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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 復旧・復興のキセキ(1) 日本製紙石巻工場の震災復興について

 

はじめに

東北地方に立地する日本製紙(株)の三工場(石巻、岩沼、勿来)は、平成23年3月11日の東日本大震災で甚大な被害を受けた。
津波被害を逃れた岩沼と勿来工場は、建屋、機械類の破損にとどまり、震災後約2カ月で完全復旧したが、
大津波の襲来を受けた石巻工場の被害は甚大であり、完全復興までに1年と半年近い時間を要した。
震災までを振り返り、復興のキセキを記載する。
 
 

被災直後と避難について

平成23年3月11日(金)14時46分頃に三陸沖を震源とする地震(M9.0)が発生した。
石巻地方は震度6強の揺れを観測し、工場も数分間の非常に強い揺れに襲われた。
避難マニュアルに沿い、職場単位で一次避難所(職場毎に定めた広場)に避難(写真-1)したが、
その後、大津波警報が発令された為に構内一斉放送による避難指示を発令して
正門前の高台(日和山社宅周辺)に避難誘導を開始した。
 

写真-1:避難(調成通り)

写真-1:避難(調成通り)


 
地震発生より1時間後に工場に大津波が襲来したが、
工場で勤務していた1,306名(構内協力会社を含む)の従業員全員が無事に避難して人的被災を逃れた(写真-2)。
 
写真-2:避難完了(15号アパート前)

写真-2:避難完了(15号アパート前)


 
海抜約7mの大津波は工場と住宅地を含む地域周辺を瞬(またた)く間に飲み込んだ(写真-3)。
 
写真-3:津波襲来 正門前(15時48分)

写真-3:津波襲来 正門前(15時48分)


 
海水により2~5mが浸水した一階部分は壊滅的な被害状況となった。
近隣住宅地からの家屋や車両が構内にも流れ着き、41名の犠牲者(近隣の方々と思われる)もご遺体で発見された。
構内も浸水による被害だけでなく、漂流物(JR貨物の車両・コンテナやトラック、原木、製品巻取等々)により、
建屋、機械類の損壊も著しい状況であった(写真-4、5)。
 
写真-4:構内引込線

写真-4:構内引込線


 
写真-5:2コーター スーパー・ワインダー(平成23年6月時点)

写真-5:2コーター スーパー・ワインダー(平成23年6月時点)


 
このような甚大な被害の中で、被災した従業員が一人もいなかったことは、奇跡的とも言えるが、
常日頃からの訓練が功を奏したと考えている。
ポイントとしては、以下の項目が挙げられる。
 
①適切な避難誘導(チリ沖地震による津波警報避難の教訓と守衛本部からの構内一斉放送)
②総合防災訓練を含む、防災などの定期的な各種災害訓練
③避難場所の設置
 
一方、反省点として、例えば、大津波に備えた高台への避難誘導であるが、今回は津波襲来までに約1時間の猶予があったが、
30分以内に襲来していれば多くの従業員が被害にあったと推測される。
また、高台へ避難した後でも、待機途中に単独の判断で構内に戻ろうとした従業員もおり、統率する体制が完全ではなかった。
最終的には公共の指定避難所(学校など)まで避難したが、その後の従業員・家族への適切な指示命令が十分にできず、
災害対策本部も規定の組織・役割分担では対応の実態に沿わない内容であり、
その都度、組織を見直すことも含めて臨機応変に対応を取った。
これらを踏まえて、災害マニュアルの見直しを実施したが、まだ、不十分であり更に修正を継続している。
 
 

復旧・復興までの過程

①震災直後混乱期(生活基盤の確保 平成23年3月)

震災翌日は早朝から人命救助に追われた。
門脇町および南浜町の住民と思われる被災者の救助や怪我の応急処置をした。
怪我の手当てだけでなく、低体温症と思われる被災者の身体を温める処置も行い、病院へ搬送できない数日間は看病もした。
 
数日間は高台以外の工場周辺地域は水没した状況であり、水が引いた3月14日(月)に自衛隊による幹線道路の瓦礫撤去も完了して、
社内外からの支援物資を乗せた災害緊急車両が災害対策本部に到着した。
 
公共のインフラが復旧する4月上旬までの約1カ月間は生活基盤の立て直しに注力したが、
災害対策本部(写真-6)として社宅従業員家族の仮設トイレの設置、
飲料水・食糧・物資の受入れと配給、情報収集などに追われた。
 

