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ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その15 銘木と合板

 

神奈川大学工学部 建築学科 教授
内田 青蔵

 

近代和風建築への関心

明治期以降,わが国では,次々と欧米の建築様式を取り入れた洋風意匠の洋館を建ててきた。そのため,伝統的な和風意匠の建築よりも,洋館こそ,巨額が投じられ,さまざまな新しい材料や技法を積極的に取り入れたものであると考えられ,わが国の近代以降の歴史の生き証人として文化財にも指定されてきた。
 
しかし,近年,近代以降に建てられた伝統色の強い建築の研究が進み,伝統的和風意匠による建築にも当時の新しい材料や技術が盛んに取り入れられ,近世以前の伝統建築とは質も意匠も異なるものであるとし,近世以前のものと区別するために“近代和風建築”と称することが一般化してきたのである。こうした動きに伴い,文化財に指定される物件もこれまでの洋風意匠による建築にとって代わって,近代和風建築と称される伝統的和風意匠を取り入れた建築へと移行しつつあるようだ。
 
この文化財の動向は,東京最古の木造洋館として知られる三菱財閥3代目の岩崎久彌の邸宅である旧岩崎邸の様子を見るとよくわかる(写真- 1)。
 

【写真-1 旧岩崎邸外観(撮影:古俣和将)】




 
すなわち,明治期の上流層の人々の邸宅は,和洋館並列型住宅と呼ばれる和館と洋館の両方を併存させる形式が主流であった。そのため,1896(明治29)年竣工とされる旧岩崎邸も約165坪の洋館とともに,その背後には約550坪という大規模な和館からなる和洋館並列型住宅であり,文化財に指定される際には和館も存在していた(図- 1)。
 

【図-1 旧岩崎邸平面図(出典:保岡勝也『最新住宅建築』




 
ただ,1961(昭和36)年当時は,J・コンドル設計の洋館と撞球室だけが評価され,重要文化財の指定を受けたが,和館は指定の対象とはなっていなかったのである。そして,8年後の1969(昭和44)年に,ようやく袖塀とともに取り壊されてしまった和館の中で残された大広間が重要文化財に追加指定された。まさに,洋館重視・和館軽視の状況があったことがうかがえよう。
 
 

和館の魅力

さて,旧岩崎邸の和館は,設計は岩崎家の営繕関係の最高責任者であった岡本春道で,大河喜十郎を棟梁として建てられたといわれている。岡本と大河の手になった和館の魅力のひとつは,極めて質の高い木材を使用していることである。木目の細かい檜材や杉材が使われ,しかもそれらの部材として長尺物の材料がふんだんに使われていることがわかる。
 
例えば,大広間の入側(畳廊下)の長押は,継ぎ目が見られない。天井も同様に継ぎ目も節も一切見られない(写真- 2)。
 

【写真-2 旧岩崎邸入側内部(撮影:内田)】




 
こうした長尺の材料の存在から,その原材の年代や形状はどのようなものだったのか,製材はどこで行ったのか,あるいは,製材所から長尺材をどのようにして運搬してきたのか,といったさまざまな素朴な疑問が浮かんでしまう。そんな疑問を思い浮かべる瞬間,和館の放つ不思議な魅力の虜となってしまったことに気付く。まさに,和館の魅力が,この材料に対する限りないこだわりであることがわかる。
 
では,この材料へのこだわりは,何を意味するのであろうか。おそらく,材料へのこだわりは,日本の伝統建築の特徴のひとつともいえるものであり,このこだわりこそ,わが国の伝統建築の工法と深い関係性の中で生まれたものと思われるのである。すなわち,伝統的な和館の工法は真壁造と呼ばれ,柱や鴨居といった建築部材と壁が区別され,かつ,それらの部材がそのまま外部に見える真壁を用いた工法となっている。言い換えれば,主要な構造材がそのまま意匠材を兼ねており,視覚的にも極めて重要な役割を担っているのである。それゆえ,日本の建築では,意匠を兼ねる材料に限りなくこだわり,吟味することになる。そうした中で,どの種類の材料をどこに使うかといった原理原則が生まれてきたのである。それに対し,洋館は基本的には大壁造と呼ばれる工法を用いた。これは,木造の場合は,柱は壁の中に隠すように配され,柱そのものが視覚的に見えない大壁となる(図- 2)。
 

