• 建設資材を探す
  • 電子カタログを探す
ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その17 コンクリート外壁面における塗装仕上げの挑戦

 

日本建築学会パンフレット『コンクリート外壁の表面仕上』

建物を設計する時,外壁にはどのような材料を使うべきか,建物の用途や構造に加え予算の範囲内で収まるかなどを考え選択しなくてはならない。そして,カタログやサンプル(写真- 1)を見ながら,施主の要望や自身の好みだけではなく,周辺環境に影響がないかなど,多角的な観点から検討し数ある仕上げ材料の中から決定した後に,「果たしてこれで良かったのか?」と悩むことが,設計者であれば一度は経験したことがあるのではないかと思う。
 

【写真-1 明治後期から昭和初期に武田五一が収集したタイ ルの見本(田中撮影)】




 
このような悩みは今も昔も変わらないようで,関東大震災以降,急速に広まった鉄筋コンクリート造の外壁仕上げについて,昭和3年に日本建築学会が発行したパンフレット『コンクリート外壁の表面仕上』のまえがきでは「建築家の頭を惱ます種となるのでありまして,外壁面の仕上を如何にすべきかは,コンクリート建築界當面の最も重要なる問題の一であります」と記されている。
 
パンフレットには,学者や建築家,技術者ら37名が執筆しており,彼らが挙げた外壁仕上げ材について,まとめてみると
 
① 焼き物となるタイルやテラコッタ,天然材料である石材を張り付ける仕上げ
② 左官職人によるモルタルや擬石,リシン,スタッコなどの仕上げ
③ コンクリート表面にペンキを塗る塗装仕上げ
④ コンクリート表面を機械で研磨する方法や鑿(のみ)で凹凸を付ける仕上げ
⑤ コンクリート打ち放し仕上げ
 
に大別できる。
 
執筆者は,各々の感性や経験を踏まえ,どのような外壁仕上げ材が良いか独自の考えを述べているが,その大半は,コンクリートを仕上げ材料で覆い躯体の形状が分からなくなる①,②もしくは,コンクリートを直接見せる④,⑤を推奨している。その中で,早稲田大学の十代田三郎だけは「『モルタル』塗りの上に美装と防水を兼ねたる『ペンキ』塗も經濟的で且つ施工簡易にして又結果も良好なり」と述べ,「③コンクリート表面にペンキを塗る塗装仕上げ」を推奨している。
 
 

コンクリート面に対する塗装の問題

『コンクリート外壁の表面仕上』の中で,塗装仕上げを推奨する執筆者が少なかった理由は,彼らの好みや感性が大きく影響していたといえる。ただ,この仕上げに対して曾禰中條建築事務所の黒崎幹男は「問題なのはその塗料の性質如何です(中略)セメントに遭つての變質その他に就いては化學者の充分な研究に俟たうと思ひます」と意見を述べていることから,塗料の技術的な面に問題があったことも否めない。
 
明治44年の『建築雑誌(第294号)』では,「セメント或いはコンクリート建造物にペイント塗を行ふことにつきて」とするアメリカのチャールス・マクニコルの報告を東京高等工業学校の疋田桂太郎が邦訳している。それによれば,コンクリート面へペイントを行う場合の問題点として「此種の『ペイント』塗装に於て主要なる缺點は一『ペイント』が吸収せらる〻事,二(原文ママ),『ペイント』の彈力膜がボロボロしたる状態に變する事にあり」と解説している。
 
当時,コンクリート面に塗装を施すには,硫酸亜鉛などの水溶液をコンクリートの表面へ塗布し,アルカリを中和させてフッ珪酸亜鉛やフッ珪酸マグネシウムなどを塗布し,表面を硬化させてから油性塗料を塗布する方法が採られていたという。コンクリート用塗料が登場する前の塗装仕上げは,非常に手間のかかる施工方法であった。また,湿度の高いわが国では,コンクリート面に施された塗膜の剥離が発生しやすかったとする問題が『最新ペンキ塗と吹付法』などに記されていた(写真- 2)。
 

【写真-2 壁面に生じている塗膜の剥離(田中撮影)】




 

わが国におけるコンクリート用塗料の製造

わが国で最初に油性塗料の製造をはじめたのは,茂木重次郎(もてきじゅうじろう)が興した「光明社」であることは広く知られている。この会社は明治14年に創業し,明治31年に「日本ペイント製造」,昭和2 年に「日本ペイント」と社名を変更し,現在に至っている。
 
当時の油性塗料は,現在販売されている缶のふたをあけてすぐに使うことが可能な調合ペイントとは異なり,固練りペイントが主流であったために,職人が事前に希釈させる必要があった(写真- 3)。
 

