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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 水との共生の歴史〜命を守る公共事業〜《前編》

 

公益財団法人 えどがわ環境財団 理事長
土屋 信行

 

1.コンクリートから人へ

「コンクリートから人へ!」「スーパー堤防は、スーパー無駄使い!」
すさまじいシュプレヒコールと共に国民の命を守る洪水対策が「事業仕分け」の大義名分の下で消えていった。
人々の気持ちを惹きつける聞こえの良い「無駄使い!」「事業仕分け!」という言葉と共に、
無くなって行った大切な仕事は無かったのだろうか。
公共事業とは何もかも全てが無駄使いであるかのごとくの国民世論が、これらのシュプレヒコールで一気に醸成されていった。
 
そんな中で「八ッ場ダム」「スーパー堤防」の継続を願い、声を上げた地域があった。
江戸川と荒川が東京湾に注ぐ河口に位置する東京都江戸川区である。
町会・自治会の方々が声を掛け合い、あっという間に12万人以上の署名を集め、事業の継続を訴えたのである。
 
この地域は、古くは利根川の東遷事業という江戸時代の河川改修以前の太日河(利根川)が江戸湾に注いでいた場所であり、
同時に元荒川、隅田川、綾瀬川という荒川西遷事業前の川筋に位置する。
さらには関東平野の中心部を洪水のたびに流路を定めず流れ下っていた、中川という河川も集中していた地域である。
 

図-1 関東水流図(静嘉堂文庫所蔵)

図-1 関東水流図(静嘉堂文庫所蔵)


 
 

2.洪水の脅威と恵み

なぜこれほどまでに多くの川筋が集まっているのだろうか。
それは関東平野の最南端に江戸・東京があり、ここの地盤が一番低く、西には武蔵野台地、東には下総台地という大きな台地が位置し、
あたかも寺の山門の金剛力士像のように、
「阿(あ)形」「吽(うん)形」の二像が両側から睨みを利かせているような配置で、狭窄部を造りだしているからである。
 
そのため関東地方全体で見ると、西の山岳地帯の最高峰に甲武信ヶ岳を抱く奥秩父山塊、日本の名だたる霊峰として有名な谷川岳、
利根川の源頭である大水上山を頂く三国山脈、帝釈山脈、八溝山地などを分水嶺としてこの範囲に降り注いだ雨や雪は、
全て集まって低平地江戸・東京に流れ下ってくる。
ここでは多くの流れが澪筋さえ整えず、いつも流路の定まらない低湿地帯を造りだすことになったのである。
 
このような低湿地帯では、洪水というものは当然起こるものとされ、地域の中に認識されていた。
そして洪水に対する備えとしての最善策は、一度洪水にあった場所には住まないということであった。
同時にそのことを後世への教訓とするために、地名に危険情報を刻み込んだ。
それ故にこの地域には、水に因む地名がたくさん残っている。
熊の木(曲がる水)、江北、堀之内、堀切、梅田(埋めた)、牛田、皿沼、水元、瑞江(みずえ)、
川口、蛇土手などの多くの地名がそれである。
またこの地域は洪水と寄り添って生きてきた地域でもある。
この地域では洪水を忌み嫌うだけではなく、洪水が豊かな恵みをもたらす一面を大いに活用していた。
 

写真-1 洪水と共生する水田地帯(昭和前期、江戸川区)

写真-1 洪水と共生する水田地帯
(昭和前期、江戸川区)


 
すなわち洪水は上流の肥沃な土砂を運んで来てくれるのである。
だから洪水は堤防が決壊することが無くても一定の段階で洪水が海に流れ去ってしまう前に用水路に導き入れ、
各田圃に肥沃な養分を配ったのである。
 
関東平野の各地にあるこれらの稲田や蓮田は、大規模洪水時にその洪水を受け止めてくれる遊水機能を併せ持つことになった。
ここでは生活の維持のために水屋を築き、水田では田舟を使い軒下には船を準備し、洪水と共に暮らしていた。
反面この地域の田や畑は数年に一度は作物が流されてしまうという宿命を背負うこととなる。
 
写真-2 農家の軒下に吊るされた船

写真-2 農家の軒下に吊るされた船


 
 

3.「中条堤」

そもそも堤防とは洪水の際に川を挟んで左岸が切れれば右岸は切れず、右岸が切れれば左岸は切れず、
上流が切れれば下流は切れない。
そこで堤防の切れる場所を決めておけば、洪水を御しやすくなると先人達は考えた。
このような場所の代表例が利根川の「中条堤」である。
 

図-2 「江戸時代の利根川」 国土交通省 関東地方整備局 利根川上流工事事務所

図-2 「江戸時代の利根川」 国土交通省 関東地方整備局 利根川上流工事事務所


 
「中条堤」は洪水時に利根川の水を上流の現在の熊谷市と深谷市の一部を含む地域に意図的に氾濫させ、
下流の洪水を軽減し結果的に最下流の江戸(東京)を水害から守っていたのである。
その面積は最下流に位置する江戸川区の面積に匹敵する約50haもの広大な地域であった。
現在の利根大堰がある辺りに「酒巻・瀬戸井の狭窄部」と呼ばれる、川幅を狭くして洪水を流れ難くした場所を造った上で、
上流側の利根川の左岸の一部に堤防天端の低い箇所を造っておき、ここから洪水を越流させた。
この洪水が際限なく下流へ下ってしまわないように、これを受け止めるために利根川の右岸堤防に直角に堤防を造った。
これが「中条堤」である。
当然、左岸側には洪水でも切れないように「文禄堤」と呼ばれるしっかりした堤防を築き、
右岸側の「中条堤」と共に漏斗(ろうと)状の遊水池として洪水調節をしていた。
ここでは1億㎥以上の貯留能力を有していたといわれている。
 
