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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その4 日本における煉瓦建築の盛衰

 

丸の内に蘇った二つの煉瓦造

近年,東京の丸の内に二つの煉瓦造建築が蘇った。一つは明治29年に日本初のオフィスビルとして建てられた三菱一号館,設計は日本建築界の恩人ジョサイア・コンドルである。一度は解体されたが,歴史性のある街づくりを目指す三菱地所の手によって平成21年に竣工時の姿で復元された。もう一つは,コンドルの一番弟子である辰野金吾によって大正3年に建てられた東京駅である。一時は取り壊しが検討されたこともあったが,多くの方々の支持を得て保存が決まり,しかも竣工時の姿に戻して修復された。日本における建築の近代化を支えてきた煉瓦造は,関東大震災を境に,鉄筋コンクリート造に主役の座を奪われ半世紀にわたる活動は終止符を打たれていたが,21世紀の丸の内において再び脚光を浴びることになったのである。
 
日本人にとって“洋風との出会い”は“煉瓦との出会い”そのものである。明治期を通じてその吸収と消化が試みられたことから“赤煉瓦=明治建築”のイメージとして私たちの中に定着している。しかし,明治24年の濃尾地震によって多くの煉瓦造が倒壊したことから,“煉瓦造の耐震化”が日本建築界の最大の課題となった。さらに,再び関東大震災に遭遇し,以後は鉄筋コンクリート造に主役の座を譲り渡すことになり,50年余りでその役割を終えたのである。煉瓦造建築を通じて何を学んだのか。その歴史を振り返ってみたい。
 
 
 

始まりは反射炉と軍需工場

煉瓦は,近世初頭に平戸のオランダ商館で台湾製のものが使われていたという記録があるが,実用化が進むのは19世紀の中葉からである。名称も幕末から明治初期までは“焼瓦”あるいは“煉化石”と呼ばれていたが,明治30年代には“煉瓦”に落ち着いたようだ。煉瓦には一般的な「赤煉瓦」と,高温に耐える特殊な「白煉瓦」の2種類がある。後者は,製鉄所の溶鉱炉などに使われる耐火煉瓦で,珪藻土を用いた色調から白煉瓦と呼ばれる。白煉瓦は,反射炉建設のためには絶対に必要であったことから,赤煉瓦に先行して製造され,嘉永3年に佐賀藩の反射炉に用いられたものが日本初とされている。その後10年足らずの間に佐賀で9基,その他,韮山(図−1)や鹿児島,水戸などでも建設され,反射炉ブームとなった。鉄砲を作るための鉄の鋳造に欠かせない施設だったからである。
 
一方の赤煉瓦は幕末から明治初期の軍需工場を中心に導入された。中でも長崎製鉄所と横須賀製鉄所,そして富岡製糸場が国家的建造物としての3大官営工場である。長崎製鉄所は,反射炉ではなく高炉の設置を目的として造られ,安政4 年10月に着工,万延元年12月12日に上棟式が行われた。建築用煉瓦を焼いて積み上げ,洋式小屋組(トラス)を採用したわが国初の洋式工場である。当時の製鉄所は鉄を作る技術から加工する技術まで様々な技術が集約されたもので,その最大のものが軍艦であるが,今日の感覚でいえば宇宙開発のプラントに近いものであった。施設名も「熔鉄所」から「製鉄所」そして「造船所」へと変化している。
 
この長崎製鉄所において,オランダ人海軍機関将校ハルデスの指導のもとに焼かれたのが日本初の国産煉瓦である。ハルデスは,幕府がオランダに発注したヤッパン号に乗って来日した技術士官である。このヤッパン号がのちに咸臨丸と名前を改めて太平洋を横断することになる。ハルデスは長崎の瓦屋に命じて煉瓦を焼かせたとの記録がある。ハルデスの下にいたオランダ人の鍛冶職人マイソルの指導のもとに,日本人の技術者小川貞五郎らが煉瓦焼成を手がけた。
 
長崎製鉄所で焼成された煉瓦はいわゆる“蒟蒻(こんにゃく)煉瓦”と呼ばれる扁平な形状のもので,大きさは220×104×39mmであった。蒟蒻煉瓦は施工する立場からすると枚数がかさむが,焼成する立場からすると比較的良質のものが作りやすいという利点があった。特に長崎製鉄所内で焼かれた蒟蒻煉瓦は“ハルデス煉瓦”と呼ばれ,他のものと区別されている。長崎製鉄所の遺構はほとんど残っていないが,その直系と思しき建造物が明治元年には竣工した長崎市小菅町にある小菅ドック巻上げ機小屋の建物である(図−2)。この壁体は蒟蒻煉瓦で,フランス積みの小口には数種類の刻印が押されている。
 

