建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その5 鉄筋コンクリート

 

コンクリートの建築への普及

1875(明治8)年,政府主導のもとで開始されたセメントの国内生産が深川工作分局で成功した。これに伴い民間によるセメント製造も開始され,1883(明治16)年9月初めて小野田セメントが生産に成功し,また,1884(明治17)年に深川工作分局の払い下げを受けた浅野セメントも民間として生産を始め,徐々にセメント生産はひとつの産業となるまで成長を遂げた。ちなみに,1897(明治30)年には使用するほとんどのセメントを国産で賄えるほどの生産量となり,その後は,セメントの輸出国へと変貌を遂げ,1937(昭和12)年にはベルギー,ドイツ,イギリスに次いで世界第4位のセメント輸出国となっていたのである。
 
ところで,このセメントに砂・砂利を加え,水で練り上げたものがコンクリートである。そして,これに鉄筋を併用させたものが鉄筋コンクリートとなる。この鉄とコンクリートを組み合わせた鉄筋コンクリートは,村松貞次郎博士によれば,一般に1867(慶応3)年にフランス人の造園家のモニエが鉄とコンクリートを用いて植木鉢を造り,それで特許を得たことから始まるとされ,その特許がドイツに売却され,そこで更なる種々の応用や強度計算の理論が研究されたという(『日本近代建築の歴史』NHKブックス300 日本放送出版協会1977年)。そして,わが国にこの新しい鉄筋コンクリート構造が伝えられたのは,明治20年代半ばごろであるという。ちなみに,堀勇良博士によれば,鉄筋コンクリートの紹介は1891(明治24)年に中村達太郎が『THE BUILDING NEWS』の記事を『建築雑誌』に抄訳したものが最初で,次いで,翌年の1892(明治25)年に曾禰(そね)達蔵が「コンクリート造家屋」と題して紹介している。曾禰が抄訳した内容は,雑誌『SCIENTIFIC AMERICAN』に紹介されたアメリカ・サンフランシスコのスタンフォード大学構内に寄宿舎と博物館が耐震耐火を目的として,鉄筋コンクリート構造により竣工したことを取りあげたもので,工期はこれまでの石造と比べて極めて短いことを述べている。まさに,その特徴として,耐震耐火性能だけではなく,工期の短縮というその速効性も注目されていたことが窺(うかが)える。
 
さて,コンクリートは,当初,港湾工事や鉄道敷設や土木や鉄道橋などに使われ,やがて建造物にも用いられることになる。コンクリートの建築への使用は,例えばJ.コンドルは,来日早々の1880(明治13)年の作品である開拓使物産売捌所の基礎として,松杭と捨算盤の上にべたコンクリートを設け,さらにその上に木造床を造るという工法として使用していたことが知られている。また,コンクリート造の建築としては,1874(明治7)年に存在していた弁天工部省灯台寮構内の貯油倉庫が日本最初のコンクリート造建築物といわれ(横浜開港資料館『横浜もののはじめ考』改訂版1988年),現存する建物としては1882(明治15)年の竣工の旧長浜駅舎が挙げられる。これもコンクリート造ではあるものの,鉄筋を用いない無筋の建物で,設計にはイギリス人技師が関与していたといわれている。デザイン的には隅石や開口部廻りや軒廻りの煉瓦の使用など,石や煉瓦を装飾的に用いている点が興味深い。いずれにせよ,これらは,当時,コンクリートが耐火性能を持つものとして理解され,また,まだ鉄を建築に用いることが一般化していなかったことを教えてくれる。ちなみに,鉄も建築より鉄道橋などの土木分野でいち早く導入され,1885(明治18)年には鉄道寮の錬鉄による鉄道橋の設計基準が完成していたという。こうした動きの後,建築物にも鉄が導入されることになる。
 
 
 

