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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その1 セメント

 

近代建築を支えた建築材料 “鉄・セメント・ガラス”

近代建築……ここではモダニズム建築(写真-1)と記す……の特徴を整理するときに,こうした“近代という時代”の特有の建築を生み出した背景として,しばしば材料や工法の変革も指摘される。その際,近代特有の建築材料として,よく挙げられるのが鉄・セメント・ガラスの3つの素材である。こう述べると,鉄・セメント・ガラスの3 つの材料自身が近代になって初めて誕生し,使用された材料と考えられてしまうかもしれない。しかしながら,それは勘違い。この3 つの基本的建築材料は,古くから建築にとって重要な材料として使われ続けてきたものである。
 

写真-1  モダニズム建築の代表例:ル・コルビュジェのサヴォア邸(1931年)(写真:内田)】




今回,取り上げるセメントは,一般に水を加えると硬化し,接着力を持つ結合剤の総称である。そして,コンクリートとは,このセメントに水とともに砂や砂利などの骨材を加えて一体化したものを指す。そのため,セメントがコンクリート造の建築の基本的な材料であることはよく知られているが,このコンクリートを用いた建築がローマ時代から既に出現していたことは意外に知られていないようだ。
 
ローマ時代のコンクリートは,火山灰と石灰と砂を混ぜた自然モルタルに,砕石やレンガ屑を加えて水で練ったもので(写真-2・3),こうしたコンクリートによる新しい工法の開発により,ローマ建築を代表する直径43mのドームによる巨大な内部空間を内包するパンテオンも可能となったのである(写真-4)(『西洋建築史考』)。また,こうしたコンクリートによる建築の開発の中で,セメントの材料としてポッツオラーナと称される水の中でも固まる水硬性火山灰の発見もあって,より強度の高い建築や防波堤なども建設されたという(『構造物の技術史』)。いずれにせよ,ローマ時代はコンクリートによる工法の恩恵を受け,巨大で質の高い建築を可能としたのである。
 

写真-2・3 ポン・デュ・ガール(B.C.20年頃?)の水道橋ならびに壁の詳細(写真:内田)】




写真-4 パンテオン(118-135年)外観,内部(写真:内田)】



このコンクリートを用いた工法は,ルネサンス時代に再び注目されたという。すなわち,フィレンツエ大聖堂を手掛けたフィリッポ・ブルネルレスキ(1377-1446)はローマ時代のコンクリート構造について研究し,また,ドナト・ブラマンテ(1444-1514)はサン・ピエトロ大聖堂の建設にあたって柱芯にコンクリートを用いたという(『科学史技術史事典』)。また,16世紀イタリアでローマ時代の建築研究をもとに軽快な建築様式を提示し,多くの影響を与えたアンドレーア・パラーディオ(1508-1580)も,著作『建築四書』(1570 年)の材料や壁の形式の説明のなかで,現在のセメントやコンクリートに相当するものについて紹介している(『「建築四書」注解』)。
 
そして,こうしたセメントを用いたコンクリートによる工法が,再び本格的に脚光を浴びることになるのが近代であった。
 
近代に入ると,このコンクリートは圧縮力にはめっぽう強いものの,引張力にはからきし弱いという欠点を克服するための改良が加えられることになる。すなわち,コンクリートだけの構造体よりも,鉄筋と一体にして用いた方が圧縮にも引張りにも強い万能の構造体となることを発見することになるのである。同時に,この組み合わせは,コンクリートが鉄材の耐火被覆の役割を担うことで熱に弱い鉄材の欠点を補うことにもなった。こうした様々な工夫を経て,今日では広く普及している鉄筋コンクリート構造や鉄骨鉄筋コンクリート構造が生まれている。その経緯は,稿を改めて紹介したい。
 
 

近代特有の素材としてのポルトランドセメント

では,近代特有の建築の主材料といわれる“セメント”とは,いかなる材料なのであろうか。繰り返しになるが,一般にはセメントは水などを加えると凝固し,強固な素材に変質する特性をもつ粉末材料のことを指す。広義的には,セメントはアスファルト,樹脂,石灰,石膏などを指し,これらを調合した接着剤全般を指すといわれている。ただ,アスファルトや石灰あるいは石膏といった素材自体も,近代特有のものとはいえない。セメントが近代特有というのには,やはりそれなりの訳があるのだ。実は,現在,一般にセメントといえば,ポルトランドセメントを指す。そして,このポルトランドセメントこそ,近代特有の材料なのである。
 
