建設情報クリップ

文明とインフラ・ストラクチャー第83回「忠臣蔵の謎」の決着─ 新しい物語 ─

正門の半蔵門は土手

筆者が「半蔵門は何かおかしい」と感じたのは20年前にさかのぼる。
 
1590年、徳川家康が江戸入りしたとき、家康の命の恩人の服部半蔵が、半蔵門近くに住居を構えたので「半蔵門」と呼ばれるようになった。
「半蔵」という名前が忍者を思い出させる。
半蔵門は新宿通り、つまり甲州街道に直結することから、半蔵門は家康が脱出する際の裏門と解説されてきた。
 
この半蔵門に不思議な思いを抱いたのが、広重の「糀町一丁目山王祭ねり込」であった。
そこに描かれていた半蔵門は「土手」であった。
(図- 1)がその広重の絵である。

【図- 1 糀町一丁目山王祭ねり込(広重)】
【図- 1 糀町一丁目山王祭ねり込(広重)】

 
日枝神社の山王祭は江戸三大祭の一つである。
 
祭の行列は江戸城内に入ることが許され、将軍の高覧を受けていた。
祭の行列が江戸城にくり込む様子を広重は描いていた。
その祭の行列が堀を渡ろうとしている。
 
堀は「橋」ではなく「土手」だった。
半蔵門の土手は明治以降に堀を埋めた、と私は勝手に思い込んでいた。
半蔵門は江戸時代から土手であった。
江戸城周辺の地形を改めて凝視すると納得できた。
 
 

尾根の新宿通り(甲州街道)

江戸五街道のうち東海道、中山道、日光街道、奥羽街道は江戸に入るとどこかで湿地にぶつかってしまう。
ところが甲州街道だけは尾根道を通って半蔵門から江戸城に入っていくことができる。
半蔵門と反対側の日比谷の二重橋、大手門は低平地にある。
家康は江戸に入城するとこの日比谷を埋め立てた。
この埋め立て地は少しでも雨が降ると水浸しになってしまう。
(図- 2)は家康が入城したころの江戸城周辺の地形である。

【図- 2 家康が入城したころの江戸城近くの海】
【図- 2 家康が入城したころの江戸城近くの海】
出典:東京キャナルネットワーク
http://www.tokyo-canal.com/

 
ところが甲州街道・新宿通りの半蔵門だけは大雨でも浸水しない。
地形的に江戸城の正門の資格を持つのは半蔵門であった。
 
しかし、敵の攻撃を防ぐのが堀の役目である。
いざという時、橋を落として敵を防ぐ。
それに反し、土手は不意打ち攻撃に対して弱い。
敵は間違いなくこの土手を攻める。
それを承知で江戸幕府は半蔵門を土手のままにした。
 
江戸幕府は土手の半蔵門を防御する必要に迫られ、新宿通りを面的に防御する方法をとった。
四ツ谷見附から半蔵門の麹町を徹底的な防衛地帯とした。
 
四ツ谷見附の麹町入口周辺には、尾張・徳川家、紀伊・徳川家そして井伊家を配置し、紀尾井町と呼ばれるようになった。
また、内堀近くには松平家や京極家を配置した。
 
さらに、八万騎といわれた徳川家の親衛戦闘集団の旗本を新宿通りの北岸に一番町、二番町から六番町とずらりと配置した。
新宿通りの南岸には公官庁、公的機関を配置した。
現在は国会、議員会館、霞ヶ関官庁街となっている。
半蔵門直近には直接的な警備機関を配置した。
今の麹町警察署、警察共済組合のホテルグランドアーク半蔵門はその名残である。
(図- 3)は半蔵門周辺の建物位置図を示した。

【図- 3 麹町の主要建物】 作図:竹村 出典:千代田区観光協会
【図- 3 麹町の主要建物】 作図:竹村 出典:千代田区観光協会

 
麹町は絶対に破られない警備地帯となった。
ところが、この麹町に赤穂浪士が潜伏していた。
それも16名という人数であった。
 
 

