• 建設資材を探す
  • 電子カタログを探す
ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その19 台所流し材料の変遷-ステンレスに至るまでの道程

 
フランス第2の都市(※1)リヨンに現存する公的住宅団地を訪れたことがある。「工業都市」(※2)を提唱したことで知られる,近代を代表するフランス人建築家トニー・ガルニエ(Tony Garnier 1869─1948)が手掛けたレ・ゼタ・ジュニ(Les États-Unis)である。
 
 ※1 人口規模ではマルセイユが2 位である。
 ※2 1901〜1904年にかけてトニー・ガルニエが提案した「工業都市」計画案のことで,
   1917 年には『Une CiteIndustrielle』として出版された。
   吉田綱一『トニー・ガルニエ』SD 選書,鹿島出版会1993 年などに詳しい。
 
その時,運良く1930年頃の竣工とされる初期のアパルトマンの一室を見学することができた(写真- 1)。
 

【写真-1 レ・ゼタ・ジュニの台所(出典:Musée Urbain Tony Garnier)】




 
その住戸のなかで最も目を見張ったもののひとつが,台所の流し台であった。コンパクトにデザインされた台所空間の外壁に面するコーナーに造り付けの流し台が設えられていたのだが,その材料は人造石,いわゆる「人研ぎ」(人造石研ぎ出し仕上げ)と称されるものであった(残念ながら,写真撮影は許可されなかった)。わが国でも同時期的に流し台の材料として普及しつつあった人研ぎが1920年代終盤のリヨンのレ・ゼタ・ジュニにも用いられているとは,考えてみれば当然ともいえるが,それまでは想像もしていなかったのだ。人研ぎは,台所流しとして戦前期には既製品が流通し,また,例えば1924年に同じく公的住宅を供給する役割をもつ機関であった同潤会の分譲住宅における浴槽等にも用いられていたことが分かっている。戦後の共同住宅の流し台にも広く普及した材料であった。ガルニエのレ・ゼタ・ジュニと同時代のフランスでいえば,ル・コルビュジエ自身が暮らしたナンジェセール・エ・コリ通りのアパルトマン(1933年)の台所流しはステンレス製である(写真- 2)。
 

【写真-2 ナンジェセール・エ・コリ通りのアパルトマンの台所(撮影:須崎)】




 
ル・コルビュジエは,台所について次のように語っている。
 
“La cuisine n’est pas precisementle sanctuaire de la maison, maisc’est certainement l’un des lieuxles plus importants.”
(Complete works1929─34, p.29)
─ 台所は神殿とはいわないまでも,家の中で最も重要な場所のひとつだ。台所も居間も人が生活する場所であるから。─
 
建築の近代性を追求したコルビュジエが,住まいの台所も重視していたことが分かる言説である。その解答としてデザインされたキッチンは,人間ひとりがほとんど動かずに炊事を行えるような作業の合理性を追求したコンパクトなものである。中庭に面した開口部からは十分な採光が得られ,かつ機械換気が普及していないため,窓から換気も行えるようになっている。その手元にはステンレスシンクが光り,壁面には明るく清潔なイメージの白タイルが用いられている。
 
台所流しの材料は,住居衛生論の進展に伴って意識され,耐水材料の技術革新をその都度受容しながら,変化してきたといえる。今日,台所流しの材料といえば,ステンレスが最も一般化した材料であることは誰しも疑わない事実である。それは,藤森照信が著書『昭和住宅物語』(*1)で語っているように,公団住宅のDK(ダイニングキッチン)の流しに採用されたことで広く普及することとなった。本城和彦(ほんじょうまさひこ)や浜口ミホらがデザインを検討し,旧サンウエーブ工業の生産技術開発と相まって公団キッチンの標準設備として採用されたのを契機に,全国的に普及することとなったのである。
 
こうしたステンレス流しの普及の歴史については他稿に譲ることとして,ここではそこに至るまでの試行錯誤の道程について触れたい。
 
日本の伝統的住宅の台所では,膝(ひざ)をついて炊事を行う蹲踞(つくばい)式の作業姿勢がとられていた(特に東日本を中心に見られる)。そこで用いられた流しは基本的に木製であり(写真- 3),時々,民家の遺構などに石製の舟形ものが見られる。
 

【写真-3 伝統的民家の蹲踞式の流し(江戸東京たてもの園・綱島家の台所)(撮影:須崎)】




 
日本の台所はその後,立ったままの姿勢で作業する立働式へと改変され,流し台も脚付きの「立流し」が広まった。ここから台所は近代化の道を辿(たど)る。その道程で,台所流しのシンク(洗浄槽)としては,多種多様な材料による試行錯誤が重ねられた。まずは,その材料選択の多様性を,戦前から戦後1950年代までの特許・実用新案のデータをもとに紹介したい。
 