【図-2 真壁と大壁(出典:藤井厚二『日本の住宅』p.29




 
建築の構造材ではなく,あくまでも意匠上の材料にこだわることになる。このように建築材料に関する意識の大きな違いが見られることになるのである。なお,石造などの場合は,主要材料である石にこだわる場合もあったであろうし,また,木造でもイギリスの中世に生まれたハーフティンバーは,日本の伝統建築同様に木造の構造材が壁面に露出するものであった。ちなみに,明治以降の洋館にハーフティンバーを採用する事例が多く見られる理由は,洋館でありながらも日本の伝統建築との類似性が感じられたからと思われる(写真- 3)。
 

【写真-3 ハーフティンバーの洋館(出典:山田醇『家を建 てる人の為に』口絵 資文堂書店 1928年)】




 

木材の使用原理について

日本建築では,建築材料に対して,それに適した用途が知られていた。例えば,1904(明治37)年に発行された三橋四郎の『和洋改良大建築学上巻』(大倉書店)によれば,
 
 木骨壁ニ使用スル木材ハ重ママニ松,杉,檜,,栂,欅,栗,塩地等ニシテ檜,ひば ,
 栗ノ類ハ水湿ニ遇フモ耐久ノ性ヲ有スルヲ以テ多ク土台ノ如キ乾湿交々至ル部分ニ用ヒ杉,
 檜, ひば,栂ノ如キハ垂直ニシテ良材ヲ得易キヲ以テ多ク柱ニ使用シ,欅,
 塩地ノ如キハ材質堅硬ナルヲ以テ荷持柱ニ適ス其他木骨組ニハ多ク杉類ヲ使用シ
 内外部見ヘ掛リノ部分ニハ装飾的ニ檜,欅ヲ使用スル事アリ(p.283)
 
とその用途が記されている。すなわち,土台は檜(ひのき)・ひば・栗,柱は杉・檜・栂(つが)で,特に加重の掛かる部分には欅(けやき)・塩地(しおじ),意匠的に見栄えの必要な部分には檜・欅が適しているという。まさにさまざまな材料の特徴を生かしながら使うという適材適所の考え方がうかがえる。こうした考え方がいつ頃から成立したかは明らかではないが,それぞれの木材の産地から都市に集められ取引されたことを思えば,全国的な流通のシステムが整った時期からであることは言うまでもない。
 
ところで,東京の小金井公園の「江戸東京たてもの園」には,幕末から昭和初期の建物が移築保存され,一般公開されている。その中に近代和風建築として1902(明治35)年竣工で,日銀総裁や大蔵大臣,内閣総理大臣などを歴任した戦前期の政治家高橋是清の邸宅である旧高橋邸がある。二・二六事件の舞台となったことでも知られるこの住宅は,入母屋造りの木造2階建てで,総栂普請の建物といわれている。意匠上重要な部分は檜や欅を使用するといわれるように,見栄えのいい高級材料は檜や欅であるが,栂も柾まさ目め材は檜に次ぐ高級材料といわれている。この総栂普請とは,建物全体に用いる主要部材に栂材一種類のみを使用する方法である。さまざまな種類の部材を適材適所に使用するという方法は,極めて合理的で建物の寿命や意匠あるいはコスト面などのバランスの中で生まれた方法であったが,こうした一種類の木材を用いる方法は,寿命・意匠・コストというバランスを超え,際限ない経費を掛けながら独自の意匠を求める方法であった。適材適所とは異なったもうひとつのこだわりの表現であったのである。なお,旧高橋邸は,解説書の中では以下のように紹介されている。
 
 柱一本とってみても,廊下の外側は四方柾目,室内や廊下側に面した柱は二方柾目,
 壁が取り付く面は板目とするなど,木取りにも最新の注意を払っていることがうかがわれる。
 また,一階西十畳の床柱は,部屋に面して杢目を意匠にするなど,
 当時の棟梁の心意気が感じられる
          (『江戸東京たてもの園物語』p.135 東京都江戸東京博物館 1995年)
 
これによれば,単に材料にこだわっただけではなく,栂材でも四方柾目の柱,二方柾目の柱といった多様で特別に木取りされた材料(図- 3)があり,それらの違いを意識しながら部材を配置していた様子がうかがえるのである。
 