写真-6:復興対策本部(クラブ)

写真-6:復興対策本部(クラブ)


 
仮設発電機による社宅への電気供給(2時間程度/日)も3月17日より開始し、仮設シャワーも設置した。
自宅が被災した従業員は個々に避難所生活を送ったが、
本部からの食糧・物資配給等の連絡も行き届かず、生活支援に格差が生じたことも反省点である。
 
この時期は、安否確認も実施したが、
震災当日の休暇中に犠牲となった従業員(協力会社含めて20名)や従業員家族の安否確認の為に
避難所、遺体安置所の訪問やビラ貼りも災害対策本部の組織下で実施した。
 
この間の最重要ポイントは、甚大な被害状況の中で、
芳賀社長が3月26日に工場を視察して『石巻工場は必ず復興させる』と宣言したことである。
同日に亀山石巻市長(写真-7)へも同宣言をしており、市への勇気づけにもなった。
 
写真-7:石巻市長訪問(平成23年3月26日)

写真-7:石巻市長訪問(平成23年3月26日)


 
生活することがやっとの状況であり、誰しもが復旧を疑う惨劇の中での宣言は、
従業員、協力会社、工事業者の団結心を一つにするとともに、言葉にはできない力と責任感もたらした。
非常に感動した一瞬であった。
 

②瓦礫処理期(平成23年4月~7月)

具体的な復興作業は4月からの構内を埋め尽くした瓦礫とヘドロの撤去から始まったが、
震災翌日より部門単位で被災状況の確認と危険物処理の活動は始まっていた。
瓦礫処理は8月上旬まで掛かったが、突破口は自衛隊による構内アクセス道路の整備(瓦礫撤去)であった。
人命救助、遺体捜索および危険物処理を目的とした任務であったが、
重機を流出した我々では全く歯が立たない状況を打破していただいた
(これ以外にも献身的な人命救助活動や地域の復興活動を目の当たりにしており、
 自衛隊の方々には感謝の気持ちでいっぱいである)。
その後、他工場からの応援部隊による重機作業を開始したが、
重機が使用できない建屋内1階や通路などは文字通り人海戦術による作業となり、スコップと一輪車(写真-8)が武器となった。
 

写真-8:N6マシン1階(平成23年6月)

写真-8:N6マシン1階(平成23年6月)


 
自宅を被災した従業員も参戦し、昼間は工場、休日は自宅の瓦礫処理と清掃に追われる者が大半であった。
 
瓦礫撤去作業、被災状況調査と並行して長納期の設備資材の発注を行いつつ、具体的な復興工程案を作成したのもこの時期である。
5月17日に社長以下、本社役員と工場幹部が復興会議を開催して、
『震災後半年以内に8号抄紙機を再稼動させる』という目標と復興計画を決定した。
その時点で計画実行の可能性を問われると、正直、口を閉ざしてしまいたい心境であったが、
最終的にはこの夢の様な目標が復興の原動力となり、達成を可能にした。
 

③設備復旧期(平成23年8月以降)

8月上旬より具体的な設備復旧を実施したが、
瓦礫処理と並行して6月18日に特高変電所受電設備の復旧によりパワープラントの起動電源の確保を行った。
また、工場で使用する用水と排水設備の再稼動を7月27日に行い、 重油ボイラー(6OB)(写真-9)を8月10日に点火、
8月20日にバイオマスボイラー(1BB)を点火して、
8号抄紙機およびパルプ原料設備などの再稼動に必要な蒸気と電力の確保を果たした。
 

写真-9:6号ボイラー再稼動(平成23年8月10日)

写真-9:6号ボイラー再稼動(平成23年8月10日)


 
特高受電に必要なケーブルの入手、瓦礫とヘドロで埋め尽くされた用排水処理設備の復旧、
電気基盤等が水没したパワープラントの復旧には、筆舌しがたい苦難があり、
作業に従事した従業員は勿論、我々を支えてくれた工事業者の方々には感謝の念でいっぱいである。
ピーク時には構内の復興作業者は工事業者を含めて2,000人以上となったが、
非常に劣悪な作業環境の中で安全第一の作業を行い、復興を妨げる様な大きな災害は回避できた。
 
タンク、チェスト内のパルプ原料や紙料薬品も腐敗しており、
硫化水素による中毒症を回避するために薬剤投入をするなどの工夫もした。
各種工事のKY(危険予知)や干渉区域のリスク回避も毎日の工程会議で協議した。
 