図−1: 韮山反射炉(安政4 年頃,江川担庵) 『建築百年史』,建築百年史刊行会

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図−2: 長崎小菅ドック巻き
上げ機小屋,同壁体『日本煉瓦史の研究』水野信太郎,法政大学出版


日露海戦を勝利に導いた横須賀製鉄所

長崎製鉄所の建設によって,幕府は近代化の大きな一歩を踏み出したが,さらに江戸近郊に同様の施設を作る必要性を強く感じていた。慶応元年9月に起工された横須賀製鉄所の建設を積極的に推進したのは,幕府内で最も優れた人材と評された小栗上野介である。その完成を前に徳川幕府は瓦解したが,明治新政府によって継承され,明治4年4月7日に完成。明治期における日本最大の工場施設である。後に日露海戦で勝利した東郷平八郎は,自分たちの勝利は“小栗殿のお蔭”との感想をもらしたといわれる。
 
横須賀製鉄所は,幕府と親しい関係にあったフランスの影響を受けている。製鉄所の首長はフランス人のヴェルニー(1837〜1908)であり,いわゆる“ヨコスカ煉瓦”(図−3)の焼成を指導したのは,ヴェルニーと製鉄所の舎蜜掛ボエル(生没年不詳)である。
 

図−3: 横須賀製鉄所製煉瓦 『日本煉瓦史の研究』




彼らの指導の下,煉瓦製造や製鉄所建設に深く関わっていた堤磯右衛門の『堤家文書』には,明治初年にフランス人技師によって作られた煉瓦の値段に関しての記録があり,「野島ヶ崎灯台2万5,000本 375両」や「城ヶ島灯台 8,000本 120両」の記録があり,およそ1,000本で15両であったことが分かる。
 
横須賀製鉄所の完成した明治4年の3月に起工,明治5年7月に竣工した旧富岡製糸所(現片倉工業株式会社富岡工場)はフランス積みの煉瓦と木造との対比が美しい木骨煉瓦造の建物である(図−4)。横須賀製鉄所の建設に関わった多くの技術者や職人が,明治政府に雇われて富岡の工事に携わった。設計はフランス人技師バスチャン(1839〜1888)である。シェルブール造船所の船大工出身で,慶応元年から横須賀製鉄所の「船工兼絵図引職」として働き,明治4年から富岡製糸所に関与している。バスチャンの指導の下に働いた日本人としては明土村(埼玉県深谷市明土)の韮塚直次郎の名前が残っている。韮塚は明土村の瓦師親方の根岸喜三兄弟や若松一族,入枝の倉上一族等の協力を得ていたという。横須賀製の煉瓦も富岡製の煉瓦も形状は扁平で厚みの薄い煉瓦で,長崎のハルデス煉瓦の系譜に属するものである。
 

図−4: 富岡製糸所・外観,繰糸所外壁,繰糸所内部 大川撮影



煉瓦の街づくり

コンドル以前に活躍していたお雇い外国人の中で最も大きな業績を残したのはT・J・ウォートルスである。薩摩藩の仕事をきっかけに新政府との関係を築き,明治政府による初めての洋式工場である大阪造幣寮の建設を手がけた。この建設に際して大阪の鴫野に登り窯を築き,江川(某)によって数百万個の建築用煉瓦を製造,現存する泉布館には「YEGAWA」の刻印の煉瓦が使われている(図−5)。さらに東京に活躍の場を移し,竹橋陣営の建物を手がけるが,その煉瓦は千住小菅で焼いたものである。こうした経験を経たのち,銀座煉瓦街計画に着手し,日本での本格的な煉瓦製造に道筋を付けることになった。
 