【図-3 木取り方法(出典:『高等建築学3 建築材料』p.9 常磐書房 1933年)】




 
木材には,柾目と板目があり,柾目こそ意匠上にも優れたもので,床柱などには柾目を見せるように配することが一般的であり,それゆえ,四方柾目の柱は高級材として使用されていたのである。また,西十畳の部屋の床柱では,柾目とも板目とも異なる特殊な木理模様の部材の杢もく目を見せることで独自性を表現しようとしていた。こうした特殊な木理模様の部材こそ,銘木と呼ばれるものでもあったのである。
 
なお,柾目中心の原理を逆手に採ってその独自性を表現しようとした事例もある。例えば,重要文化財に指定されている1919(大正8)年竣工の旧朝倉邸では,杉の間と称される部屋があり,床柱はもちろんのこと,落とし掛けや鴨居など部材をすべて杉の板目材とすることで,独特な雰囲気を生み出している(写真- 4,5)。
 

【写真-4 朝倉邸杉の間(撮影:内田)】

 

【写真-5 朝倉邸床の間細部(撮影:内田)】




 
さて,旧高橋邸のように部材を限定して作り上げていく例はよく見られる。その中でも,贅を尽くしたものとして知られる一例が,近代和風建築として重要文化財に指定されている1916(大正5)年竣工の山口県の旧毛利家本邸である(写真- 6,7)。
 

【写真-6 旧毛利家本邸外観(撮影:古俣和将)】

 

【写真-7 旧毛利家本邸座敷(撮影:古俣和将)】




 
柾目の総檜造りといわれ,また,部分的に高級材といわれる屋久杉と台湾産の欅を使用していることが知られている。特に,台湾産の欅は,廊下部分に使われ,その材は一枚板で,長さ11m,幅1.5m,厚さ20㎝と想像を絶するような入手困難な特別な部材を使用している。ここでは,主要材料をすべて柾目の檜の柱とするだけではなく,おそらく二度と手に入らないような特別な部材を使うことで,その特異性はもちろんのこと,計り知れない財をつぎ込んだことを表現しているのである。この特別な欅は,まさしく,銘木であり,当時の銘木趣味の流行の様相を教えてくれる。


 

銘木趣味の流行 銘木の流行は大正期から昭和期

 
では,銘木趣味はいったいいつ頃から流行したのであろうか。日本の伝統建築を代表する桂離宮新御殿の新書院上段の桂棚は,天下の三棚のひとつと称され,直線的構成によるデザインの素晴らしさとともに紫檀(したん)・黒檀(こくたん)・鉄刀木(たがやさん)あるいは檳榔(びんろう)といった多種の外国産の銘木を使っていることでも知られている(大河直躬『桂と日光』平凡社1964年)。その意味では,銘木趣味は近代以前からすでに存在していたものであることがわかる。
 
この銘木の様子をもう少し詳しく知るために,藤谷陽悦氏の「銘木のコスモロジー」(初田亨・大川三雄・藤谷陽悦『近代和風建築』所収 建築知識 1992年)を参考にしてみたい。
 
藤谷氏は,銘木の使用の確認された時期について以下のように述べている。
 
 銘木は,主に数寄屋風書院の建物を中心に江戸の初期の頃より使われているが,
 銘木が一般の人々の間に定着し,銘木が“銘木”として意識されるのはもう少し後の時代であろう。
 具体的にいえば,銘木という言葉が歴史に登場するのは明治三十年代になってからで,
 しかも一般大衆の間に定着するのは大正から昭和にかけての間である(p.289)。
 
これによれば,近世初期から数寄屋風書院を中心に銘木を使用する事例が出現するが,銘木という言葉が使用されるのは,明治30年代頃からで,一般大衆の間に銘木趣味が定着するのは大正から昭和期にかけてのことであるという。先に見た旧高橋邸や旧毛利家本邸はまさに,銘木趣味の始まりを示す具体例といえるようである。また,大正末期から昭和初期になると一般の店でも銘木店を名乗るようになり,それ以前は,「磨丸太類を扱う丸太屋,板物を扱う猫屋,唐木の床柱・落とし掛けなど床廻り材を主に扱う唐木屋」(p.289)に分かれ,それぞれが仕入れた原木を商品として製造販売していたという。それが,各専門の材料を扱うことを超え,各店がそれぞれ製品を融通し合うようになり,次第に銘木店が増えてきたという。これからわかることは,銘木は桂離宮の桂棚に見られた紫檀・黒檀といった高価で物珍しい外国産の材料だけではなく,丸太屋と猫屋の扱う国産材の質の高い材料も銘木と称されていたことである。また,藤谷氏によれば,東京では明治期には銘木店が30軒ほどあったが,関東大震災後は500~600軒となり,戦前期は300軒ほどで定着したという。銘木の流行の様子が,こうした銘木店数からもうかがえるのである。
 