【写真-3 当時使われていた 塗料の缶(田中撮影)】




 
こうした油性塗料は,明治政府が推進した洋風建築の外壁仕上げとして使われた。ただ,当時の油性塗料は輸入品であるがゆえに,非常に高価なものであった。そこで,高価な輸入塗料に頼らず国産塗料を求める声が高まり,次々と塗料メーカーがつくられていった。『日本塗料工業史』を用いて,新規の塗料メーカーが創立した件数を時代ごとにカウントしたところ,明治期には28社,大正期には71社,そして昭和期は昭和2 ~ 13 年までのわずか12年間に143社にものぼった。もちろん,これらの中には,統合や廃業に追い込まれるケースもみられたが,当時アメリカではすでに生産ラインに乗っていたコンクリート用塗料の研究開発を行う会社が大正中頃から国内でも現れてくる。
 
大正3年の『建築雑誌(第332号)』において,土居松市は「コンクリート壁體に就て(二)」の「(二)塗料を用ふる法」の中で,将来のコンクリート用塗料に対して五つの要求をしている。
 
① コンクリートが十分乾燥していなくても使用できる
② 塗膜が乾燥した時点で防水性を発揮
③ 塗膜が永久的で施工が容易かつ廉価でありながら目に快感を与える
④ 塗料の塗膜が他の材料に損害を与えない
⑤ 塗膜が耐水性に優れている
 
このような難題に立ち向かい「東亜ペイント」が大正11年にわが国初となるコンクリート用塗料を製造し,その後,各メーカーからコンクリート用塗料が販売されるようになった。ここでは,昭和14年の『塗料年鑑』を基に,コンクリート用塗料の商品名と塗料メーカーを一覧にまとめた(表-1)。
 

【表-1 昭和14年頃に販売されていたコンクリート用塗料の商品名と塗料メーカー】




 
商品名の中には,屋号だけを変え同じ成分であろうコンクリート用塗料にはじまり,消費者の記憶に残るようなユニークなものもある。塗料メーカーは代理店を通すなどして販路の拡大を図り,当時の日本で多様なコンクリート用塗料が流通していたことは,この件数をみれば明らかである。
 
 
 

外壁にコンクリート用塗料が使われた建物

塗料メーカーの中には,町工場のような小規模なものから,現在でも知られている大規模なものまであった。ただ前述のとおり,コンクリートの外壁面へ塗装を施すことは広く普及していたとは言い難く,コンクリート用塗料が使われた建物は思いのほか少ない。
 
ここでは建物について解説している『建築雑誌』や『土木建築工事画報』をはじめ,建築材料を紹介している『建築土木資料集覧』や商品カタログに加え,塗料メーカーの社史を手掛かりに,代表的なコンクリート用塗料とそれらが使われた建物を紹介していきたい。
 

日本ペイント【コンクリント】

 
「日本ペイント」は,塗料メーカーの中で最も長い歴史を誇っている。東京市芝区三田四国町(現在の東京都港区三田)に最初の工場を設け,その後,東京の品川や大阪の大淀などに新たな工場を開設した。商品カタログ(図- 1)では「コンクリント」の特性を「アルカリに遭ても石鹸化されない特殊のワニスを練油とし之れに精選したる顔料を配合して製造したる特殊塗料」と紹介している。
 

【図-1 昭和5年頃に発行さ れたコンクリート用塗料の 商品カタログ(田中所蔵)】




 
そして,国内外のコンクリート用塗料と比較し耐アルカリ性で防水性も高いことを示し,さらに,タイルや人造石,漆喰などの外壁仕上げと比較しても経済的であることをアピールしている。また,実際の色合いについては,色見本が商品カタログに綴られており,塗料の表面は油性塗料にみられる光沢はなく完全な艶消しで「常に別紙拾種色をストックして居る」と宣伝している。さらに,基本色を使い「如何なる色合でも數量に依りまして調製致します事は勿論塗るべき色調に適合したる色合を御相談に依つて調製する事にも致します」(図- 2)と,使用者が求めるイメージに合致できるようになっていた。
 

【図-2 商品カタログに綴 られている色見本(田中所 蔵)】




 
「コンクリント」を外壁の仕上げへ使用した建物には,小規模な店舗や兵庫県尼崎市の塚口に建てられた和洋折衷の文化住宅が挙げられる。また,神戸の松竹劇場や聚楽館劇場(図- 3)などの大型建築でも「コンクリント」が使われていたことが商品カタログに記されている。ちなみに,聚楽館劇場はすでに解体されてしまっているが,当時の絵葉書より,その外観は薄緑色を基調としていた可能性があると思われる。
 