8号抄紙機は平成23年9月16日に営業運転を再開(写真-10)し、震災後半年以内という高い当初の目標を遂行した。
 
写真-10:8マシン再稼動(平成23年9月16日)

写真-10:8マシン再稼動(平成23年9月16日)


 
8号抄紙機の運転に合わせてパルプ設備(GP、TMP、HDIP1)も同時復旧を果たしている。
その後、計画通りに平成24年8月30日の完全復興までに、
石炭ボイラー(8CB)、抄紙機5台と塗工機2台、化学パルプ設備2系列および仕上げ・断裁設備等の主要設備を復旧した。
また、石炭船、チップ船が着岸する港と荷役設備の復旧も行政と連携して行った。
 
復興の取り組みとして新規事業の垂直立上げも完遂した。
震災前には全く生産実績の無かった製品(PPC用紙)の生産体制を構築した(写真-11)。
 
写真-11:P1カッター立上げ(平成24年5月9日)

写真-11:P1カッター立上げ(平成24年5月9日)


 
抄紙機の改造、小判断裁仕上げラインの設置稼動は勿論ながら、厳しい教育訓練によるオペレータの育成も短期間に行った。
プロジェクトを発足して事前に入念な準備を行ったが、生産実績のある他工場からの協力と技術支援は非常に大きいものであった。
 
物流手段であるJR貨物も本線復旧を終えて平成24年10月に営業運転を再開し(写真-12)、構内引込み線も平成25年1月末に完工した。
 
写真-12:JR貨物石巻港駅再開(平成24年10月9日)

写真-12:JR貨物石巻港駅再開(平成24年10月9日)


 
 

社会貢献

冒頭でも説明したが、真っ先に実施した社会貢献は、震災当日から数日間は近隣の方々の避難支援と救助であった。
社会貢献というよりは、人道的な当たり前の行動である。
社内関係各所より受けた支援物資を石巻市へ供出もした。
石巻市を始め、工場が立地する岩沼市と福島県いわき市への支援金も芳賀社長より贈呈した。
また、石巻硬式野球部による被災地児童に野球用具の支給と合同練習などの活動も行った(写真-13)。
 

写真-13:野球部 社会貢献(平成23年5月9日)

写真-13:野球部 社会貢献(平成23年5月9日)


 
更に大きな社会貢献としては、震災瓦礫処理の協力と電力不足時の電力供給が挙げられる。
石巻広域地区(石巻市、東松島市、女川町)からは数百万tの災害廃棄物が発生した。
平成24年5月からは県の委託による廃棄物処理設備が稼動しているが、
その1年前の8月より日本製紙グループとして独自に震災瓦礫から木質系瓦礫(写真-14)を分別して燃料チップに加工し、
石巻工場のバイオマスボイラーで燃焼処理を開始した。
 
写真-14:木質瓦礫処理

写真-14:木質瓦礫処理


 
瓦礫処理を推進するとともに、夏の電力事情がひっ迫する中で、余剰電力を東北電力に供給しており、
現在でも木質系瓦礫処理と余剰電力の供給を継続している。
 
 

おわりに

我々が受けた被害は想像を絶する大きさであり、尊い人命や大切な財産を奪われた従業員が多く、心が折れた状態でした。
3月26日の芳賀社長の石巻工場復興宣言が新しい『夢』となり、実現の為の具体的な復興計画を生み出しました。
計画実行の中で苦難と向き合い、グループ会社関係者は勿論、
工事業者、資材納入業者の方々や販売代理店、お客様も合わせて多くの人々と『夢』を共有することで大きな力を得ました。
文字通り全員が一丸となり、復興に邁進した1年半でした。
非常に大きいものを失いましたが、震災前よりも心・技・体は確実に数段向上しており、
関係者を含めた従業員全員の団結力は更に強固になりました。
完全復興という成功を遂げた以上に我々が得たものは非常に大きいものであったと実感しています。
この場をお借りして、ご支援、ご協力をいただきました皆様に感謝申し上げます(写真-15)。
 

写真-15:完全復興(平成24年8月30日)

写真-15:完全復興(平成24年8月30日)


 
日本製紙株式会社石巻工場の敷地図
 
 
 

筆者

日本製紙株式会社石巻工場 技術室 金森 章
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2013年4月号
月刊積算資料2013年4月号
 
 

 

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