赤穂浪士の麹町潜伏の謎

元禄15(1702)年12月14日未明、赤穂浪士は吉良邸に討ち入り上野介の首を取った。
 
討ち入り前の浪士達は三々五々、江戸に向かい、大石内蔵助らは2、3 単位で日本橋石町をはじめ10ヶ所以上の町へばらばらに潜伏していった。
ところが、麹町には副官の吉田忠左衛門ら主要人物総計16名の浪士が麹町に潜伏していた。
 
警戒が厳しい麹町に大勢の不逞の輩集団が潜んだという。
とうてい信じられない事実である。
しかし、ここからある結論が導き出される。
「赤穂浪士達は江戸幕府に匿われていた」である。
江戸幕府は赤穂浪士を見て見ぬ振りをした、という消極的な関与ではない。
徳川幕府自身が赤穂浪士を匿った、という積極的な関与でなければ麹町潜伏の謎は解けない。
 
では、誰が麹町での潜伏を計画したのか? それは簡単に断言できる。
江戸城内の幕臣たちである。
江戸城内の幕臣たちは旗本の子弟が占めていた。
彼らは麹町の番町で生まれ、悪戯盛りの子供時代を麹町で過ごした。
江戸城内の役人こそ麹町の隅々まで知り尽くしていた。
麹町で16名もの浪士を匿えるのは、彼ら江戸城の幕臣以外にいない。
ここまでくると「忠臣蔵」の物語が全く異なって見えていく。
 
 

吉良家の移転の謎、泉岳寺の謎

「忠臣蔵」の物語には、次から次へと不思議な謎が出てくる。
 
1701年、浅野内匠頭が吉良上野介を小刃で斬りつけた「松の廊下事件」が起きた時、吉良邸は今の東京駅八重洲口にあった。
当時、東京駅八重洲口の大きな通り「外堀通り」は堀であった。
外堀から江戸城側が郭内であり、吉良邸は江戸城の郭内の中にあった。
(写真- 1)は外堀が埋め 立てられる前の、江戸城の郭内が分かる東京駅の絵葉書である。

【写真- 1 東京駅】
【写真- 1 東京駅】

 
その吉良邸が隅田川の対岸の本所へ移転した。
この移転は幕府の命令であり、上野介へのお咎めはなかったが吉良家にとって途方もなく不利な引っ越しであった。
 
本所への両国橋は明暦大火後の1661年に建造された。
吉良邸が移転した時期の一帯の隅田川は船着場であり、本所には蔵の倉庫群が連なっていた。
明暦大火災の無縁仏を弔う回向院も建設されていた。
 
(図- 4)は江戸古地図である。
隅田川の川向こうの本所には田んぼが広がり、水はけが悪いジメジメする土地だった。

【図- 4 江戸古地図 両国橋以降,隅田川の東が発達していった】
【図- 4 江戸古地図 両国橋以降,隅田川の東が発達していった】

 
移転する前の吉良邸は江戸城郭内であり、近くには北町奉行と南奉行所があった。
奉行所は裁判所、検察、警察などを司る強力な武装機構であった。
赤穂浪士がいくら準備しても、さすがに江戸城の郭内への討ち入りはできない。
しかし、隅田川の川向こうは薄暗くて人目がない。
吉良邸移転は、赤穂浪士に「さあ討ち入ってくれ」と言わんばかりであった。
 
江戸幕府が赤穂浪士討ち入りの舞台を整えた。
江戸古地図がそれを示している。
 
さらに不思議なことが続く。
泉岳寺である 。
四十七士の討ち入りは、徳川幕府の威信を損ない、天下の平穏を乱した。
そのため、四十七士は取り調ベの後、ただちに全員切腹させられ、その日のうちに埋葬された。
当時、四十七士は間違いなく重大犯罪者たちであった。
その犯罪者が埋葬された寺が、家康が創建した泉岳寺であった。
(写真- 2)は泉岳寺の門前の立札であり、泉岳寺の重要性を示している。

【写真- 2 泉岳寺】 撮影:竹村
【写真- 2 泉岳寺】 撮影:竹村

 
徳川幕府にとって重要な泉岳寺の限られた土地が、四十七人の不逞の輩によって大きく占められることになった。
浅野家の江戸での菩提寺であ ったから、では説明にならない。
徳川幕府の許可、いや徳川幕府の積極的な意向がなければ、四十七士がまとまって泉岳寺に埋葬されることなどない。
 
