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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第23回 ピラミッドの謎(1)─ ピラミッドの目的 ─

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 技術参与
竹村 公太郎

 


 
2009年の真夏の早朝、私は銀座中央通りで立ちつくしていた。
 
そこは不思議な空間であった。
太陽はビルの陰なのに、身体は朝日の光に包まれていた。
 
ピラミッドの最後の謎が解けていく瞬間であった。
 

謎のピラミッド

エジプトのピラミッドは、人類の第一級の遺産であり、世界七大不思議の筆頭でもある。
 
ピラミッドが七大不思議のNo.1に君臨している理由は、その大きさだけではない。
今でも、ピラミッド建設の目的が分かっていないからだ。
 
考古学者たちの努力により、ピラミッドの謎は次々と解明されている。
 
何時、ピラミッドは造られたか?
 
誰が、ピラミッドを造ったか?
 
どのように、ピラミッドは造られたのか?
 
これらを解明していくのがピラミッド学と呼ばれている。
日本では早稲田大学の吉村作治名誉教授がその第一人者である。
吉村名誉教授をはじめとする研究者たちは、ピラミッドの解明に着実な成果を上げている。
 
ところが、「何故、ピラミッドは造られたのか?」は未だ解明されていない。
 
 

解明されている謎

(1)何時、誰が、造ったのか?

紀元前6,000年、つまり8,000年前にナイル川流域に人々が定着し始めた。
そして、紀元前3,000年ごろ、つまり5,000年前にナイル川流域にエジプト王朝が誕生していった。
 
そのエジプト第三王朝の紀元前2,500年ごろから、1,000年間に渡ってピラミッド群を建設していった。
 
つまり、4,500年前から3,500年前ごろの1,000年の間に、ピラミッド群は建造された。
これは研究者の一致する見解となっている。
 

(2)どうやってピラミッドを造ったか?

ピラミッドの材料の石灰岩は、ナイル川の東部に連なる山々から切り出された。
毎年7月から9月、ナイル川は増水し氾濫する。
ナイル川東岸で切り出された石は、ナイル川の氾濫時にイカダで西岸に運搬された。
 
石はナイル川西岸の船着場で降ろされた。
その石はコロの上に乗せられ、長い斜路、または、ピラミッド周囲の取り巻き斜路で引っ張り上げられ、高く組み立てられていった。
 
このように、「誰が」「何時」「どうやって」は着実に解明されつつある。
 
しかし、最も大切な「何故、ピラミッドは造られたか?」は未解明のままである。
 
 

何故、造られたのか?

ピラミッドの目的に関し、昔から多くの説があ
る。
最も有名なのが王墓説である。
しかし、この王墓説は、吉村名誉教授はじめ大多数の研究者によって否定されている。
王家の墓は別の場所で発見されており、ピラミッドを王家の墓とするには矛盾だらけである。
 
世界中の学者たちが多くの説を提案している。
 
「日時計説」「穀物倉庫説」「宗教儀式神殿説」「天体観測施設説」がある。
しかし、どの説も具体的物証によって否定されてしまった。
 
現時点で最も有力な説は、1974年、ドイツの考古学者メンデルスゾーンが提唱した「農民救済の公共事業説」である。
 
この説は「ピラミッドには具体的な目的はない。ただ、農民を救う景気対策である。洪水氾濫期に農民を救済しないと風紀が乱れ、
王朝体制が揺らいでしまうからだ」というものだ。
 
この説の強みは、物証に基づかない単なる考え方なので、具体的な物証で反論されることがないことである。
 
吉村名誉教授もこの説をとって
「無駄な公共事業は、かえって争いごとを生まない。ピラミッドは偉大な役立たずであった」としている。
 
しかし、到底、この説には納得できない。
 
エジプト第三王朝から約1,000年間、複数の何世代もの古代エジプト人たちが、知恵と汗を注いでピラミッドを建設した。
そのピラミッドが、無意味な公共事業などであるはずがない。
人間は無駄なことを1,000年間も継続できない。
 
