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建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第45回 大阪,上町台地の物語−信長の執念と秀吉のインフラ−

 

大坂城と本願寺

52歳の時,旧建設省の近畿地方建設局(現在の国土交通省近畿地方整備局)へ転勤となった。初めての関西勤務であった。勤務地は上町台地の先端にあり,美しい大阪城が目の前にあった。
 
天気の良い昼休みには,大阪城公園に散歩に出かけた。ある日の散歩の途中で「本願寺跡」という案内板と出会った。これには驚いた。本願寺は京都の東本願寺と西本願寺だと思い込んでいたからだ。
 
調べてみると,確かに戦国時代,本願寺はこの上町台地の先端にあった。大阪育ちの人たちに聞いてみると,本願寺が上町台地にあったことは大抵知っていた。私は初めて知った。私だけではなく関西以外の人は本願寺が大坂城(大阪城)の場所にあったなど知っているだろうか。
 
織田信長と本願寺との激しい闘争は歴史で習う。その信長との戦いで本願寺の本拠地となったのがこの大坂城の跡地であった。
 
1570(元亀元)年から11年間,信長はこの上町台地の本願寺を攻め続けた。当時,最強の信長軍団が11年間も,本願寺の僧侶や信徒たちにてこずっていた。結局,信長は上町台地の本願寺を落とせず,朝廷の斡旋で和睦することとなった。
 
信長からの和睦の条件はただ一つ「本願寺はこの上町台地から出ること」であった。その条件に従って,本願寺は上町台地から撤退し京都に移った。本願寺戦争は終結した。
 
本願寺の本拠地がこの上町台地にあったこと。そして,あの信長がこの上町台地の本願寺に11年間もてこずったこと。この驚きが,私に地形と歴史を考えるきっかけを与えてくれた。
 
 

上町台地と湿地帯

21世紀の現在,上町台地は大阪市の中心部に位置している。台地周辺にはビル群がびっしりと連なっている。そのビル群のために上町台地の地形は,人々の目には映りにくい。
 
ある時,1枚の図面と出会った。(図−1)がそれである。わかりやすいように大坂城周辺を赤で記しているが,上町台地が見事に大阪平野の中へ突き出ている。
 

【図− 1 デジタル標高地形図(大阪)】(出典:国土地理院の資料を基に作成)




 
この図で,海面を5m上昇させてみれば,6,000年前の縄文海進の図となる。(図−2)は弥生時代の大阪の地形であるが,大阪平野は海の下となってしまい,上町台地だけがポツンと海の上に浮かぶ姿となる。
 

【図− 2 河内平野地形推定復元図(弥生時代中期ごろ)】(出典:「発掘速報展大阪 大河内展」(財)大阪府文化財調査研究センター)(引用:(社)日本河川協会発行,会報 河川文化 第45号)




 
この地形図が,信長と本願寺一党の戦いの本質を表していた。
 
上町台地は,地形上,難攻不落の土地であった。中世から近世にかけ,日本の沖積平野はどこも不毛の地であった。何しろかつて海だった低地に,河川の土砂が流れ込み堆積していた。大阪平野も同じであった。少しでも雨が降れば,北からは淀川が,南からは大和川が流れ込んできた。水は行き場を失いそこで溢(あふ)れ,一帯は水はけの悪い湿地帯となっていた。
 
信長は若いときから一貫して,湿地に囲まれた城を拠点にした。愛知県の津島で育ち,清洲で社会に出ていった。いずれも濃尾平野の下流部の湿地帯に位置していた。湿地に育った信長は,湿地の防御性と舟で素早く動ける機動性を熟知していた。実は,壮大な安土城も,琵琶湖周辺の湿地帯に囲まれた小山に建てられていた。
 
その湿地が大好きな信長の集大成が,大坂の上町台地であった。何しろ湿地では,大勢の兵隊を乗せた大船は動けない。小舟で近寄ってくる兵隊も,上陸する際には沼地に足をとられて身動きできない。そうなれば,台地の上から矢を射ぬかれ放題となってしまう。
 
この上町台地に攻め入るには,台地の南の天王寺口しかない。防御する側は,その尾根の入り口をしっかり固めさえすればよかった。戦闘の専門家の信長軍が,戦争の素人の本願寺一党に11年間もてこずったのは,この上町台地の地形にてこずったのだ。
 
 

天下統一の大坂城

本願寺との和睦が成り,上町台地を自分のものにした直後,信長は本能寺で急逝してしまった。そのため,信長の上町台地の狙いと執着を,直接証明することはできない。しかし,この信長の上町台地への狙いは,豊臣秀吉の行動が証明している。
 
秀吉は,天王山の戦(山崎の戦)で明智光秀を破った直後に,大坂城の建設に着手している。信長の側近だった秀吉は,信長の案を自分のものにした。
 
上町台地の大坂城は天下統一の城,ということを秀吉は知っていた。
 
上町台地の北を流れる淀川を遡(さかのぼ)れば,簡単に朝廷の京都を抑えられる。上町台地の西には瀬戸内海が続き,中国,四国そして九州までの西日本の戦国大名を睨みつける場所でもあった。
 