【図-3 聚楽館劇場の絵葉書(絵葉書資料館所蔵)】




 

東亜ペイント【ストーンコート,グリプトン】

「東亜ペイント」は大正4年に東京の塗料問屋であった飯田連庫が大阪府西成郡椑島村赤須(現在の大阪府堺市西区)に設立した。塗料メーカーとしては,やや遅れた出足であったが「日本ペイント」の技師であった玉水弘と根岸信を迎え入れ経営の強化を図った。
 
そして「東亜ペイント」は,大正11年に「ストーンコート」を製造し『建築資料共同型録』へ「本邦最初のコンクリートペイント」と見出しを付けアピールした。なお,この塗料は「『コンクリート』用塗料」の名称で特許(特許第65116号,発明者は杉山保太郎,特許権者は東亜ペイント)を取得しており,塗料の特徴については,特許の資料から以下に抜粋する。
 
 
本發明ハ豫メ金屬ノ酸化物又ハ水酸化物ニテ處理セル硬質難鹸性ノ動植物質「ワツクス」ヲ主要成分トシ之ニ乾燥性油及溶劑ヲ添加シ之ヲ「エマルション」状態タラシメ得ヘクナセル「コンクリート」用塗料ニ係リ其目的トスル所ハ濕氣ヲ含キ易キ「コンクリート」面ニ容易ニ密着シテ「コンクリート」質等ヨリ分泌セラルル「アルカリー」ノ作用ニ耐ヘ且ツ防水性ニ富メル美麗ナル塗層ヲ形成セシムラニアリ
 
 
色合いについては「白,クリーム,淡鼠,バツフ,樺,錆,セメント,茶褐,濃鼠及び緑の十色,各艶有,艶消の二種ありますから,合計二十種」と『建築土木資料集覧』に記されている。ちなみに「バツフ」とは水牛の揉み皮である黄土色,「樺」とは山桜の樹皮である赤みのある橙色を指している。
 
このような特徴を有する「ストーンコート」は,昭和20年のアメリカ軍の空襲によって甚大な被害を受けたが,昭和25年に吉田五十八(よしだいそや)が改修設計を行った「第四期歌舞伎座」の外壁の仕上げに使われていたことが『東亜ペイント45年史』に紹介されている(写真- 4)。
 

【写真-4 昭和25年に竣工した「第四期歌舞伎座」(この建 物は「第五期歌舞伎座」建設に伴い平成22年に解体された) (田中撮影)】




 
この建物は日本の伝統的な木組みの形状をコンクリートで造っており,外壁だけではなく肘木から垂木に至る軒裏全体まで「ストーンコート」が用いられていた(写真- 5)。
 

【写真-5 肘木から屋根を支える垂木まで軒裏全体が塗装 仕上げであった(田中撮影)】




 
また,東京の湯島聖堂にある大成殿ではフタル酸樹脂エナメルを原料とした「グリプトン」が使われていた(写真- 6)。
 

【写真-6 昭和10年に竣工した湯島聖堂の大成殿(田中撮影)】




 
湯島聖堂は,徳川綱吉が開いた孔子廟で,漆塗りの木造建築が建っていたが関東大震災で被災した。そこで,伊東忠太が鉄筋コンクリート造で大成殿の設計を行いながらも,コンクリート面をかつての漆黒のイメージに近づけることが可能な「東亜ペイント」によって開発された新商品の「グリプトン」を採用した。『建築雑誌(第601号)』では「色モルタルの上黒色ヱナメルペイント塗仕上となし,只僅に繪様の渦若葉眉等に朱色の塗料を施したるのみなり」(写真- 7)と解説している。
 

【写真-7 漆黒の外観に木鼻と実肘木には朱色が入れられていた(田中撮影)】




 
塗装工事を請け負ったのは,当時の塗装専門業者の二大巨頭の一つであった中村塗装店である。塗装の工期は10カ月を要し,1日で30~40人近い職人が作業をこなし,年商30万円のうち,この現場だけで8万円もの売り上げがあったことを社史の中で回顧している。
 
 

クライン会社/アメリカ【ロングライフペイント】

「ロングライフペイント」はアメリカの「クライン会社」が製造したコンクリート用塗料で,日本では大正10年から「船越商会」が輸入代理店となって販売を行っていた。
 
『建築土木資料集覧』によれば,この塗料は「耐アルカリ性なるを以て,セメントの灰汁に對して普通ペイント又は類似品の如く強き日光又は雨水の爲犯され,變色し,膨れ上り又は剥落する事更になく,固着力最も強く,漸次硬化し殆んど永久的のものなり」と高い耐久性を特徴としていた。色合いは「凡て艶消にして普通で白の外十二の原色あり」と紹介され,各原色を調合することも可能であるとしている。
 