ピラミッドを建設した古代エジプト人の名誉にかけて断言する。
 
「ピラミッドは無駄な公共事業などではなかった。
 エジプト文明の存続をかけ、古代エジプト人たちが誇りをもって従事した事業であった」
 
その証拠を述べていく。
 
その証拠は、ピラミッドが建設された場所にある。
 
 

ナイル川西岸だけのピラミッド

ピラミッドといえばカイロ市郊外のギザ台地の3基の巨大ピラミッドを思いだす。
しかし、それは、ピラミッド群の主たるものではない。
 
ピラミッド群の主たるものは、発見されただけでも80基以上となり、未だ発見されていないものを含めると100基に及ぶ。
そして、その約100基のピラミッド群は、全てナイル川の西岸に位置しているのだ。
 
2008年にも、最新のピラミッドが砂の中から1基発掘された。
これもナイルの西岸に位置している。
この配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭筑波大学教授は「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、
1992年に「ピラミッドはなぜつくられたか」(新潮選書)を出版した。
 
この説は、視覚デザインという思いもかけない観点からの展開であった。
ただし、高津教授は土木の専門家ではないため、
テトラポットや霞堤(かすみてい)という用語で説明しているが土木工学的には不明確になっている。
 
私は高津教授の説に賛同し、河川技術の専門家としてこの説を補強していく。
 
つまり、あのピラミッド群は「からみ」であったのだ。
 
 

ナイル川西岸の謎

何故、ナイル川の左岸、つまり西岸だけにピラミッドを建設したのか?
 
(図-1)がナイル川西岸のピラミッド群の分布である。
このようにナイル川西岸だけに配置されたのは、決して偶然ではない。
それはナイル川西岸が、ピラミッド群を必要としたのだ。
 

図-1 ナイル西岸のピラミッド群

図-1 ナイル西岸のピラミッド群
出典:高津道昭著「ピラミッドはなぜつくられたか」


 
ナイル川の右岸つまり東岸には、山岳地形が連続している。
そのためナイル川東岸の流路は安定している。
 
一方、ナイル川西岸には、アフリカのリビヤ砂漠が広がっている。
(図-2)がナイル川周辺の地形図である。
 
図-2 エジプトの地形

図-2 エジプトの地形
出典:南風博物館


 
西岸の砂はナイル川によって削られ、ナイル川はリビヤ砂漠に向かって西へ西へと逃げていく。
リビヤ砂漠に流れ込めば、ナイル川は砂の中に消えてしまう。
(図-1)の西岸の支川バハル・ユースフは、地中海に到達することなく、砂漠の中で消滅している。
 
ナイル川はエジプト人に、水と土砂を運んでくれた。
特に、ナイル河口デルタの干拓には、どうしても土砂が必要であった。
 
そのため、ナイル川が地中海まで到達するよう、西岸の流路を安定させる堤防が必要となった。
しかし、目もくらむような長い西岸に堤防など築けない。
 
そこで、古代エジプト人たちは、巨大な「からみ」を建設することとした。
 
 

からみ

日本にもこの「からみ」はあった。特に有名なのが、九州の筑後川下流部の「からみ」である。
 
筑後川河口の有明海の干拓は、推定では1,000年前から、確定できる範囲でも数百年前から行われていた。
重機のない時代、有明海の埋め立て干拓は、潮汐の自然の力を利用した「からみ工法」で行われていた。
 
筑後平野には「からみ」という名の地名が多い。
新しいところでは「大正からみ」「昭和からみ」という地名がある。
これは「からみ工法」で造成した干拓地を示している。
 
「からみ」とは「からみつく」工法である。
 
まず干潟に何本も丸太杭を打ち込む。
(図-3)は、江戸時代の海上に丸太を打ち込む姿である(大蔵永常著「農具便利論」)。
こうして干潟に打ち込んだ杭に、木のつるや枝や竹を「からみ」つける。
 

