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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第71回(その1)─関東平野から筑後平野へ─

日本文明は稲作文明から生まれた。稲作の舞台は沖積平野であり、沖積平野が日本文明の舞台ともなった。この沖積平野の物語は何度かに分けて紹介してきた。
本号から3回にわたって、沖積平野と人類の物語を述べていく。沖積平野の物語は、日本だけの歴史ではない。人類文明の発祥の歴史でもあった。
徳川家康の沖積平野との物語は、紀元前のエジプト文明の誕生につながっていく。
 
 

沖積干潟との戦い

日本で沖積湿地に立ち向かって大規模な戦いを始めたのは徳川家康であった。
徳川家康の関東平野の開発が、日本国土開発の夜明けとなった。
 
1590年、豊臣秀吉は北条氏を破り、天下人となった。
秀吉は家康を江戸城に移封した。この移封は正確に言えば、家康を江戸へ幽閉することであった。
 
何しろ江戸城から見る関東は、見渡す限りの不毛の湿地帯であった。
 
この厄介な湿地帯は、少しでも雨が降れば何週間も何カ月間も水浸しになっていた。
逆に、高潮ともなれば、海水は干潟の奥まで刺し込み、使いものにならない塩水であふれていた。
 
あまりにも悲惨な光景に家康の武将たちは激高し、すぐにでも秀吉と戦うべしと息巻いたと伝わっている。
家康はその武将たちをなだめ、鷹狩と称し関東地方を歩き回っていった。この鷹狩は関東の地形調査のフィールドワークであった。
このフィールドワークは、日本の歴史上で重要な意味を持つこととなった。
 
フィールドワークで家康は、利根川である地形を発見した。利根川は「関宿」で地形的にブロックされていた。
利根川はこの関宿で向きを南に変え、江戸湾に流れ込んでいた。
 
徳川家康はこの関宿の地形に気がついた。
この関宿の台地を削れば、利根川の流れは東の銚子に向かう。
この関宿の台地を開削して、利根川を銚子に向けて、関東の湿地帯を乾田化する。
関東湿地を乾田化すれば大穀倉地帯となる。見事な構想である。
図-1)は関宿で利根川が南に向かい、江戸湾に流れ込んでいる様子を示している。
 
これは、今私たちが語っている利根川東遷に関する一つの物語である。
 
しかし、歴史はそう簡単ではない。利根川東遷では、もう一つの物語が語られなければならない。
 

【図- 1 江戸時代の関東平野の河川再現図】

【図- 1 江戸時代の関東平野の河川再現図】


 
 

関東の鬼門:関宿

家康が江戸に入ったのは1590年である。天下分け目の関ケ原の戦いの10年前である。戦国時代の最終決戦が始まろうとしている時期であった。
 
戦国の最終場面において、家康にとってこの「関宿」は極めて危険な地形であった。大湿地帯の中で、この関宿の台地だけが東北地方へ続く乾いた土地であった。
 
東北には独眼竜、伊達政宗がいた。また越後には名門である強国の上杉もいた。彼らが一気に南下する時には、必ずこの台地を駆け下ってくる。この台地を南下すれば、房総半島は一瞬にして抑えられてしまう。
 
房総半島は古代から西日本と東北を結ぶ要の半島であった。銚子沖は強い危険な海流が太平洋に流れている。京都や大坂から来た船は、房総半島の良港に上陸して陸を使って東北に向かった。房総半島の南が上総と呼ばれ「上」が付くのは、海から来れば京都に近いからだった。
北東勢が関宿の台地を南下し、房総半島を占拠すれば制海権を握ってしまう。江戸湾出口の制海権を押さえられたら、家康は天下統一どころではない。
 
家康にとってこの関宿の地形とは、まさに鬼が入ってくる鬼門であった。
 
 

利根川を防衛の掘りに

この関宿の地形を発見した家康は、この台地を開削して、利根川と渡良瀬川の流れを銚子に向ける計画を立てた。
台地を開削し、利根川の水で巨大な堀を造る。
この堀で東からの急襲を防御する。

1600年の関ケ原で大きな炎が燃えようとしている中、1594年に家康は利根川東遷の第1次工事に着手した。
ところが、工事の真っ最中に関ケ原の戦いが開戦。利根川の工事は一時中断せざるを得なかった。

関ケ原で勝利し征夷大将軍を受けた家康は、関西を背にして江戸に帰った。
まだ豊臣家が大坂城に構えているのに、東の度し難い不毛の江戸に戻ってしまった。

家康には戦いが待っていた。人間との戦いではない。
過酷な関東の地形との戦いであった。
利根川の流れを東の銚子に向ける「利根川東遷」であった。
 
 

利根川東遷の変質

関ケ原の戦いの最中、北東では「北東の関ケ原」と呼ばれる伊達と上杉のすさまじい戦いが繰り広げられた。
その戦いは伊達の優勢で終わり、伊達政宗は徳川家康へ旗幟鮮明にした。
 
1614年、戦国時代の最終戦、大坂の陣が開戦。
伊達政宗は徳川側で大活躍をした。
江戸幕府にとって伊達政宗は信用できる盟友となった。
北東の脅威は消えた。
ところが利根川東遷は、営々と継続されていった。
 
1621年、新川が開削された。
1654年、赤堀川が開削された。
4代将軍・家綱の世、ついに、利根川と渡良瀬川の流水が銚子に向かった。
すでに日本は戦いのない平和な時代となっていた。
東の敵から江戸を防衛する利根川の掘は必要なくなっていた。
 
ここで利根川東遷の目的が霧の中に入ってしまう。
いったい、利根川東遷の目的は何だったのか?
 