岡田信一郎が設計し,大正13年に竣工した「第三期歌舞伎座」の外観について『建築雑誌(第420号)』では「外部モルタル塗りの上,米國製『ロングライフペイント』二回塗り仕上,腰長押下人造石塗り,土臺石小御影石小叩き仕上」と,使用した塗料の商品名を挙げて解説している(図- 4)。
 

【図-4 「第三期歌舞伎座」の絵葉書(この建物が昭和20年 の空襲で被災したために,屋根形状を変更する修復が行わ れ「第四期歌舞伎座」が竣工した)(田中所蔵)】




 
また,伊東忠太によって設計された昭和2年竣工の大倉集古館は,実業家大倉喜八郎が収集した美術品を展示する美術館として開館した。『建築雑誌(第508号)』では,外壁の仕上げを「本館の腰約二十尺の高き迄は『六ヶ村石』風石張りとし,他は全部モルタル塗,ロングライフペイント仕上とす」と,ここでも塗料の商品名を挙げて解説している(写真- 8)。なお「ロングライフセメント」は,バルコニー(写真- 9)や昭和30年頃まで現存していた六角堂や車寄せでも使われていた。
 

【写真-8 昭和2年竣工の大倉集古館(藤木撮影)】

 


 

【写真-9 大倉集古館のバルコニー(田中撮影)】




 

フラー塗料社/アメリカ【コンクリータ】

アメリカの「フラー塗料社」は嘉永2年にアメリカのサンフランシスコで創立した老舗の塗料メーカーで,日本では「紀屋」が輸入代理店となっていた。
 
「コンクリータ」の特徴は「耐久性大なるスーパーワニスを主材とし着色に亦耐アルカリ性顔料を運用致しました結果變質,褪色の憂ひなく美装と防水の任を完うし」と『建築土木資料集覧』に記されている。また色合いは「白色,黒色の外十二色何れも温雅なる色調」とある。
 
このような特徴を有する「コンクリータ」が使われた建物には,東京市建築局営繕課の設計で昭和2年に竣工した浅草の仲見世(図- 5)が挙げられる。
 

【図-5 浅草の仲見世の絵葉書(田中所蔵)】




 
現在も多くの観光客でにぎわう浅草は,関東大震災で甚大な被害を受け,煉瓦造の仲見世も倒壊した。再建された仲見世は,鉄筋コンクリート造による建物が参道を挟み向かい合う形で13棟建てられており(写真- 10),外壁には「モルタル塗の上外部は米國製ペイント『コンクリータ』二回塗仕上とす」と『建築雑誌(第478号)』に記されている。
 

【写真-10 参道の両脇に並ぶ13棟の仲見世/手前は雷門 (田中撮影)】




 
限定的ではあるが,コンクリート用塗料の特徴を解説しながら,それらが使われていた建物を概観した。もちろん,長い年月の間に風化し汚れが付着することで塗り直しが行われており,当時の塗膜がそのまま維持されていることはなく,色合いについても竣工時と変わっているケースがある。
 
ただ,当初のコンクリート用塗料に求められていたのは,それぞれの特徴から,施主や設計者の要望に応えた多様な色合いと,細かな化学的な成分の違いがあったにせよ,コンクリートが持つアルカリに対して変化することなく,塗膜を保持させることであった。
 
 

国産VS アメリカ産のコンクリート用塗料

 
わが国では,コンクリート用塗料として大正11年に初めて製造された「東亜ペイント」の「ストーンコート」に続き,「日本ペイント」が同じ年に「コンクリント」を発売している。ほぼ同じ時期に発売されたコンクリート用塗料のうち,今となってはどちらの商品が優れていたのか当時の塗料を用いて比較検討することは困難である。ただ,大正12年の『建築雑誌(第445号)』に大島重義が「コンクリート用ペイントに就て」と題し,コメントを寄せている。「最近の塗料製造法の進歩によりまして漸く此加工法が成功しまして,我國でも東亞ペイント會社のコンクリート塗料『ストーンコート』と稱するものは此等の性質を持つたものでありまして,既に各所の大建築に塗つて實地に其の耐久力の優秀なことを示しております」と報告していることから,当時は「ストーンコート」に軍配が上がっていたといえる。
 