 

忠臣蔵の最終幕の舞台は房総半島

「忠臣蔵」は日本人が大好きな劇である。
この劇の最終幕は四十七士が切腹する場面である。
観客もこの場面で涙を流し、席から立ちあがり外へ出ていく。
 
赤穂の浅野家はお家取り潰し(改易)になり、浅野内匠頭の弟の浅野長広は広島の浅野宗家にお預けとなった。
忠臣蔵の舞台は撤去され、劇は完全に終わったかに見えた。
しかし、舞台が撤去された数年後に、江戸幕府は大切な最終幕を追加し、演じて見せた。
 
忠臣蔵の最終の舞台となったのは、房総半島の「安房国」であった。
 
古代から房総半島は西日本と東日本を結ぶ要であった。
房総半島の岸壁は船が接岸しやすかった。
西から船で来た人々は、房総半島に上陸して東北に向かった。
 
房総半島の南が上総と呼ばれ「上」が付くのは、
京都から東北へ行く玄関口だったからだ。
(図- 5)で、房総半島が東西交流の交差点であり交流の要であることを示した。

【図- 5 房総半島は東西交流の要】提供:(一財)日本地図センター 作図:竹村・後藤
【図- 5 房総半島は東西交流の要】
提供:(一財)日本地図センター 作図:竹村・後藤

 
1603年、江戸で開府した徳川家康もこの房総半島を重視した。
江戸城の目前に広がる江戸湾の制海権は江戸存続の絶対条件であった。
敵が江戸湾を制すれば、物資の出入りが止まり江戸は危機に陥る。
 
房総半島の最先端の地を「安房国」として江戸幕府が直接統治する領地とした。
安房国は侵入してくる船を監視する重要な地であった。
幕末は勝海舟が安房守となっている。
(図- 6)で江戸湾にとって安房国の重要性が理解できる。

【図- 6 安房は歴史上重要な地点】
【図- 6 安房は歴史上重要な地点】

 
1709年、赤穂事件の際の将軍徳川綱吉が死去した。
綱吉死去の大赦で、翌年、広島に蟄居していた浅野長広は旗本として復した。
 
赤穂の浅野家が「アワ」で復権した。
四国徳島の「阿波(アワ)」ではない。
江戸湾の防御の最重要な土地で「安房国」での復権であった。
 
江戸幕府と赤穂浅野家は心から信頼し合う盟友であった。
浅野家は安房国で復権し、激動の幕末のハリス、ペリーの黒船来航を見張り、江戸城へ伝令を送り続けた。
幕末の徳川慶喜の船の出入りを防衛し、倒幕、佐幕の船の出入りを見張った。
幕末の転換期の重責を負った浅野家は、明治になって明治天皇からお褒めの褒賞を受けたほどである。
 
赤穂事件を地形から見直した。
 
半蔵門、麹町、隅田川の本所、泉岳寺などの積み上げで「江戸幕府が赤穂事件を裏で企てた」と説を立てた。
しかし、それらは間接証拠と推理による仮説でしかない。
 
しかし、幕府と浅野家の切っても切れない密接な証拠を掴んだ。
江戸幕府によって復権した浅野家は、江戸防御の心臓部の安房国に所領を得た。
もう隠すことなく、浅野家は江戸幕府と運命共同体となった。
 
江戸幕府は赤穂討ち入りの筋立てを企て、赤穂浪士達は見事に演じた。
江戸幕府は事件後の処理と始末も完璧にこなした。
 
仮説は事実となり、忠臣蔵の新しい物語となった。
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事、博士(工学)。
神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」シリーズ(PHP研究所2013年~)、「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)、「広重の浮世絵と地形で読み解く江戸の秘密」(集英社2021年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人) 代表理事 
竹村 公太郎

 
 
【出典】


 積算資料2026年2月号
積算資料2026年2月号

最終更新日:2026-05-19

同じカテゴリーの新着記事

人気の電子カタログ

新着電子カタログ

TOP