 

特許・実用新案のデザインにみる1950 年代までの流し材料

特許制度の最も古いものは,一般に,15世紀のベニス共和国(ヴェネツィア)に確認できるとされ,今日に至るような特許制度の方針が明文化されたのは1624年にイギリスで制定された「専売条例」が成文特許法で(*2),さらに本格的な制度となったのは1883年に制定された工業所有権の保護に関するパリ条約である。わが国では1885(明治18)年に専売特許条例(明治18年太政官布告第7号)が施行され,さらに1899(明治32)年には旧特許法(明治32年法律第36号)をもってパリ条約に加入した。
 
台所の流し台の特許・実用新案としては,最も早い時期のもので1906(明治39)年の申請が見られる(図- 1,2)。
 

【図-1 特許 第2542号「改良折畳浄槽」1906(明治39)年(出典:特許情報プラットフォーム)】

【図-2 特許 第2542号「改良折畳浄槽」1906(明治39)年2(出典:特許情報プラットフォーム)】




 
黒田約という人物による「改良折畳浄槽」(特許 第2542号,出願日 明治39年5月27日)という考案で,フォールディング(折り畳み)可能な脚のついたデザインの流し台である。特許内容の説明は次のとおりで,この文中に材料に関する表記が見られる(下線部)。
 
改良折畳浄槽
登録請求範囲 図面ニ示セル折畳的浄槽ノ台脚
 
図面ノ説明 第一図ハ浄槽板ノ平面図,第二図ハ浄槽板側面図,第三図ハ浄槽板台脚ノ側面図,第四図ハ同平面図,第五図ハ同横側面図(イ)ハ流口(ロ)ハ台脚ノ広狭ヲ一定セシムルト浄槽盤ノ安置トヲ兼ネシムルノ目的ニシテ鉄製ニテ取除ケラルヽ様ニ装置ス(ハ)ハ台脚ノ交叉鋲トス(ニ)ハ台脚ノ下部ヲ広カリ過キヌ様ニ鉄製ノ両端鍵形ニナシタル取除自由ノ止棒(ホ)ハ台脚ノ脚部トス(ヘ)ハ台脚下部ヲ左右ニ動カサシメサル為メノ横支線トス(ト)ハ台脚上部ノ浄槽盤受ケトス浄槽盤ハ亜鉛引鉄板ニテ作リ台脚ノ全部ハ凡テ鉄製トシ錆止メヲ施ス(ハ)ノ交叉鋲ニテ台脚ハ自由ニ折畳ムコトヲ得ルモノトス本器ノ実用ハ衛生上有益ニシテ自由ニ位置ヲ変シテ持運ヒノ便利ナルノ点ニ在リ(下線筆者)
 
すなわち,折り畳み式の脚部は鉄製で,錆止めを施し,シンク部分は亜鉛引き鉄板(=トタン鋼板)とすることが示されている。そして,このデザインの利点は「衛生上有益ニシテ自由ニ位置ヲ変シテ持運ヒノ便利ナルノ点」とあるが,このうち,衛生上の性能に対応するのが材料の耐水性にあたるものと思われる。なお,この時期までの流し台は,現在のシンクと違って深さが極めて浅いものが多いのもひとつの特徴である。
 
このように,明治期あるいは大正期に,流し台(特にシンク部分)の材料として具体的にどのようなものが考えられていたのかを知るための情報は一般的にかなり限られているのだが,上記のような特許資料を見ると,明治,大正,昭和期という流れのなかで,どのような材料が先端的に選択されていたのかが分かり,大変興味深いのである。
 
続いて,いくつか別の考案を見てみたい。
 
図- 3の案は特許第2965号「走リ」で,1906(明治39)年に登録された和田定七(大阪市)による考案である。
 

【図-3 特許 第2965号「走リ」1906(明治39)年(出典:特許情報プラットフォーム)】




 
この流し台は流し本体の下部に棚と「蠅入ラス(ママ)」という網戸を付した収納を設け,脇にもひとつ台を連結させたもので,このデザインでは,シンクの底部にわずかな勾配をつけて,全体を「金属製」とし,特に排水管と排水孔には「鉛」を用いると示されている。
 