図-3 杭打ち

図-3 杭打ち 出典:農具便利論


 
1日2回、有明海は大きな満ち干を繰り返す。
満ちる時、海水はガタと呼ばれる土砂を運んでくる。
潮の流れは「からみ」周辺で速度を落して、澱む。
潮が澱めば、潮に運ばれてきたガタ土はそこで沈降し堆積していく。
 
数か月後には、「からみ」周辺に堆積土が盛り上がっている。
その緩い堆積土を突き固め、固める。
何回か堆積と突き固めを繰り返すと、固い地盤が線状に形成されていく。
(図-4)が、「からみ」によって土砂が堆積することを示したものである。
 
図-4 からみ工法

図-4 からみ工法
作図:リバーフロント研究所 竹村・後藤


 
その固まった地盤を堤防として、その内側を土砂で埋め立てれば干拓地が誕生する。
(写真-1)は、有明海周辺の戦後の干拓地の空中写真である。
「からみ」によって造成された堤防が、扇のように線状になっている。
自然の力を利用した見事な工法である。
 
写真-1 筑後川下流の干拓地

写真-1 筑後川下流の干拓地


 
この「からみ工法」は日本独自のものではない。
人類文明の発祥の地、エジプトでこの「からみ工法」が大規模に実施されていた。
 
それが、ナイル川西岸のピラミッド群であった。
 
 

ナイル西岸の「からみ」ピラミッド群

ナイル川西岸は堤防を必要とした。
しかし、何千kmも堤防など築けない。
そこで、古代エジプト人たちは巨大な「からみ」を建設することとした。
その「からみ」がピラミッドであった。
 
ピラミッドを適当な間隔で建設する。
毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる。
洪水はピラミッド周辺で澱む。
澱んで流速が低下すると、ナイル川の土砂は沈降し、ピラミッド周辺に堆積していった。
 
(図-5)で、ピラミッド周辺で土砂が堆積する様子を示した。
 

図-5 ピラミッド群のナイル川堤防

図-5 ピラミッド群のナイル川堤防


 
何十年間、何百年間、ピラミッド群周辺に砂が堆積し、砂のマウンドは隣のマウンドと繋がり、連続した盛土の堤防となっていった。
 
そのため、ピラミッドは正四角錐でなくてもよかった。
台形でも、円形でもよかった。
後年、発掘された80基のピラミッド群が様々な形状をしていた理由と、それらが全て砂に埋もれていた理由はこのためである。
 
古代エジプト人は、ナイル川の自然の力を利用して、西岸に堤防を創出させた。
これによりナイル川は、地中海まで水と土砂を確実に到達させることとなった。
 
 

残った謎

1,000年間にも及ぶピラミッド群の建設は、無駄な公共事業などではなかった。
文明の存続のための重要なナイル川の治水事業であった。
 
ナイル川西岸の約100基のピラミッド群の役割は説明できた。
 
しかし、重大な謎が残ったままであった。
 
それは、カイロ市郊外のギザの丘に建つ3基の巨大ピラミッドの存在であった。
 
ピラミッド群がナイル川西岸の堤防なら、河口付近の高台のピラミッドは不必要である。
 
あのギザ台地の3基の巨大ピラミッドの目的は何か?
 
「ナイル川の堤防」では説明できない。
視覚デザインの高津教授も、このギザ台地のピラミッドには触れていない。
 
この謎は厄介であった。
何度かピラミッドの堤防説には触れたが、このギザ台地の3基の巨大ピラミッドにはさわることができなかった。
 
 
本稿の冒頭に記した、2009年の真夏の早朝、私は銀座中央通りで立ちつくしていた。
 
そこは不思議な空間だった。
太陽はビルの陰なのに、身体は朝日の光に包まれていた。
 
ギザ台地の3基の巨大ピラミッドの謎が解けていく瞬間であった。
 

(次回5月号に続く)

 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所技術参与、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年4月号
月刊積算資料2014年4月号
 
 

 

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