鉄筋コンクリート造の建築への導入

では,鉄とコンクリートを用いた最初の鉄筋コンクリート構造の建物は何であったのであろうか。すでにみたように鉄筋コンクリート造の情報は,明治20年代からわが国に紹介されはじめた。そして,1903(明治36)年京都山科の琵琶湖疏水運河に初めて鉄筋コンクリート造による橋が出現し,以後,長崎の佐世保橋(1906年),仙台の広瀬橋(1909年), 横浜の吉田橋(1911年)というように明治後半から鉄筋コンクリート造の橋梁が定着した。ちなみに,『明治工業史 土木篇』によれば,道路橋梁として明治年間に鉄筋コンクリート造の橋は43カ所完成していた。
 
一方,建築物では何が最初の事例となるのであろうか。近江栄博士によれば,旧海軍鎮守府から佐世保重工業株式会社に払い下げられて「第一烹炊所」と「潜水器具庫」と称されていた1905(明治38)竣工の2棟が,わが国の最初の事例という。ちなみに,これらは平屋の建物で,柱と屋根は鉄筋コンクリート構造で壁は煉瓦であった。また,これに続くものとしてよく知られているのが,1906(明治39)年頃の旧東京倉庫株式会社和田岬倉庫である。設計は土木学者の白石直治で,建築家の関与したものではなかった。続いて,建設された鉄筋コンクリート造の建物は,1909(明治42)年の澁澤倉庫が清水組(現 清水建設)の設計施工で竣工している。設計は田辺淳吉で,構造学者の佐野利器が協力したという(図−1)。また,清水組では,1910(明治43)年には團琢磨邸書庫と八十島親徳邸倉庫を鉄筋コンクリート造で手掛けた。また,三菱地所技師長だった保岡勝也も,1911(明治44)年頃東京芝区の某邸宅の書庫を鉄筋コンクリート造で手掛けていた(図−2)。このように建築物における鉄筋コンクリート造の様子をみると,倉庫あるいは住宅の書庫・倉庫などに最初に導入されていた様子が窺え,鉄筋コンクリート構造が耐火性に優れている点に注目して採用されていたことを教えてくれる。
 

図−1 澁澤倉庫スケッチ:外観および平面図(『建築世界』第3 巻12 号 明治42年12月号)】




図−2 某邸書庫(保岡勝也『新築竣工家屋類纂』信友堂書店 1911年)】




ところで,鉄筋コンクリート構造の建築物の導入をみると,これまでの書庫や倉庫といった耐火性を特に求める用途の場に用いられた事例とともに,建築全体を鉄筋コンクリート構造とする前段として煉瓦造の建物の一部に用いる事例も多く存在していた。例えば,堀勇良博士によれば, 鉄筋コンクリート造をいち早く取り入れた建築家遠藤於菟(おど)は,アール・ヌーヴォーの影響を受けた建築として知られる1905(明治38)年竣工の横浜銀行集会所の階段踊り場スラブに鉄筋コンクリート造を採用したという(写真−1)。また,遠藤は,その後に手掛けた煉瓦造の生糸試験場(1908年)や越前屋呉服店陳列所(1909年),さらには,三井物産横浜支店倉庫(1910年)などの開口部分や屋根スラブなどに鉄筋コンクリート造を取り入れ,こうした実験的試みの積重ねの末,全体を鉄筋コンクリート造とする三井物産横浜支店を1911(明治44)年に完成させたのであった。こうした建物の一部に鉄筋コンクリート造を取り入れるという方法は,関東大震災以前までは一般的な方法であったようで,後藤慶二設計の1915(大正4)年竣工の豊多摩監獄の十字房でも,壁は煉瓦,床は鉄筋コンクリート造が採用されていた(写真−2)。
 