 

横浜の銘木店・星銘木店

銘木店は,横浜にもあった(写真- 8)。
 

【写真-8 星銘木店パンフレット表紙(内田所蔵資料)】




 
その一例が終戦直後の1946(昭和21)年開業の星銘木店である(写真- 9)。
 

【写真-9 星銘木店外観(星銘木店パンフレットより)】




 
店主の星豊吉は,1912(大正元)年に東京の篠田銘木店に勤め,終戦当時は篠田銘木店横浜支店長として働いていた。そして,その後,篠田銘木店から独立して,慣れ親しんだ横浜で星銘木店を創設したのである。店主の星が長らく勤め,修行した東京の篠田銘木店は,「銘木店」と名乗った最初期の店ともいわれる老舗で,その経歴が星銘木店の信用を得るには大いに役立ったという。
 
開設当時は,バラックが立ち並ぶだけで,まだ銘木の需要はなかったが,徐々に銘木の需要が増加し,やがて,湯河原の清光園(写真- 10)をはじめ,鶴見の一声閣,綱島の水明楼,横浜本牧の根岸園,磯子の磯子園(写真- 11)などの和風旅館や料亭などにその銘木を供給しはじめ,戦後の銘木ブームを支えていたのである。
 

【写真-10 清光園(星銘木店パンフレットより)】

 

【写真-11 磯子園(星銘木店パンフレットより)】




 
また,戦後の住宅ブームの時代には,和室を構える際に床柱に銘木を購入する動きもあって,戦後は庶民の間にも銘木ブームが広がったという。
 
当時のカタログによれば,床柱の陳列の様子(写真- 12)や亀甲竹林の様子(写真- 13)が紹介されている。
 

【写真-12 床柱の陳列(星 銘木店パンフレットより)】

 

【写真-13 亀甲竹林(星 銘木店パンフレットより)】




 
また,原木だけではなく,彫刻欄間や天井や腰壁などに用いる網代(写真- 14),丸窓や袖垣,さらには床の寄木張りなども扱っていたことがわかる。
 

【写真-14 網代(星銘木店パンフレットより)】




 

銘木普請の様相

さて,一般庶民の住宅づくりでは,座敷の床柱に銘木を用いるといったささやかな表現で,流行を取り入れるしかなかったが,一方,巨財を投じて自らの理想を表現するために住宅の各部屋に趣向を凝らした銘木尽しの住宅も出現した。
 
そうした事例のひとつが,日興証券創立者で埼玉出身の遠山元一が没落した生家を再興し,母にささげたいという志を実現した邸宅である。『遠山元一と近代和風建築』(遠山記念館 2012年)および『和風建築の粋 遠山邸』(遠山記念館 2006年改訂版)をもとに,この建物について詳しく見てみよう。
 
工事にあたっては,元一の弟である遠山芳雄を総監督,設計は地元埼玉出身で東京帝国大学建築学科を1913(大正2)年に卒業した建築家室岡惣七,棟梁は中村清次郎で,1936(昭和11)年に竣工している。建設にあたっては,材料は全国各地から銘木を集めたという。建物は,東棟・中棟・西棟の三つのブロックからなり,東棟は祖先伝来の家の復興を象徴する建物,中棟は東京からの客用の2階建ての建築,西棟は母親が余生を過ごすための隠居用の建物,という主旨で設計された。その結果,東棟は茅葺の豪農風の民家,中棟は都会風の書院造,そして,西棟は京風の数寄屋造りとしてまとめられた。
 
敷地の正面には長屋門がある。門扉は欅珠杢(たまもく)と呼ばれる節の形を模様として楽しむ欅の一枚板でできている。これもまさに銘木。東棟は,茅葺の外観(写真- 15)で,玄関は武家風の格調高い造りである(写真- 16)。
 

【写真-15 遠山邸東棟外観(撮影:木下和也)】

 