図−5: 泉布観と大阪造幣寮用煉瓦 『日本煉瓦史の研究』



明治5年2月26日,和田倉門の会津屋敷から出火した大火は,銀座お堀端から築地にかけて41ケ町,28万8,000坪を焼き,罹災人口を1万9,872人の被災者を出した。この大火をきっかけに不燃都市建設の必要に迫られた新政府は,ウォートルスを最高責任者として銀座煉瓦街の建設に取り掛かった。この煉瓦の発注を引き受けたのは京橋八丁堀の平松栄治郎という人物である。平松は明治5年に小菅にあった町会所倉庫の払い下げを受け,ここで煉瓦の製造を始めた。後の小菅集治監(現在の東京拘置所)の場所である。工場の名前は盛煉社(別名で製煉社,精煉社ともいわれる)で,ウォートルスの指導のもとに日本初のホフマン窯3基が築造された。関西での煉瓦焼成では「登り窯」が使われたが,関東では煉瓦製造史上ならびに窯業技術史上画期的な焼成釜である「ホフマン窯」が導入されたことになる(図−6)。
 

図−6: 旧下野煉化製造会社煉瓦窯で現存する最古のホフマン窯『日本の美術 No.544』




日本への煉瓦造の本格的な導入となった銀座煉瓦街(図−7)計画は明治10年6月をもって終了した。現在の京橋から新橋まで,数寄屋橋から築地までを含む広大な地域の煉瓦家屋が一人の建築家によってデザインされた例は世界的にも珍しい。しかし銀座煉瓦街は技術的には成功したとはいい難い。熟練した煉瓦工が育っていなかったこと,煉瓦および煉瓦目地モルタル用セメントの品質が劣悪であったこと,設計図書の不備などが理由であった。
 

図−7: 銀座煉瓦街の写真/『建築百年史』 「煉瓦建築設計原
図」/『東京駅と煉瓦』




銀座煉瓦街建設後の明治11年,小菅の旧盛煉社の施設群は,集治監用地として買い上げられ,以後,関東大震災で施設が大打撃をうけるまで囚人労働として煉瓦製造が続けられた。集治監の看守の胸ボタンに採用されているマークから,小菅製の囚人煉瓦には桜のマークが刻印されている(図−8)。ホフマン窯という輪環式煉瓦焼成窯の技術を習得した日本人のひとりが小倉常祐である。小倉は大蔵省建築局付属の煉瓦工場で技術を学び,盛煉社に勤務,小菅の集治監でも技師として残り,煉瓦製造の指導に当たり,その後も煉瓦製造にも深く関わり続けた。また高木忠五郎とともに,明治15年に士族授産の目的で設立された東洋社に招聘され,愛知県の西尾と刈谷で赤煉瓦の製造に関わった。この東洋社の煉瓦は横須賀猿島要塞や東京湾砲台などにも使われた。
 

図−8: 小菅製の囚人煉瓦 『日本煉瓦史の研究』



日本煉瓦製造会社の設立

幕末明治期に始まった煉瓦製造の歴史は,明治20年の日本煉瓦製造会社の設立によって一つの区切りが付けられた。そこにはドイツの煉瓦技術が活かされていた。オランダ,イギリス,フランスと続いてきた諸外国との交流は,明治中期になって急激にドイツとの関係が深まった。伊藤博文によって起草された明治憲法が新興国のプロイセン憲法を参考にしたことからの影響であろう。この時期,外務大臣として条約改正に取り組んでいた井上馨は,官庁集中計画のためにドイツ人技師のエンデ&ベックマン事務所を招聘,官庁集中計画が検討されたが,結果的には「東京裁判所」と「司法省」(図−9)の2棟の煉瓦造が建てられたことで終わってしまった。しかし日本からも建築家や職人が渡独するなど,相互に交流が行われ,レンガ製造の実習生としてドイツに留学した大高庄右衛門は日本における煉瓦製造の中心的存在となった。何よりもベックマンが日本の煉瓦の品質が悪いことを懸念し,機械製煉瓦の大工場の設立を建議したことで日本に本格的な煉瓦製造会社が作られることになったのである。
 

図−9: 法務省旧本館(旧・司法省)大川撮影




渋沢栄一,益田孝らの財界人を中心にわが国最初の本格的な煉瓦製造会社が設立されたのは明治20年10月である。ドイツ人の煉瓦技師ナスチェンテス・チーゼが招聘され,埼玉県榛沢郡上敷免村(現在の深谷市)にホフマン窯3基をもつ近代的設備の煉瓦製造工場が建設,ここに初めて近代的煉瓦生産が始まったのである。以後,官庁建築をはじめとして多くの煉瓦造建築が建設されることになった(図−10)。幕末明治初期に始まり,様々な試行錯誤を繰り返してきたが,本格的な煉瓦を大量に製造できる体制がここに誕生したのである。この時期の煉瓦造建築として特に人々の注目を集めたのが明治23年竣工した「浅草凌雲閣」(通称「十二階」)である(図−11)。10階までは煉瓦造,11階と12階は木造で,1階の外径40尺(12m),全高173尺(53.8m)の8角塔で,電動式エレベーターが初めて使用されたが,間もなく危険なため運転中止となった。震災で倒壊するまで明治中期の煉瓦全盛期を象徴するモニュメントであった。設計は灯台の建設で知られるバルトンである。
 