写真−1 横浜銀行集会所(『建築写真類聚 銀行会社巻二』1917年)】



写真−2 豊多摩監獄(写真:内田)】



導入された鉄筋コンクリート造の形式

ところで,鉄筋コンクリート構造の導入期には,多様な鉄筋コンクリート造の形式が紹介されていた。1911(明治44)年に刊行された三橋四郎の『和洋改良大建築学 続篇』(大倉書店)によれば,現在,鉄筋コンクリートは,Reinforced concreteの訳で,それゆえ,RC造と記されているが,名称自体Concrete steel,Ferro concreteあるいはArmored concreteと称されていたという。鉄筋コンクリートが考案された理由としては,①鉄とセメントの膨張率がほとんど同じである,②コンクリートは鉄が張力を受けてもこれに応じてある程度の伸長の弾力がある,と述べ,また,その特徴として耐火性はもとより耐震性・耐久性とともに石造や鉄で補強した煉瓦造建築より経済的であり,また,多様な形態や部分装飾の容易なことを指摘している。そして,その形式として,アンネビック式,コアグネ式,カーン式,ウエル式の4種の形式を紹介している。堀勇良博士によれば,これらの4種のうち,わが国で採用されたものは,アンネビック式とカーン式であったという。ちなみに,アンネビック式はフランス人のアンネビックが1892(明治25)年に特許を取得していたもので,1909(明治42)年に大倉土木(現 大成建設)がフランスから技術者を招聘して導入した(図−3,4)。一方のカーン式は,アメリカ人のカーンが1903(明治36)年に特許を得たもので,カーン・バーと称される特殊な鉄筋を用いた工法で,1909(明治42)年には横浜の米国貿易商会が代理店となってカーン・バーの販売を開始していた(図−5,6)。ただし,カーン式鉄筋コンクリートによる建物は,関東大震災で多くの被害を受けてしまい,震災後カーン式はその姿を消したという。
 

図−3 アンネビック式(三橋四郎『和洋改良大建築学 続篇』
大倉書店)

図−4 ア ンネビック式細部(三橋四郎『和洋改良大建築学続篇』大倉書店)】


図−5 カ ーン式(三橋四郎『和洋改良大建築学 続篇』大倉書店)】

図−6 カ ーン・バー(三橋四郎『和洋改良大建築学 続篇』大倉書店)】


遠藤於菟の三井物産横浜支店と鉄筋コンクリート造建築の出現

明治末から大正期の日本建築学会機関誌である『建築雑誌』を見ると,1913(大正2)年10月号には「鉄筋混凝土造貸家長家」の計画案が紹介されている。これは,同年に東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した松田亥作の卒業設計で,全体を鉄筋コンクリート造としたものであり,松田自身「今日に於て人命財産を庇護するに適したる家屋は鉄筋混凝土構造に及くはなし」と述べており,その斬新さが注目されたものと思われる。また,1916(大正5)年1月号では桜井小太郎設計の和田維四郎邸が紹介されている。これは在来の日本家を鉄筋コンクリート造で完成させたもので,わが国最初期の鉄筋コンクリート造による住宅建築であった(写真−3)。このように雑誌上でも大正期になると鉄筋コンクリート造による建築事例の紹介が始まったことがわかる。
 

写真−3 和田維四郎邸(『建築雑誌』大正2 年10月号)】



さて,改めて建築全体が鉄筋コンクリート造の建物は,すでに紹介したように1911(明治44)年に出現していた。横浜に現存する三井物産横浜支店である(写真−4)。設計者は,遠藤於菟(1866─1943)と酒井祐之助(1874─1935)で,工法としてはアンネビック式を基本としていたようである。遠藤は,すでに述べたように煉瓦造の建築の一部に鉄筋コンクリート造を取り入れ,徐々に鉄筋コンクリート造の占める割合を全体へと拡大化していった。この支店の直前に竣工した三井物産横浜支店倉庫(写真−5)は煉瓦造3階建て地階付きの建物であるが,外壁と木造床以外を鉄筋コンクリート造とした。言い換えるならば,いろいろな部位に鉄筋コンクリート造を取り入れつつ,その性能や技術について検討しているかのようでもある。いずれにせよ,わが国では,1891(明治24)年の濃尾地震以降,煉瓦造建築の補強として鉄を利用する工法が普及していたが,遠藤は,この鉄の代わりに鉄筋コンクリート造を取り入れ,やがて,煉瓦造に代わる新しい構法としての鉄筋コンクリート造へと移行していったように考えられるのである。それは言い換えれば,新しい構法ということですぐ取り入れるのではなく,現実的観点からその構法を吟味しながら徐々に採用していたように思える。完成した三井物産横浜支店は,4階建て地階付きで,外壁は白色煉瓦タイル張りで,半地下部分は石張である。窓は上げ下げ窓の縦長のプロポーションを採り,また,フラットルーフではあるものの頂部はコーニスとフリーズが付くなどデザイン的には,簡素ながらも古典主義建築の様相を示している。その意味では,デザイン的にはまだ未熟ではあったが,全体に漂う簡素さは新しい表現の現れともいえるかもしれない。
 