18世紀に入ると,例えば産業革命を迎えたイギリスでは産業の近代化が始まり,鉄道・運河さらには港湾工事などの大規模な土木工事が展開された。その際,建築の基礎構造部や水中での構造物において,水中でも硬化し強度を維持できるセメントを用いたコンクリートの需要が多くなってきた。近代化による港湾関係の土木工事の発生を背景に,水硬性セメントの追求がなされてきたのである。
 
こうした動きの中で,新しい水硬性セメントの発見に先鞭をつけたのが英人土木技師ジョーン・スミートン(1724-1792)であった。スミートンは焼失したエジストーン灯台の再建にあたって,耐火建築としての石造とする際に用いるモルタルの追求の中で,1756 年に水硬性石灰の発明に成功した。フランスやドイツなどの多くの研究者や技術者が水硬性セメントの研究に着手する中,イギリスでは1796年にジェームス・パーカーが粘土含有石灰岩を焼成して水に強い水硬性セメントの生産が可能となることを発見し,その特許を得ている。水硬性セメントの特許の取得は,その後も続き,ついに極めて強力な結合剤としての水硬性セメントにたどり着いたのがジョセフ・アスプディン(1778-1855)であった。1824年,イギリスの煉瓦職人であったアスプディンは「人造石製造法の改良」と題する特許を取得した。
 
アスプディンは,特許として「建造物のスタコ・水中工事・貯水溜・その他特殊目的に使用できるセメント,また人造石を製造する改良法は次のとおりである」としてポルトランドセメントの製造法を示した。すなわち,アスプディンは,石灰岩・粘土・鉄宰(酸化鉄)などの調合された原料を,高熱で半融解するまで燃焼し,それを急冷してできた素材(クリンカーと称される)に石膏を加えて微粉砕する方法を提案したのである(『七十年史 序編』)。そして,このセメントの固まった姿がイギリスのポルトランド島で産出する石材に似ていたことから,この材料はポルトランドセメントと名付けられたのだという。いずれにせよ,このアスプディンの方法は,その後,改良を加えられながら工業化され,1850年代以降はイギリスを始めフランス,ドイツ,アメリカなど各国に製造工場が建設され,今日に至っているのである。
 
 

わが国におけるセメントの生産の開始

さて,巨視的に見れば,わが国におけるコンクリート構造の建築が普及するのは,関東大震災以降といえる。ただ,セメントは,それ以前からも重要な建築材料として使用されていた。すなわち,わが国では幕末から明治初頭からの煉瓦造建築の普及の中で,セメントは煉瓦を積み上げていく際に用いる目地モルタルの材料として使用されていたのである。しかしながら,その当時のセメントは,輸入品で極めて高価であった。そのため,わが国ではその存在を知りつつも,代用品として漆喰をよく用いていた。
 
例えば,現在,世界遺産に向けての準備の様子がしばしば話題となる木骨煉瓦造建築として知られる1872(明治5)年竣工の旧富岡製糸場(写真-5)は,煉瓦はフランス人のポール・ブリューナが瓦職人にその製造方法を教えて焼かせ,また,煉瓦目地は高価なセメントの代わりに漆喰を用い,煉瓦造貯水槽などの重要な部分だけは輸入したセメントを使用したという(『旧富岡製糸場建造物群調査報告書』)。
 

写真-5 富岡製糸工場レンガ壁(1872(明治5)年)(写真:内田)】



それでも,急増する煉瓦造建築の状況の中で,ポルトランドセメントの使用は確実に増えていた。そうした中で,1871(明治4)年,明治政府が幕府から引き継いだ横須賀製鉄所(その後横須賀造船所と改称)の第二ドッグの工事を管轄していた工部省造船寮の造船頭に就任した平岡通義は,工事で使用するフランス製の建設用セメントの購入予算が6万ドルという巨額なことを問題視し,セメントの国産化に着手することになる。平岡は,工部省の責任者であった伊藤博文にセメントの国産化の必要性を進言し,翌1872(明治5)年7月に深川清住町の旧仙台藩屋敷跡に「摂綿篤(セメント)製造所」の工事を始め,翌1873(明治6)年末に竣工させた。
 