 

利根川東遷の目的

この利根川東遷事業は、徳川家綱の時代で終わらなかった。
江戸時代を通じて利根川の工事は継続された。
川幅が拡張された。
川底が掘り下げられた。
利根川東遷によって関東平野は大変身を遂げた。
利根川の洪水が銚子へ向かい、不毛の湿地帯の関東が乾田化していった。
日本一の穀倉地帯が誕生していった。
 
この時点で人々は、利根川東遷は関東平野を造るためと認識した。
 
幕末から明治になった。
明治新政府は江戸幕府の社会制度を覆した。
しかし、明治政府はこの利根川東遷事業は、そのまま引き継いでいった。
 
近代に入り、関東平野に日本中の人々が集まってきた。
南関東に人口が集積し、大首都圏となっていった。
 
昭和22年、カスリーン台風が関東を襲った。
利根川は右岸で決壊して流れは先祖返りをした。
濁流は東京湾に向かった。
首都圏を襲い約1,000人の人々の命を奪った。
 
利根川の治水は、極めて重要な国家課題となった。
利根川の狭窄部はさらに広げられた。
堤防の強化が続けられた。
上流では次々と治水ダムが建設された。
遊水池も建設されていった。
 
利根川の河川事業は、南関東を洪水から守る
「治水」として21世紀の今も続いている。
 
・家康は伊達政宗に対する「防衛」で利根川東遷を開始した
・江戸時代、利根川東遷は関東乾田化の「国土開発」となっていた
・近代の利根川の工事は、洪水から首都圏を守る「治水」となっている
 
関東は日本における沖積平野の国土開発の夜明けであった。
 
この沖積平野の開発は空間を飛び超え日本列島へ広がっていった。
 
 

江戸の国土形成

徳川家康は征夷大将軍となり、1603年に江戸に幕府を開いた。
この家康は200以上の戦国大名たちを統制するのに巧妙な手法を使った。
それは日本列島の地形の利用であった。
 
日本列島の地形は海峡と山々で分断されていて、脊梁山脈からは無数の川が流れ下っていた。
 
この日本列島の地形の単位は流域であった。
家康は、この各地の流域の中に大名たちを封じた。
 
戦国時代は流域の尾根を越えた領土の奪い合いであった。
しかし、江戸時代は尾根を越え膨張す
る領地拡張は許されなかった。
図-2)は流域単位で分割した日本列島の図である。
 
戦国時代までは、全国の河川は制御されることなく自由に暴れていた。
特に、河川の下流部では、川は何条にも枝分かれ、乱流しながら沖積平野を形成していた。
そのどの沖積平野も真水と海水がぶつかり合った湿地帯となっていた。
 
流域に封じられた大名たちと日本人は、外に向かって膨張するエネルギーを、内なる流域に向けていった。
人々は力を合わせて扇状地と湿地帯に堤防を築いていった。
自由に暴れまくる何条もの川を、1本の堤防の中に押し込めていった。
 

【図- 2 流域で分割される日本列島】

【図- 2 流域で分割される日本列島】


 
 

平和な時代におけるヤマタノオロチとの戦い

何条もの川を堤防に押し込めた目的は、はっきりしている。
川が乱れ流れる不毛な湿地帯を、農耕地にすることであった。
川を堤防の中に制御できれば、農耕地が生まれ、富を拡大することができる。
 
図-3)は、徳島県の一級河川、那賀川の平面図である。
中央の2本の太い線が堤防で、現在の那賀川を表している。
その周辺に見える幾条もの線は、かつて川が乱流していた旧河道である。
今では地下に隠れて目で見ることはできないが、間違いなく旧河道のヤマタノオロチは足元に住んでいる。
 

【図- 3 那賀川流域水害地形分類図】

【図- 3 那賀川流域水害地形分類図】


 
この姿は那賀川だけの特別なものではない。
江戸時代、全国の沖積平野でこのように堤防が築かれ、何条にも暴れるヤマタノオロチを、堤防の中に押し込んでいく作業が行われていった。
 
この江戸時代の流域開発によって、日本の耕地は一気に増加した。
各地の米の生産高は上昇し、それに伴い日本人口は1,000万人から3,000万人に増加していった。
そのことを(図-4)が表している。
 
【図- 4 耕地面積と人口の変遷】

【図- 4 耕地面積と人口の変遷】


 
この(図-4)を見ると、平安から鎌倉、室町そして戦国時代にかけて、日本の耕地面積は横ばいであり、増加していない。
ところが、江戸になると一気に耕地面積が増加している。
流域に封じられた大名たちが、堤防を築造し、河川を堤防に押し込めることで、耕地の増加を実現したことが分かる。
 
日本の堤防の99%はこの江戸時代に築造された。
日本国土は平和な260年間の江戸時代に形成され、稲という富の獲得が可能となっていった。
この流域開発によって新しい富の土地を得た。
しかし、この土地の下に潜んだ旧河道のヤマタノオロチは危険極まりなかった。
洪水で水位が上昇すると、堤防のどこからかその顔を噴き出していった。
 
重機を持たない祖先たちは、知恵を絞ってヤマタノオロチとの戦いに向かって行った。
 
その知恵は、実に、千差万別であった。
 
(沖積平野の人類物語(その2)へ続く)
 

 
 

竹村公太郎(たけむらこうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長、博士(工学)。
神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)「、本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)、
「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO法人)         
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

 
 
【出典】


積算資料2023年1月号
積算資料2023年1月号

最終更新日:2023-05-22

 

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