また,岩井勝次郎によって創立された「関西ペイント」は,大正13年に「コンクリートハイド」,昭和8年には「エンガ」を発売している。前者について『実用製造工業叢書』では,完全なコンクリート用塗料とは言い難いとしながらも「色合が自由に出來るし,且つ戸外に使用して耐久力もよいから塗料としての一般価値が高い」としている。そして,後者については,塩化ゴム塗料で耐薬品性が強大であることを利用したもので「蓋しセメントの上に耐え得る塗料は幾%のアルカリに耐えたら良いが問題であり,最悪を想像すれば,苛性曹達の飽和液に耐えることが必要にもなり,これに耐えるものとしてはエンガをのぞいては他に何があろうか」と『最新ペンキ塗と吹付法』の中で高い評価を得ている。さらに「エンガ」については他の書籍などでも絶賛されており,大正11年に日本でコンクリート用塗料の製造がはじまってから,その品質は,昭和8年の時点でかなり向上していたものといえる。
 
このように塗料の性能が高まると同時に生産量も増加していった。『日本近代建築塗装史』によれば,昭和元年の時点で日本の塗料の輸出量は輸入量を上回っており国内で流通していた塗料には余裕があった。それにもかかわらず,神宮外苑野球場をはじめ江東市場や神田市場に加え浅草の西徳寺などでは,アメリカ産のコンクリート用塗料を用いて施工されていたことが『建築土木資料集覧』を通して確認できた。アメリカの製品は日本のものに比べ早い時期から商品化されており,多くの研究開発が行われ優れた性能であったともいえるが,それ以上に施工面で優れていたことが,採用されていた理由であると考えられる。
 
「コンクリータ」の輸入代理店となっていた「紀屋」では「紀屋塗工部」と称する部署が設けられていた。そこには「フラー塗料社」の塗料を使い慣れた専属の塗装職人がおり,彼らはアメリカですでに普及していたスプレーを用いて建物へ塗装する施工方法も熟知していた。それにより,従来の刷毛仕上げよりも美しく仕上げられることはもちろん,作業時間を大幅に短縮させることが可能であった。
 
当時の国産とアメリカ産のコンクリート用塗料の性能を比較した際には,両者に大きな差がなかったと考えられるものの,それを用いた施工方法や施工体制には大きな開きがあり,塗料メーカーの代理店であった「紀屋」が導入していた塗装の専門部署は,効率を重視したアメリカ的な手法であったといえる。
 
アメリカの建設現場では,日本と比べものにならないほど早い時期から杭打機や掘削機をはじめ揚重機やコンクリートポンプなど大型の建設用機械が積極的に導入され,工期の短縮が図られていた。旧丸ビルの建設現場では,このような大型重機が用いられ,多くの人々が驚愕させられたことは広く知られているが,仕上げ工事の一つである塗装においても機械を導入し工期の短縮を図っていたアメリカの施工方法から日本の建築関係者は多くのことを学んだに違いない。
 
 

【参考文献】

● 石川純一郎他『建築學會パンフレット 第二輯第五號 コンクリート外壁の表面仕上』日本建築学会,1928 年
● 鏑木裕之『最新ペンキ塗と吹付法』大明社,1938年
● 関西ペイント株式会社編『実用製造工業叢書 第5』同発行,1933 年
● 創業120周年記念事業委員会『株式会社中村塗装店120年のあゆみ』中村塗装店,1990 年
● 田中正義『高等建築学 第3編 建築材料』常盤書房,1933 年
● 東亜ペイント株式会社『東亜ペイント45年史』同発行,1960 年
● 日本塗装工業会『日本近代建築塗装史』時事通信社,1999年
● 日本塗料工業史編纂会『日本塗料工業史』日本塗料工業会,1953 年
● 日本ペイント株式會社『日本ペイント株式會社四十年史』同発行,1941 年
 
 

田中和幸(たなか かずゆき)

1974 年東京都出身。東海大学大学院博士課程修了。博士(工学)。専攻は歴史的建造物の保存・修復,近代建築技術史。建設会社勤務を経て現在,田中建築研究所一級建築士事務所代表,NPO 法人おだわら名工舎監事,都立工業高校等で非常勤講師を勤める。近代の鉄筋コンクリート造建築における技術とその保存・修復に関する研究をはじめ,歴史的建造物の調査や改修ならびに木造建築における伝統技術を有する職人の育成にあたる。
 
 

田中建築研究所一級建築士事務所 代表         
地震減災実験研究部門 主任研究員 田中 和幸

 
 
 
【出典】


建築施工単価2017冬号




 

最終更新日:2019-12-18

 

同じカテゴリの新着記事

ピックアップ電子カタログ

最新の記事5件

カテゴリ一覧

話題の新商品