当時の煉瓦の種類としては,普通煉瓦は,「特別焼過一等」「焼過一等,二等,三等」「下焼過」「並焼過一等,二等,三等」に分かれている。表積煉瓦には「並形表積」「淡黄色表積」などの種類があった。普通煉瓦の標準寸法は長さ7 寸5分,幅3寸6分,厚さ2寸であるが,明治も半ばになり全国的にも煉瓦生産が増大すると,寸法の不統一が問題となってくる。高原弘道は明治25年に「煉化石製造寸法改正の事に就いて」『建築雑誌』(明治25年7月)を発表している。また大高庄右衛門は「煉瓦の形状について」『建築雑誌』(明治38年9月)を発表,煉瓦造の普及に伴う問題点であった。
 

図−10: 上敷免工場(明治32年)『東京駅と煉瓦』


 

図−11: 浅草凌雲閣(浅草十二階)明治32年,『明治の建築』,日経新書



J・コンドルの使命と課題

来日したJ・コンドルにとって最大の課題は,木造の伝統しかなかった日本に,煉瓦造や石造の西洋建築をいかに確実に実現させるかにあった。具体的には軟弱地盤での基礎構法と,地震国日本における耐震構法の確立である。コンドルが基礎構法に深い関心を抱いていたことは講義録『造家必携』を見ると良く分かる。講義の大半が基礎に関するものであった。基礎構法に関しては軟弱な泥土層(沖積層)では浮地業形と杭打地形,強固な粘土層(洪積層)ではコンクリート地形といったように分けて使うことを提案している。また耐震構法においては鉄材による煉瓦壁体の補強と煉瓦目地へのセメントモルタルの併用の2点を提案している。
 
煉瓦造を帯鉄(じょうれん鉄)によって補強する考えはコンドルの初期の作品「開拓使物産売捌所」(明治13年)にも用いられている。コンドル以前にレスカスによる先例もあったが,帯鉄による煉瓦造の補強が注目され始めるのは濃尾地震以降のことである。堀勇良氏の報告によると,大正2年までに竣工した煉瓦造建築99例中,帯鉄で補強したものは26例あり,特に妻木頼黄(つまきよりなか)の関連した煉瓦造13例には帯鉄による補強がなされていたという(図−12)。
 
濃尾地震の直後に行った講演の中では,コンドルは煉瓦造建築の耐震化に関して,鉄組「防火床」構法と洋風トラスの桁行方向を連結する「振れ止め」を提案している。前者は「海軍省庁舎」(明治23年)に用いられたのが日本で初の事例。後者は欧米においても事例がなく「三菱一号館」(明治27年)において初めて採用されたものと考えられている。
 

図−12:じ ょうれん鉄構法/東京商業会議所,妻木頼黄,『東京駅と煉瓦』



「三菱一号館」にみる煉瓦造の耐震化

日本初の本格的なオフィスビルである三菱一号館(図−13)は,地下1階,地上3階,軒高約50尺(約15m),建坪約400坪の当時としては大規模な煉瓦造建築である。コンドルの日本での役割は様式や意匠面よりも,むしろ技術面にあったとされている。三菱一号館が,軟弱地盤に建てられた煉瓦造でありながら,関東大震災を経て昭和43年に解体されるまで,建設時の姿そのままに建ち続けていたことは驚異的で,基礎構法と耐震構法の技術の確かさを示している。ここに採用された基礎構法は「杭打地形」で,摩擦杭と板杭を打ち,角材をボルトで組んだ捨算盤で杭頭を連結,杭間には割栗石を突き詰め,その上に厚さ約4尺4寸のコンクリート布基礎を設けたものである。開拓使物産売捌所以来,コンドルが試みてきた基礎構法の集大成ともいえるものである(図−14)。
 