写真−4 三井物産横浜支店(写真:内田)】



写真−5 三井物産横浜支店倉庫(写真:内田)】



むすびにかえて

歴史的建造物を生かした街づくりをいち早く展開した横浜,その中心地区である旧居留地エリアの関内には,戦前期の建物が大切に残されている。しかしながら,関東大震災そして戦災で多くの建物が焼失し,現存する歴史的建造物の大半は,震災後のものである。そうした中にあって,わずかだが震災前のものも見られる。1904(明治37)年の横浜正金銀行本店で現在の神奈川県立博物館,1917(大正6)年の横浜開港記念館は,それぞれ関東大震災でドームが焼け落ちるなどの大被害を受けたが,見事,その後に改修工事で蘇ったものである。こうした中で,被害が軽微で済み,今もその雄姿を見せているものがある。そのひとつが先に紹介した遠藤と酒井による三井物産横浜支店とその倉庫だ。三井物産横浜支店は,全体に火をかぶったものの,倒壊することなく今日までその姿を留めている。また,旧英七番館(現 戸田平和記念館)(写真−6)と旧露亜銀行横浜支店(写真−7)も同様だ。旧英七番館は一見すると煉瓦造,旧露亜銀行横浜支店は石造の古典主義建築にみえるが,ともに鉄筋コンクリート造であり,これらは震災・戦災をくぐり抜けてきた建物だ。これらを含め,横浜関内地区の歴史的建造物の大半は鉄筋コンクリート造といえる。鉄筋コンクリート造ゆえに倒壊することなく,残ったのである。その意味で,横浜の歴史的建造物は,鉄筋コンクリート造が震災後に急速に普及し,かつ,この構造が地震にも火事にも強かったことを示す好個の事例ともいえるのである。
 

写真−6 旧英七番館(写真:内田)】



写真−7 旧露亜銀行横浜支店(写真:内田)】



 
< 主な参考文献>
● 村松貞次郎『日本建築技術史』地人書館 1959年
● 日本科学史学会編『日本科学技術史体系17 建築技術』第一法規出版 1964年
● 村松貞次郎『新建築技術叢書8 日本近代建築技術史』彰国社 1976年
● 日本建築学会編『西洋建築史図集 三訂版』彰国社 1983年
● 日本建築学会編『近代建築史図集 新訂版』彰国社 1988年
● 堀勇良『日本における鉄筋コンクリート建築成立過程の構造技術史的研究』私家版 1981年

 
 

内田 青蔵(うちだ せいぞう)

1953年秋田県生まれ。東京工業大学大学院博士課程修了。工学博士。専攻は,日本近代建築史,日本近代住宅史。文化女子大学,埼玉大学を経て,現在,神奈川大学工学部建築学科教授。日本の近代住宅の調査をもとに生活や住宅の歴史研究にあたる。
著書として,『日本の近代住宅』『新版 図説・近代日本住宅史』(共に鹿島出版会),『同潤会に学べ』(王国社),『お屋敷拝見』『学び舎拝見』『お屋敷散歩』(共に河出書房新社),などがある。
 
 
 

神奈川大学工学部 建築学科 教授 内田 青蔵(うちだ せいぞう)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2013年秋号



 

 

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