図- 4は1910(明治43)年登録の実用新案第17710号「人造石走リ」,阪 安次郎(京都市)による案で,タイトルのとおり「人造石」を用いた流し台である。
 

【図-4 実用新案 第17710号「人造石走リ」1910(明治43)年(出典:特許情報プラットフォーム)】




 
人造石は,後で詳しく紹介するが,流し台のシンクの材料として昭和初期に広く普及する。それは前述のように,国外でもみられる動向のようである。国内の特許・実用新案の流し台として最初に人造石の使用が認められるのがこの案で,考案されたデザインは図中「第一図」,「第二図」のように人造石で制作したいくつかのパーツを組み合わせて流し台の全体(シンク,水溜,台,脚部)を形成するというものである。説明には「本案ノ要点ハ全体ヲ人造石ニテ作リ而シテ運搬等ニ便ナラシムルカ為メ各部ヲ分離スヘク別個ニ製スルモ之ヲ組合ハスニ(ほ)ト(ヘ)トヲ以テ堅牢ニ掛止メ震動等ノ為ニ狂ヒ等ヲ生スルコトナク永久ノ使用ニ耐ヘシムルモノナリ」とあり,運搬の容易さや耐久性が意図されていたことが読み取れる。
 
さて,このような特許・実用新案の流し台で採用された材料を見ていくと,亜鉛(トタン)張り,鋳鉄,ステンレスなどの金属系材料,人造石,コンクリートなどの石・セメント系材料,ゴム,ビニル樹脂,石綿,陶磁器,琺瑯(ほうろう)など,実に多種多様である。しかしながら,時代の流れのなかで,ある一定の傾向が読み取れる。すなわち,まず明治期から大正期・昭和初頭にかけては,亜鉛(トタン)張り,鉄などの金属系材料と人造石,コンクリートといった石・セメント系材料を中心として,石綿,ゴムなども含みつついろいろな材料によるデザインが試みられていたが,1932(昭和7)年以降から戦後すぐの時期にかけては金属材料を意識的に採用した考案が一切見られず,スレート,コンクリート,アスファルトに集中しているのである。そして,戦後1950(昭和25)年以降は金属系材料の採用が復活し,特に1960(昭和35)年以降はほぼ金属系材料に収斂(しゅうれん)している。そこではステンレス材の採用を明記した考案も多く見られ,ステンレス流しの量産化時代の到来を色濃く反映した様子が認められるのは,想像に難くない。
 
 

金属への着眼

18世紀の産業革命以降,鉄鋼等の工場生産が進み,金属材料を比較的容易に建築材料として用いることが可能となった。イギリスのキュー王立植物園のパームハウス(デシマス・バートン+リチャード・ターナー設計1844─1848年)やクリスタル・パレス(ジョーゼフ・パクストン設計1851年)などの嚆矢(こうし)で知られるこうした鉄鋼材料の普及は,日本国内でも開国と足並みを揃えて積極的に着目されるようになり,住まいのあらゆる部分にも波及したのである。生産性が向上し金属材料は徐々に安価となり,波は自(おの)ずと家庭生活の水準にまで及んだ。その最たる表徴のひとつが台所流しにおける金属系材料の採用ともいえる。
 
流し材料としての金属板への注目は,耐水性と耐久性(防腐)を主眼としていた。それは,明治期に日本国内で衛生問題への関心が急激に高まったことと大きな関係がある。幕末から明治初期,開国の影響によって日本国内でもコレラやチフスなどの急性伝染病が蔓延(まんえん)した。そのため,都市(公)と住まい(私)の両面から,住環境の衛生面の改善が急務となったのである。下水道の整備や病原菌の媒介となる鼠(ねずみ)・蠅(はえ)に対する措置がとられ,住宅内部は明るく,換気良く,掃除のしやすい空間が目指された。特に台所は,人間が直接口に入れる食糧を扱う場所であったことから,とりわけ衛生面に注意が払われた。水の処理は衛生的な環境を維持するために重要であり,流し材料は在来の木製のものが腐りやすかったことから,仕上げ材料として金属板を張るという工夫が広がりをみせることとなったと考えられる。
 
特許・実用新案のデザインに表れているように,亜鉛(トタン)張り,銅,鉄といったいろいろな金属板が試みられたが,このうち,昭和初期まで生き残ったのは亜鉛(トタン)張りである。亜鉛(トタン)張りの流し台は,さまざまな住まいの台所にみることができる。例えば,江戸東京たてもの園(東京 小金井公園内)に移築保存されている大川邸(1925年)や武居三省堂(たけいさんしょうどう)(文具店)(1927年),丸二商店(昭和初期),植村邸(1927年),村上精華堂(1928年),常盤台写真場(1937年・写真- 4)はいずれも亜鉛(トタン)張りの流し台を有する台所空間の遺構をとどめている。
 