【写真-16 遠山邸東棟玄関(撮影:木下和也)】




 
内部は,豪農風らしく太い柱と差し物が大きな空間を支えており,材は欅である(写真- 17)。
 

【写真-17 遠山邸東棟内部(撮影:木下和也)】




 
中棟は,1階に18畳の大広間と10畳の次の間がある。この大広間は,柱は6寸角の尾州檜の四方柾目材で,天井は2尺幅の春日杉柾目板,床柱は6寸の北山杉絞り丸太,落とし掛けは桐の四方柾目,床框は檜の漆塗り仕上げ,床脇は欅珠杢地板,そして,付け書院の棚板が欅珠杢板と至る所に銘木が使用されている。壁も本霞といわれる砕いた柘榴石を混入した砂壁で,畳も備後表と銘木に合わせた高級材を使用している(写真- 18)。
 

【写真-18 遠山邸大広間(撮影:木下和也)】




 
2階は,寝室ならびに応接室は椅子座の洋間で,アール・デコ風のデザインがみられ,部材は,柱は檜,天井板は春日杉で3尺幅杢目板と銘木が使用されている(写真- 19)。
 

【写真-19 遠山邸応接間(撮影:木下和也)】




 
そして,2階の14畳間の和室は,柱は北山杉丸太,天井は春日杉杢目板,床柱は桐四方柾目,落とし掛けが桐柾目,床框が檜漆塗り仕上げ,床脇の棚板は桑の珠杢地板が使用されている。
 
また,数寄屋造りの西棟も銘木が駆使されている。たとえば,磚敷(せんじ)きの内土間のある茶の間は,柱が北山杉面皮,天井が杉杢目板で竿縁が赤松で天井廻縁がこぶし,床柱は赤松皮付き丸太,落とし掛けが赤松,床地板は黒松で,いわゆる松材を中心とした松材尽くしの部屋といえる(写真-20)。
 

【写真-20 遠山邸西棟茶の間(撮影:木下和也)】




 
まさに,それぞれの部屋が個性的な意匠で,銘木ゆえの完成度の極めて高いインテリアが見て取れる。ただ,その意匠は,派手というよりも極めて落ち着いた雰囲気を生み出している。一般に,銘木趣味といえば派手なデザインをイメージするかもしれないが,料亭や和風旅館のように一瞬の異空間を楽しむための意匠と異なり,遠山邸は日常生活の場としての住宅であり,同じ銘木趣味であっても,落ち着いた意匠が追求されていたのである。いずれにせよ,遠山邸は戦前期の銘木趣味の世界を身近に体感できる事例として貴重である。
 
 

竹尽くしの住宅

遠山邸は,それぞれの部屋ごとにさまざまな銘木を組み合わせた事例である。一方,1925(大正14)年竣工と推察される川越市の指定文化財である旧山崎家別邸(写真- 21)の客間は,さまざまな特殊で貴重な竹材だけを駆使してデザインされている(写真- 22)。
 

【写真-21 旧山崎家別邸外観(撮影:内田)】

 

【写真-22 旧山崎家別邸客間(撮影:内田)】




 
いわば,竹尽くしの部屋で,これも銘木趣味の建築といえる。設計者は,建築家・保岡勝也である。東京帝国大学工科大学建築学科を1900(明治33)年に卒業した保岡は,三菱地所に入社し東京・丸の内の開発を手掛けるものの,1913(大正2)年には独立し,事務所を構え住宅建築に携わりつつ,伝統的な数寄屋建築の研究も開始し,徐々に和風建築へと傾倒していった建築家であった。
 
旧山崎家別邸は,保岡の和風趣味を表現した代表的作品であった。柱は吉野杉の磨き丸太で,長押も同じ杉の丸太の割材が使われている。そして,細部にはさまざまな竹が使用されているのである。例えば,天井は杉板で,竿は胡麻竹の三方貼角竹(写真- 23)で,縁側の境の櫛形欄間には算盤状の節の付いた算盤竹(そろばんだけ)が使用されている。
 

【写真-23 旧山崎家別邸三方貼角竹(撮影:内田)】




 
廊下側の下り天井は,煤竹(すすだけ)と皮付き面の竹による市松網代天井(いちまつあじろてんじょう)で,下り壁の壁止まりは紋竹,付け書院の障子の組子は割竹の吹き寄せ,床脇の鴨居下の壁止まりは亀甲竹,襖の取っ手も竹,というように竹尽くしの様子が見て取れるのである(写真- 24)。
 

