『日本の近代住宅』『新版 図説・近代日本住宅史』(共に鹿島出版会),『同潤会に学べ』(王国社),『お屋敷拝見』『学び舎拝見』『お屋敷散(共に河出書房新社),などがある。
 
 
 

神奈川大学工学部 建築学科 教授 内田 青蔵(うちだ せいぞう)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2014年秋号



 

最終更新日:2019-12-18

 

同じカテゴリの新着記事

ピックアップ電子カタログ

最新の記事5件

カテゴリ一覧

話題の新商品