【写真-4 常盤台写真場(1937年)(撮影:須崎他)】




 
これらの流し台は,基本的に,木製の躯体にトタンの板金を張り付けたものである。また,同潤会アパートでもトタンの流し台が採用されていた。例えば,同潤会代官山アパートメント(1927年,現在はUR都市機構 集合住宅歴史館に一部移築保存)の台所はセミオープン型の独立室であるが,コンパクトな台所空間内で壁面に沿って流し台,調理台,火器台がU 字を描くように配置されており(写真- 5),そこに設えられた流し台は亜鉛(トタン)張りである。
 

【写真-5 同潤会代官山アパートメント(1927年)の台所(撮影:須崎他)




 
トタンは比較的安価であったことと,加工のしやすさ(柔らかさ)を持ち合わせていたために,多くの流し台に採用されることとなったと考えられる。
 
こうした金属板の使用の試行錯誤を土台に,やがて,ステンレスが登場し,その立場は確固たるものとなっていくのである。ステンレスを使用した初期の遺構としては,W.M.ヴォーリズ設計による旧マッケンジー住宅(1940年,静岡市に現存)がある(写真- 6,7)。
 

【写真-6 旧マッケンジー住宅(1940年)の台所(撮影:須崎他)】

【写真-7 シンク詳細(撮影:須崎他)】




 
ヴォーリズは,建築の意匠性はもとより,住宅を設計する上で,台所における動線の合理化理論に基づいて設備配置を行う必要性を説くなど(*3),家事労働空間のデザインも重視した建築家であった(*4)。ヴォーリズが台所のデザインで先駆的にステンレスを採用したことは,国外の住宅デザインの事情に詳しかったというだけでなく,台所空間の衛生や作業の能率といった近代性への着眼があってこそと考えてもよいだろう。
 
 

石・セメント系の台頭

在来住宅の台所でも石製による流しが見られるが,基本的には木製であった。人造石やコンクリートがあらためて注目されたのは,前述のような衛生論の展開によって,流し台の性能に耐水性や耐久性が求められたためであったと考えられる。
 
特許・実用新案の考案で,1932(昭和7)年以降,これらの石・セメント系が主流になったことは,おそらくは昭和恐慌,戦時下の物資統制などと大きな関係があると思われる。金属材料に比べて重量が大きいため,運搬にあたっては不利であったが,逆に原材料は安価であり,施工の自由度も比較的高かったことが普及のひとつの要因となった可能性も考えられる。
 
人造石はセメントや砕石粒を混ぜて凝固させ,天然石に似せて造った模造石(*5)で,「テラゾ」とも称される。国内で刊行された文献では,古いものでW. Chambers編『百科全書 陶磁工篇』(文部省1883年)や中村達太郎編『建築学階梯 巻之上』(1888年)の「第四編 石材及石工職」に製造法などが記されており,明治後期から国内でも新しい材料として知られ始めたと考えられる。特に,この人造石を研磨仕上げによって研ぎ出したものが人造石研ぎ出し(*6),通称「人研ぎ」と呼ばれているものだが,これが流し台の材料として普及をみせる。
 
現存する遺構では,例えば堀口捨己(ほりぐちすてみ)設計の小出邸(1925年竣工,江戸東京たてもの園に移築され現存)に人研ぎ流しが残されている(写真- 8)。
 

【写真-8 小出邸(1925年)の台所(撮影:須崎他)】




 
小出邸はモダニズム運動を主導した堀口による,近代的なデザインの住宅であるが,台所はクローズド型の独立室として設計され,外気に面して流し台がI 型に配置されたデザインである。
 
このような人研ぎの流し台は大正期から昭和初期の台所に頻繁に用いられ,戦後も公団住宅にステンレス流しが採用されるまでの一時期は,人研ぎ流しが採用されていた。例えば,1957(昭和32)年竣工の蓮根団地(東京都板橋区,現在はUR都市機構の集合住宅歴史館に一部が移築保存)に,その姿を見ることができる(写真- 9)。
 

【写真-9 蓮根団地(1957年)のダイニングキッチン(撮影:須崎他)】




 
台所はDK(ダイニングキッチン)の形式で,壁面に沿って,流し台,コンロ台が一列に配置された空間構成である。
 
なお,大正期以降におけるコンクリートの採用は,建築材料として同素材への関心が高まった時期と重なる。特許・実用新案としては,人造石の採用が昭和初頭までに限られるのに対し,1932(昭和7)年から1940(昭和15)年頃にかけて継続的に採用されていることから,コンクリートという素材に対する建築界全体の着目が家庭内の流し台へも影響したひとつの表れかもしれない。
 