【写真-24 旧山崎家別邸市松網代天井(撮影:内田)】




 
この旧山崎家別邸も派手ではないが,窓越しに見える庭園もふくめ,心の落ち着く自然と一体化された静寂な空間が体感できる。
 
 

銘木の大量生産化の動き

ところで,旧山崎家別邸の客間の天井の竿縁が長方形断面の部材の三面に胡麻竹を貼り付けた「胡麻竹の三方貼角竹」であったことからわかるように,この時期になると銘木の貼り物による模擬材が普及し,庶民の間で流行していたのである。再び藤谷氏の言葉を借りると,以下のようになる。
 
 大正期に入ると,庶民にとっての銘木が遠いものから近いものへと,大きく変わり始める。
 それをもたらしたのは模擬材の発明による銘木の大量生産であった。
 模擬材発明は張り天井と張り床柱に代表される。
 張り天井は明治二十三年から,張りの床柱は大正初めに神田の雑賀唐木店によって試みられている。
 いずれも原木を薄く削り,それを糊付けするか一枚一枚楔を打ち込んで突き板を張る,
 手工業に近い内容の仕事である。
 工業化と云うにはおぼつかないが,大衆銘木材の普及には大いに貢献…(p.292)
 
ここにあるように銘木の大衆化には,この模擬材の普及があったという。しかも,貼り天井は1890(明治23)年に始まったという。残念ながら,これを示す事例はわからない。しかし,東京・目白に現存する1911(明治44)年竣工の村川家住宅の仕様書には「天井板は客室,次室,隠居部屋の二室は杉張柾板」とあり,1911(明治44)年にはすでに杉の柾目を貼った貼材が存在していたことがわかる(「竣工百年,今も息づく近代住宅の範型を作った家」『木と合板』2015 年 秋号)。
 
一方,わが国で合板が生まれたのは1907(明治40)年といわれている。銘木趣味の中で,貼物や合板といった新しい素材を開発するための技術開発が展開されていたのである。なお,戦後のことであるが,先の星銘木店の価格表によれば,銘木床柱の紫檀は正角仕上げ品では60円から80円であったのに対し,貼付の場合は8.5円,黒柿は25円から100円に対し8.5円である。同様に,天井板を見ると,春日杉杢の天然材は幅5 寸5 分では8.5円から25円,これに対し模擬材である貼付天井板の場合は2.35円内外とあり,確かに安い値段で銘木の模擬材が得られたことがわかる。ただ,この貼材が天然材より安かっただけで普及したのであろうか。コスト的に利点があったことはわかるが,おそらく貼物そのものの利点があったように思われる。それは,自然材では,乾燥が不完全な場合,反ったりねじれたりというように部材が暴れてしまうことがある。それに対し,貼物は長年使っても糊がしっかりしていれば,暴れることがない。
 
いずれにせよ,近代に入ると,新しい交通網により全国の建築材料の流通が活発化し,いわゆる全国の銘木の流通が可能となり,近代和風建築の発展の中で,銘木趣味が流行し,また,そのブームがより大衆化していく中で,銘木を貼り付ける模擬材としての貼物が出現し,また,合板といった新素材の開発が展開されていた。まさに近代和風建築は,その材料の流入手段はもちろんのこと,新素材などの開発の中で支えられていたのである。
 
ただし,こうした技術革新により模擬材の質が高まる一方,今日では本物と区別がつかない状態までになった。改めて,本物の材質や職人の技術を問い直す時期にきているのではないだろうか。
 
なお,本稿で引用させていただいた藤谷陽悦氏(元日本大学生産工学部教授)は,本連載の担当者のひとりで,「銘木」の原稿執筆を予定されていたが,企画の途中で亡くなられた。私の原稿が彼の研究の一端でもお伝えできていれば幸いです。
 

内田 青蔵(うちだ せいぞう)

1953年秋田県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。工学博士。専攻は,日本近代建築史,日本近代住宅史。文化女子大学,埼玉大学を経て,現在,神奈川大学工学部建築学科教授。日本の近代住宅の調査をもとに生活や住宅の歴史研究にあたる。
著書として,『日本の近代住宅』『新版 図説・近代日本住宅史』(共に鹿島出版会),『同潤会に学べ』(王国社),『お屋敷拝見』『学び舎拝見』『お屋敷散歩』(共に河出書房新社),などがある。
 
 
 
【出典】


建築施工単価2016春号

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

最終更新日:2019-12-18

 

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