セメント製造の具体的な研究は,工部省の化学技師の宇都宮三郎が当たっていたため,宇都宮の研究に従い,その後セメント焼窯・乾燥場などの増築が行われ,増築工事が終了した1875(明治8)年5月,わが国で初めての国産のポルトランドセメントが焼成された(写真-6)。この工場建築に携わった技術者は定かではないが,お雇い外国人として活躍していたトーマス・J・ウオートルス(1842-1898) かリチャード・H・ブラントン(1841-1901)であったと推測されている(『都史紀要3 銀座煉瓦街の建設』)。いずれにせよ,これを機にセメントの国内生産が開始された。ちなみに,わが国のセメントの国産化の開始時期はアメリカと同じ年でもあり,わが国の近代化が急ピッチで進められていたことが窺(うかが)える。なお,この「摂綿篤製造所」は,その後,工部省製作寮の所管となったために1874(明治7)年には「深川製作寮出張所」,1877(明治10)年には「深川工作分局」と改名され,また,1884(明治17)年には浅野総一郎に売却されたために,民間工場である「浅野工場」となった(写真-7)。
 

写真-6 官営「摂綿篤製造所(セメント)」(日本セメント株式会社社史編纂委員会『七十年史 序編』1955年)】

写真-7 1890(明治23)年頃の浅野セメント工場(日本セメント株式会社社史編纂委員会『七十年史 序編』1955年)】



一方,こうした政府主導のセメント開発とともに,民間によるセメント製造も1881(明治14)年に開始されることになる。1879(明治12)年9月,山口県出身でセメント製造の国産化に尽力した平岡通義が帰郷して,セメント製造事業の必要性を説いた。幕末期に毛利藩の御蔵元役所の本締役という藩の財政を担当していた笠井順八は,明治以降,仕事を失った士族の授産事業に尽力していた。平岡に刺激を受けた笠井は,士族授産の方法として地元の石灰岩を利用できるセメント事業に注目し,1881(明治14)年5月に小野田で初めて民間セメント工場を興したのである。これが小野田セメント会社の始まりで,会社設立に際しては,政府からの借入金を得,技術面は工部省の宇都宮が指導した。その結果,1883(明治16)年9月初めて民間製のポルトランドセメントの生産に成功している。そして,この浅野と小野田の2社の存在を機に,わが国では,セメント生産がひとつの産業として確立していくことになるのである。
 
 

濃尾地震とセメント

セメントの国内生産が始まるが,それでもセメントは,しばらくの間は高価な建築材料であった。そのため,煉瓦積み用のモルタルや基礎工事用のモルタルであっても,セメントの使用量はかなり抑えられていたようだ。例えば,辰野金吾(1854-1919)の設計による1888(明治21)年竣工の工科大学本館(写真-8)の工事用モルタルは,セメント,石灰,砂の割合が1:4:6で,セメントの含有量が極めて少なかったという。
 
しかしながら,1891(明治24)年の濃尾地震がその見直しの大きな機運となった。この濃尾地震では,伝統建築に代わる新しい建築として普及し始めていた煉瓦造建築の被害が大きかったためである。それは,明治以降,積極的に導入が図られてきた西洋建築技術の見直しを求めたのである。その結果,煉瓦造の鉄材による補強という新しい工法を生み出したし,煉瓦積み用のモルタルの強度を高めるためにセメントの含有量を多くし,粘着力を高めることが促されたのであった。それは,まさしくわが国特有の地震地帯に適合する耐震建築の模索の始まりでもあったのである。
 

写真-8 工科大学本館(1888(明治21)年)(『明治大正建築写真聚覧』日本建築学会)】




 
 
<主なる参考文献>
● 小野田セメント株式会社笠井真三伝編纂委員会『笠井真三伝』1954年
● 日本セメント株式会社社史編纂委員会『七十年史 序編』1955年
● 東京都『都史紀要3 銀座煉瓦街の建設』1955年
● 村松貞次郎『日本建築技術史』地人書館 1959年
● 日本科学史学会編『日本科学技術史体系17 建築技術』第一法規出版株式会社 1964年 
● 山本学治『建築設計講座 西洋建築史考』理工図書株式会社 1973年
● 村松貞次郎『新建築技術叢書8 日本近代建築技術史』彰国社 1976年
● 伊東俊太郎・坂本賢三・山田慶児・村上陽一郎編『科学史技術史事典』弘文堂 1983年
● 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂版』彰国社 1983年
● 桐敷真二郎編著『パラーディオ「建築四書」注解』中央公論美術出版1986年
● 日本建築学会編『近代建築史図集 新訂版』彰国社 1988年
● 藤本盛久編著『構造物の技術史 構造物の資料集成・事典』市ヶ谷出版社 2001年
● 富岡市教育委員会『旧富岡製糸場建造物群調査報告書』2006年
 
 
 

神奈川大学工学部 建築学科 教授 内田 青蔵(うちだ せいぞう)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2012秋号



 

 

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