この地の利の良さに加え,湿地に囲まれた上町台地は難攻不落の地形だったのだ。
 
しかし,難攻不落の城はある弱みを持っている。それは「水」である。飲み水だけではない。汚水の排水も問題となる。
 
 

上町台地の地下水

難攻不落といわれる城は,必ず何百,何千という将兵たちが長期間立て籠(こも)ることとなる。その立て籠りで問題となるのは飲み水である。米は何年間も保管できる。しかし,水は何年分も保管はできない。飲み水がなくなれば1週間で城は落ちる。
 
大坂城は上町台地の先端にある。山から流れ出てくる川や沢はない。台地の周辺には水が見えるが,その水は大坂湾から逆流してくる塩水だ。飲める水ではない。
 
本願寺は信長に対して11年間も上町台地で立て籠った。いったいその時の飲み水はどうしたのか?
 
2016年の春,関西の水道技術者のOB会に呼ばれた。水に関する講演を依頼された。会場は上町台地にある(公社)日本水道協会関西支部の会館であった。講演で上町台地の地形と難攻不落の大阪城の理由を話した。講演の後,質疑の時間で,ある会員からこの会館建設時のエピソードが語られた。
 
関西支部会館の建設時,地下を掘削してビルの基礎工事をしていた。土台の掘削工事の翌日の朝,現場に行ったら地下が水でいっぱいになっていたので驚いた,というエピソードであった。その写真を送ってもらったのが(写真− 1)である。明らかに上町台地は地下水が豊富なのだ。
 

【写真− 1 上町台地 水道協会関西支部ビル建設現場。地下水の豊富な様子がわかる(2009 年3 月撮影)】




 
上町台地の南の四天王寺方面から,北の台地に向かって地下水流が流れている証拠であった。この地下水さえあれば飲み水に苦労することはない。城の中で井戸を掘れば,籠城した兵士たちの飲み水は地下水によって十分確保される。
 
本願寺の宗徒は,11年間も上町台地に立て籠って信長と戦った。その本願寺宗徒を支えたのが,上町台地の地下水であった。
 
湿地に囲まれて,地下水が豊富という自然条件に恵まれた上町台地の大坂城を,さらにインフラで強固にしたのが豊臣秀吉であった。
 
 

上町台地の太閤下水

戦国時代,長期の籠城戦で困るのが水であるが,飲み水以外にもう一つ困る水がある。汚水の排水である。生きている人間は必ず排泄する。一カ所の囲われた場所で多くの人間が生活するには,排泄物をスムーズに処理しなければならない。
 
ポンプのない時代,排泄物の処理は,ともかくスムーズに流し去ることであった。この上町台地ではこの排泄が実にスムーズに行われた。何しろ南北に長く伸びる狭い台地である。排水路を東西に向ければ自然と排泄物は台地の下へ流下していった。
 
豊臣秀吉は1583年から大坂城建設を開始した。それと同時に大坂の都市づくりにも着手した。
 
秀吉による大坂のまちづくりの特長は,下水道システムであった。秀吉は自然の地形を利用して,排泄物をスムーズに流下させていく下水道網を建設した。「太閤下水(たいこうげすい)」と呼ばれる日本最初の本格的な下水道システムであった。
 
その太閤下水は上町台地の地形の理にかなっていた。そのため,400年経った21世紀の現在も,大阪市はこの太閤下水を現役として使用している(写真−2)。
 

【写真− 2 太閤(背割)下水が表紙の大阪市建設局パンフレット】(出典:ウィキペディア)




 
(図−3)は,大坂のまちの配置図である。
 

【図− 3 大阪の町の配置図】 (出典:ウィキペディア)




 
平面図では分かりにくいが,下水路は全て西の海と東の河内湾の湿地帯に向かっていた。その下水路の排泄物のバクテリアはプランクトンを繁殖させた。プランクトンは小魚を育んだ。小魚は大きな魚や鳥を呼び込んだ。
 
地形を利用した太閤下水によって,上町台地の周囲一帯で広大な食物連鎖が形成された。この大坂湾や河内湾の湿地は,大坂の人々に海や川の幸を豊富に提供することとなった。
 
幕府が江戸に移ってからも,豊かな海産物に恵まれた大坂は,食道楽の大坂として独特の文化を生みだし繁栄したのだ。
 
信長は,湿地に囲まれた難攻不落の上町台地を獲得した。
 
秀吉は,その上町台地の地形を利用して大坂のまちのインフラを整備した。家康は,信長と秀吉の二人が創り上げた大坂城を陥落させ,自分のモノとした。
 
大坂城は,信長と秀吉と家康が,天下覇権をかけて戦った戦国100年を象徴する城であった。
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

非営利特定法人日本水フォーラム代表理事・事務局長,首都大学東京客員教授,東北大学客員教授 博士(工学)。神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒,1970年修士修了後,建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長,中部地方建設局河川部長,近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後,04年より現職。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年),「土地の文明」(PHP研究所2005年),「幸運な文明」(PHP研究所2007年),「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著),「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年),「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム         
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎

 
 
 
【出典】


積算資料2017年10月号



 

 

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