この狭窄部から下流の利根川では、安全に河道内で管理できる流量に制限された洪水流量しか流さないというシステムである。
利根川の最下流部にある江戸の町を、絶対に守るという覚悟である。
慶長年間(1610年頃)に徳川家康の命により、伊奈忠次によって本格的な整備が実施されたと言い伝えられている。
「中条堤」より下流の利根川右岸側から下流の広い地域には、
ほぼ全域に渡り低い利根川堤防と「水除囲い堤(控堤)」群が分布しており、
この控堤により囲まれた輪中のような「領」と呼ばれる水利を目的とし、
この堤防によって守られる一団の区域がそれぞれ地縁組織を形成していた。
 
大洪水の場合、「中条堤」より溢れた氾濫水が各「領」ごとの控堤の間で貯留されながら、
徐々に下流に流れ下り、最終的には江戸の町への洪水被害を低減していた。
さらには江戸まで流れ下ってきた洪水を、江戸の町に浸入させないための最後の遊水機能として、
浅草から三ノ輪にかけて「日本堤」という横断堤を築くと共に、
隅田川の対岸に「隅田堤」を築いて千住より上流側を漏斗状に囲うことにより、
この中を遊水地とすることで洪水が江戸の市中に及ぶのを防いでいたのである。
 
このような遊水地となった洪水域では氾濫して水が浸水した場合、当然、作物に被害が及ぶ。
反面、肥沃な土壌が堆積して地力はむしろ年々更新されていった。
洪水被害が稀であれば洪水がもたらす地力の回復のほうが大きい恵みをもたらすので、誰もが受容できるものであった。
例えば洪水の地力回復のおかげで通常の場所よりも1.2倍の作柄が得られたならば、
5年に1回程度の洪水でその年に何も取れなくなっても我慢してきたのだった。
 
しかし、関東地方では天明3(1783)年の浅間山の噴火がもたらした大量の土砂が川を埋め、
利根川の越流回数が増大することとなり、「中条堤」の上流域の人々もこの遊水機能を受け入れられる状況では無くなっていった。
 
図-3 浅間山夜分大焼け図(群馬県立歴史博物館)

図-3 浅間山夜分大焼け図(群馬県立歴史博物館)


 
幾度となく議論が起こったが、このことが決定的となったのが明治43(1916)年の「東京大水害」である。
この「中条堤」の遊水機能では持ちこたえられなくなり、「中条堤」が決壊し東京一帯が大洪水になった。
死者・行方不明者1,379名、当時の日本の国民総生産の約4%が失われる大被害となった。
 
写真-3 明治43年東京大水害(荒川知水資料館)

写真-3 明治43年東京大水害(荒川知水資料館)


 
この明治43年の大洪水は「中条堤」にも大変な変化を及ぼすこととなった。
決壊した「中条堤」を元通り復旧しようとしたところ、
下流の下郷の人々が「中条堤」をこれまで以上の強度と高さで造ることを求めたのである。
一方、上流の上郷の人々は、天明以来洪水の頻度が増えていることに不満が高まっていたことに加え、
今まで以上に「中条堤」が強固に造られれば、もはや田圃への肥沃な土砂の流入と洪水の両立が成立せず、
『単なる洪水調節池となってしまう!』と危機感を抱いた。
そこで「論所堤」よろしく堤防を挟んだ地域の話し合いとなったが、収まりは全くつかなかった。
 
「中条堤」は昔から度重なる洪水のたびに上流の上郷地区と下流側の下郷地区との間で争論が行われてきたことから、
別名「論所堤」とも呼ばれていたのである。
この時もなかなか話し合いがつかなかった。
埼玉県政までもが大混乱に陥り、当時の県議会の権限外であったにもかかわらず、知事の不信任決議が採択されるといった、
とんでもない事態となった。
 
その結果、最終的に出された案は、「中条堤」上流の利根川本川右岸の越流部分を嵩上げし堤防全体を連続堤として強化、
「文禄堤」を左岸とし、ここに洪水を閉じ込めて流す「河道内流下方式」に一大転換したのである。
このことにより約300年間に渡り維持されてきた、「中条堤」による利根川の遊水機能が失われることとなった。
 
この騒乱は、社会的にも氾濫に対する江戸時代の地域格差が許されなくなったことと、
洪水による肥沃な土砂の供給が農作物の増産をもたらすという、利益に見合う範囲を超えてしまうほどの洪水の多発が、
地域としてはもはや容認できなくなったことから発生したものである。
結果として、「中条堤」を中心とした地域・流域全体で洪水被害を分担するシステムが崩壊することとなったのである。
 
 
水との共生の歴史〜命を守る公共事業〜《前編》
水との共生の歴史〜命を守る公共事業〜《後編》
 
 
 

土屋 信行(つちや のぶゆき)

1950年埼玉県生まれ。
博士(工学)、技術士(建設部門・総合技術監理部門)、土地区画整理士。
公益財団法人えどがわ環境財団理事長、公益財団法人リバーフロント研究所理事、
一般財団法人全日本土地区画整理士会理事。
1975年東京都入都。
下水道局、建設局を経て建設局区画整理部移転工事課長、建設局道路建設部街路課長を歴任。
03年から江戸川区土木部長を務め、11年より現職。
現在も各自治体の復興まちづくり検討の学識経験者委員をはじめ、幅広く災害対策に取り組んでいる。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年4月号
月刊積算資料2014年4月号
 
 

 

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