これらの石・セメント系材料による流し台は,耐久性,耐水性はもとより,施工,造形の自由度を有し,さらに安価であったことなど,流し台そのものの性能以外にも利点が多かったことが採用の要因となったのであろう。もちろん,金属材料の使用が物資統制によって制限されたことも大きく影響している。
 
しかしながら戦後,昭和25年頃を境に,考案されたデザインのほとんどは金属材料(特にステンレス)へと収束していくのである。
 
 

ステンレスへの道程

結局,石・セメント系材料は,台所流し材料の舞台から姿を消していった。その理由は,まず表面が硬質であるため,食器が割れやすいということと,流し台そのものも割れた場合に,その後修復しにくいという欠点があった。さらに,重さがあるため運搬に不便であることや,量産性の点からも不利な要素が多かったのである。それでも人造石は安価で造形の自由度があるため,例えば小学校などの手洗いの流しや,外構に設ける下流しとして,多くの流しに長い間用いられてきた。
 
一方,主権を得た金属系材料は,ステンレス流しへと収斂(しゅうれん)していく。ステンレス材は,戦前期から冶金(やきん)技術が進展し,強く(=耐久性)やわらかな(=加工性)耐久性と加工性の高いステンレス鋼が実現した。そうしたステンレス鋼は,必然的に流し台材料としても採用され,広く普及することとなる。そのきっかけとなったのが,公団住宅のために大量生産を可能にした,旧サンウエーブ工業が手掛けた技術革新である(*7)。それまでの流し台の金属板は,主にハンダ溶接であり,現場で加工が行われていた。これでは,何十万戸という大量の要求個数に対して,生産が追いつかず,また多くの労働力を要し,すなわち人件費も嵩かさむ。そのため,工場生産による大量供給を可能にする「深絞り加工」が開発された。同社による技術革新の詳細については割愛するが,こうした道程を経て,現在の台所流しが当然のごとく存在しているのである。
 
逆に,シンクの材料として用いられなくなった人造石は,流し台,作業台,コンロ台を一体的につなぐシステムキッチンのワークトップ(天板)として,今日の多くの住宅で採用されている。このように,時代によって活躍の場所を変えながら,それぞれの役割を展開している流し台の材料史は,ある意味,社会状況の反映をみるひとつの指標となるのかもしれない。
 
〈注〉
*1 藤森照信『昭和住宅物語』新建築社1990 年
*2 参考:特許庁ウェブサイト「産業財産権制度の歴史」
*3 W.M. ヴォーリズ『吾家の設備』福永重勝1924 年
*4 内田青蔵『日本の近代住宅』SD選書266鹿島出版会2016年
*5 日本建築学会編『建築学用語辞典』岩波書店1993 年
*6 現代では,「モルタルを下塗したのち,5mm以下の砕石を種石とし,セメント,顔料などを混ぜたモルタルを上塗りし,
  その硬化を見計らい表面を研磨する仕上げ。(=研出し,人研ぎ)」(上記『建築学用語辞典』)とされる。
  このうち,「大理石粒の大きな種石を用いたものはテラゾといって程度が良い」とされる
  (『建築大辞典 第2 版』彰国社1993 年)。
*7 内田青蔵・藤谷陽悦ほか「サンウェーブが開発した流し台(シンク)の技術的変遷(1)」
  国立科学博物館 日本の技術革新第2 回国際シンポジウム研究発表論文集2006 年
 
 

須崎 文代(すざき ふみよ)

1977 年千葉県生まれ。AUSMIP 国費留学(パリ・ラヴィレット建築大学,リスボン工科大学)。日本学術振興会特別研究員DC1,神奈川大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。日本生活学会博士論文賞。現在,神奈川大学工学部建築学科特別助教,日本常民文化研究所所員・同 非文字資料研究センター研究員。専門は近代住宅史,台所史,近代建築史。
 
著書に『住宅建築文献集成』(分担執筆,柏書房),『「近代日本生活文化基本文献集」解説』(分担執筆,日本図書センター),『用具選びからはじまる製図のキホン ―ル・コルビュジエに学ぶ建築表現』(分担執筆,柏書房)など。
 
 

神奈川大学 工学部 建築学科 特別助教
須崎 文代(すざき ふみよ)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2018冬号



 

最終更新日:2018-05-15

 

同じカテゴリの新着記事

ピックアップ電子カタログ

最新の記事5件

カテゴリ一覧

話題の新商品