図−13:復元された三菱一号館 大川撮影


 

図−14:三菱一号館矩計詳細図 『新建築』2010年2月臨時増刊号




外壁はイギリス積みの化粧平目地で,腰石は花崗岩の4段積みである。外壁厚は地階が煉瓦3枚半積み,1階が3枚積みで,2階が2枚半積み,3階が2枚積み。使用された煉瓦寸法は0.75×0.36×0.2尺,目地幅は0.025尺で当時の一般的な東京型の煉瓦寸法である。煉瓦の耐震化を図るために帯鉄によって外壁が補強されている。また煉瓦積み用のモルタルは,一般的に石灰モルタルが使用されるが,一号館では耐震性の高いセメントモルタルが使われていた。もう一つのポイントは,鉄組「防火床」構造が採用されていることで,大梁に小梁を取り付けてそれに波型鉄板を水平に渡し,その上から煉瓦屑コンクリートを打ったものである。また木造小屋組においては桁行方向を繋いだ「振れ止め」を使用するなど,濃尾地震直後の講演会でコンドル自らが提案した通りの配慮がなされていた(図−15)。
 

 

図−15:三菱一号館の鉄組「防火床」と小屋組(解体時実測図) 『新建築』2010年2月臨時増刊号




「三菱一号館」は明治27年6月30日に竣工,翌年には「二号館」,翌々年には「三号館」がいずれもコンドルの手で完成,その後は曽禰達蔵や保岡勝也らによって進められ,明治40年9月竣工の「一三号館」が最後で,その躯体の一部にはRC造が使われていた。煉瓦街の解体は高度経済成長期の昭和35年代に入ると徐々に進められた。「二号館」のみは再開発事業との関係から戦前期の昭和8年には「明治生命館」に建て替わっていた。関係者の想いもあってか,最後まで残されていた「三菱一号館」は昭和43年3月23日から取り壊しが始まった。
 
 

強さと美しさを併せ持つ煉瓦造

東京駅は,日本における最大規模の煉瓦造であり,耐震性を十分に考慮した日本の煉瓦造技術の集大成ともいえる作品である。設計者の辰野金吾は,第1世代の建築家として煉瓦造の導入に尽力してきた。明治36年に設計依頼を受けた辰野は,当初は鉄筋コンクリートで造ることを考えていた。しかし先駆例である神戸和田岬の東京倉庫の現場を視察した折,固まる前のコンクリートを眼にして不安となり“(かちかち山の)狸の泥船じゃあるまいし”との感想を漏らし,急遽,確信の持てる煉瓦造に変更したという。煉瓦2枚半という壁厚はRC造の60センチという壁厚から決まったといわれる。
 
当初は42万円という少額の予算のため平屋建てで計画を進めていたが,“中央停車場”としての認識が高まり2階建てに変更,さらに鉄道院の総裁となった後藤新平の進言によって3階建てに変わった。こうした紆余曲折を経ながら明治41年に着工,6年半の歳月をかけて大正3年に竣工している。予算は本屋および付属建物のみで約280万2,000円となり,当初の約7倍に膨れ上がった。使われた煉瓦は833万2,000個,化粧煉瓦は93万4,500個,セメント2万8,843樽で,職工の延人数は74万7,294人と記録されている。全工事期間にして一日平均300人,ピーク時には1日800〜1,000人が働いたこともある巨大な現場であった。
 
東京駅は単なる煉瓦造ではなく鉄骨煉瓦造である。しかし「鉄骨で補強された煉瓦造」なのか「鉄骨造を主体とした煉瓦造」なのかは一概には判断が難しい。鉄骨が建ち上がった全体のシルエットからは鉄骨造そのものにも見える。一方,鉄骨の効果を考慮せず煉瓦壁体だけでもかなりの耐力があることが確認されている(図−16)。
 

図−16:東京駅・鉄骨組み立て『建築百年史』




建築材料学の笠井芳夫博士は,鉄骨煉瓦造の定義を「鉄骨と厚いれんが壁或いは補強れんが壁の複合構造を持ち,床は防火床構造と称し,通常鉄骨I形ばりに生子鉄板を架け,軽量コンクリートを打設したもの,またはこれに近いもの」としている。この分類から笠井博士は,明治35年の「三井本館」(図−17)や明治41年の「赤坂離宮(迎賓館)」は同系統のもので,いずれも鉄骨は床・屋根などの垂直荷重を支えるとともに,厚い自立した煉瓦壁を補強していることから“補強式鉄骨煉瓦造”と称している。それに対し,「鉄骨を木造に近い組み方で構成し,煉瓦で被覆補強し,かつこの煉瓦を鋼材で補強した」ものは“補強帳壁式鉄骨煉瓦造”と称すべきとしている。これは鉄骨を主体とし,これに石材・煉瓦・その他の荷重を支持させ壁の中に平鉄・棒鋼を縦横に入れて,水平力に対する補強を行っている点に特徴があり,例として「丸善書店」(明治42年,佐野利器)や「東京駅」を挙げている。つまり笠井博士によると,東京駅はカーテンウォール式の鉄骨煉瓦造ということになる。組積造として見ると開口部(窓)が意外に多く,全体の壁面の約3割を占めているが,これも鉄骨材が構造芯となっていることの証左であろう。日本においては,この鉄骨煉瓦造の技術が,その後の鉄骨鉄筋コンクリート造へと継承されたと考えられるのである。
 

図−17:三井本館・上梁式『建築百年史』




東京駅の煉瓦壁の美しさは定評があるが,それは構造用(躯体用)煉瓦と化粧煉瓦の2種類が使われているからである(図−18)。躯体煉瓦の積み方は明治末から大正にかけて最もスタンダードであったオランダ積で,イギリス積みとほぼ同じだが角部の処理のみに違いがある積み方である。化粧煉瓦の方は小口だけを壁の表面に出すドイツ積み(小口積みともいう)が採用されている。化粧に使う煉瓦は焼き上がりの色調が全て揃っていなければならない。そのため,大量焼成にむくホフマン窯ではなく,カッセル窯という特別の無煙窯で注意深く焼き上げられた。東京駅では当然ながら精度の高い仕事が要求されたが,工事終了後にはタイル屋の数が急増するという波及効果をもたらしたという。外装材の歴史において,“明治の煉瓦”が“大正のタイル”に置き換わるきっかけとなった。
 

図−18:東京駅の煉瓦 『東京駅と煉瓦』




煉瓦壁の美しさのもう一つのポイントは“目地”である。目地の材料はポルトランドセメントと砂を主体とし,それに水を加えたセメントモルタルが使われ,仕上げは通常の“化粧平目地”ではなく,“覆輪目地”が採用されているのである。この目地は本場のヨーロッパでも見ることのない日本独自の手法で,目地材料が表積み煉瓦の仕上げ面と同じ面で円弧を描く,いわば,小さな蒲鉾が煉瓦目地の溝を走っているような仕上げである。細やかで手の込んだ最高級の仕事である。そのため煉瓦職人は一日に1,000本積むのが普通であったが,東京駅では400本しか積めなかったといわれている。
 
明治を代表する建築家の辰野金吾が,師であるコンドルの教えを技術面で継承しつつ,さらに煉瓦造建築の美しさの点で頂点を極めた作品であった。赤煉瓦の壁面に白い花崗岩を組み合わせた華やかなスタイルは辰野式と呼ばれる“フリークラシック様式”である。全長330mの大きさから,一つの建築物としてのまとまりに欠けるとの批評もあるが,むしろ一つの街並みを作り上げたと考えるべきであろう。隣接して“白いタイル”に身を包んだ中央郵便局の復元された姿との対比が新しい歴史的環境を生み出している。
 
平成25年,復元された東京駅が大勢の人々をひきつけているのは,煉瓦造に込められた半世紀にわたる人々の想いを感じ取っているからに違いない(図−19)。
 

 

図−19:東京駅全景 大川撮影




 
 
 
[参考文献]
1. 今和次郎監『建築百年史』建築百年史刊行会,1957年
2. 『日本煉瓦史の研究』水野信太郎,法政大学出版局,1999年
3.『東京駅と煉瓦─JR東日本で巡る日本の煉瓦建築─』東京ステーション・ギャラリー編,JR東日本発行,1988年
4.「三菱一号館─誕生と復元の記録─」『新建築』2010年2月臨時増刊号
5.『日本の美術 No.544近代化遺産 産業編』2011年9月,ぎょうせい
6. 桐敷真次郎『明治の建築〜建築百年のあゆみ』,1966年,日経新書
 
 
 

日本大学 理工学部 建築学科 教授 大川 三雄(おおかわ みつお)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2013年夏号



 

 

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