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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー 第73回 沖積平野の人類物語(その3)─6000年前、ナイル川との闘い─

日本人は河川が運ぶ土砂で沖積平野を形成していった。九州の筑後川下流部の祖先たちは、他に類を見ない奇妙な方法で筑後平野という大地を創っていった。有明海の潟を澱ませる「からみ工法」という手法であった。
 
実はこの手法を使って文明を生み出していった人類がいた。古代エジプト人であった。人類最大の沖積平野の創造が5000 年前のエジプトのナイル川で営まれていた。
 
 

ナイルデルタの形成

ピラミッドといえばカイロ市郊外のギザ台地の3基の巨大ピラミッドを思いだす。
しかし、それは、ピラミッド群の主たるものではない。
 
ピラミッド群の主たるものは、発見されただけでも80基以上となり、いまだ発見されていないものを含めると100基に及ぶ。
そして、その約100基のピラミッド群は、全てナイル川の西岸に位置している。
 
この配列にこだわった視覚デザイン学の高津道昭筑波大学名誉教授は「ピラミッドはテトラポット」であったと推理し、1992年に『ピラミッドはなぜつくられたか』(新潮選書)を出版した。
 
この説は、視覚デザインという思いもかけない観点からの展開であった。
ただし、高津教授は土木の専門家ではないため、テトラポットや霞堤という用語で説明しているが土木工学的には不明確な説明になっている。
 
私は高津教授の説に賛同し、河川の専門家としてこの説を補強し、完成させていく。
 
つまり、「砂漠のピラミッド群は『からみ』であった」
 
 

ナイル川西岸の謎

(図- 1)はナイル川西岸のピラミッド群の分布である。
このナイル川西岸だけに配置されたのは偶然ではない。
それはナイル川西岸が、ピラミッド群を必要とした。
 
ナイル川の右岸つまり東岸には、山岳地形が連続している。
そのためナイル川東岸の流路は安定している。
一方、ナイル川西岸には、アフリカのリビヤ砂漠が広がっている。(図-2)がナイル川周辺の地形図である。
 
地形的にナイル川はリビヤ砂漠に向かって西へ西へと逃げていくことになる。
リビヤ砂漠に流れ込めば、ナイル川は砂の中に消えてしまう。
 
ナイル川はエジプト人に、水と土砂を運んでくれた。
特に、ナイル河口デルタの干拓には、どうしても土砂が必要であった。
 
そのため、ナイル川が河口の地中海まで到達するよう、西岸の流路を安定させる堤防が必要となった。
しかし、目もくらむような長い西岸に堤防など築けない。
 
そこで、古代エジプト人たちは、巨大な「からみ」を建設することとした。
 

【図- 1 ナイル西岸のピラミッド群】出典:高津道昭著「ピラミッドはなぜつくられたか」
【図- 1 ナイル西岸のピラミッド群】
出典:高津道昭著「ピラミッドはなぜつくられたか」
【図- 2 エジプトの地形】出典:南風博物館
【図- 2 エジプトの地形】出典:南風博物館

 
 

ナイル西岸の「からみ」ピラミッド群

巨大な「からみ」とは100基に及ぶピラミッド群であった。
ピラミッドを適当な間隔で建設する。
毎年、ナイル川の洪水は、上流から土砂を運んでくる洪水の流れはピラミッド周辺で澱む。
澱みにより流速が低下すればナイル川の土砂は沈降し、ピラミッド周辺に堆積していった。
 
(図-3)で、ピラミッド周辺で土砂が堆積する様子を示した。
 
何十年間、何百年間で、ピラミッド群周辺に砂が堆積し、砂のマウンドは隣と繋がり、連続した盛土となった。後年、発掘された多くのピラミッド群は全て砂に埋もれていた理由はこのためである。
 
古代エジプト人は、ナイル川西岸のピラミッドの「からみ」で堤防を創出した。
これによりナイル川は、地中海まで水と土砂を到達させ世界最大の干拓地が形成された。
 
そのデルタ干拓でエジプト文明が誕生していった。
 
ナイル川西岸の約100基のピラミッド群の目的は説明できた。しかし、やっかいな謎が残った。
 
それは、カイロ市郊外のギザ台地に建つ3基の巨大ピラミッドの存在である。
 
ピラミッド群がナイル川の堤防なら、河口のギザ台地の3基のピラミッドは不必要である。
 
あのギザ台地のピラミッドの目的は何か?「ナイル川の堤防」では説明できない。
 

【図- 3 ピラミッド群のナイル川堤防】
【図- 3 ピラミッド群のナイル川堤防】

 
 

ギザのピラミッドの謎

ピラミッド群建設の頂点と言われているのが、河口のギザ台地の3基の巨大ピラミッドである。
 
紀元前2520年頃(約4500年前)から建設されたこの3基のピラミッドは、南北方向に配置されている。
北から146mのクフ王のピラミッド、中央が高さ136mのカフラーのピラミッド、一番南が高さ70mのメンカフラーのピラミッドである。中央のカフラーのピラミッドは、高い場所に造られているので一番高く抜きんでている。
 
さらに、ピラミッドの表面は大理石で張られていた。
大理石は盗掘にあって一部を除いて大部分は失われてしまった。
(写真-1)は、大理石が張られた空港の床で、鏡のように反射し光っている。
 
ピラミッド群の目的がナイル川の堤防なら、ギザ台地のピラミッドは謎だらけとなる。
 
これらの謎の答えが、ギザのピラミッドで仲間と一緒に撮った(写真-2)だった。
写真の3基のピラミッドの面は、太陽に反射してそれぞれ異なった光と陰を作っている。
 
これがギザにピラミッドを造った目的であった。
 

【写真- 1 カイロ空港の大理石の床 筆者撮影】
【写真- 1 カイロ空港の大理石の床 筆者撮影】
【写真- 2 ギザ台地のピラミッド】
【写真- 2 ギザ台地のピラミッド】

 
 

ナイル河口の干潟の登場

ギザから下流には広大な三角州、いわゆるデルタが広がっている。
エジプトの農業の中心地はこのナイルデルタである。
 
このデルタは、何時ごろ形成されたのか?その答えは明らかである。
6000年前の紀元前4000年以降である。
 
紀元前4000年つまり6000年前、地球は温暖で、海面は約5m高かった。世界各地の沖積平野は、海面下にありいまだ姿を現していなかった。
もちろん、ナイルデルタも海面下にあった。(写真-3)
で、現在のナイル河口のデルタと、約6000年前のデルタが海面下だった状態を示した。
 
地球の気温は、6000年前をピークに低下し、海面は次第に降下していった。
いわゆる海の後退である。これにより、世界中の河川の河口で、干潟が姿を現していった。
 
ナイル川河口でも巨大な干潟が姿を現し始めた。
 
古代エジプト人たちは、この干潟に目を奪われた。
荒涼とした砂漠を見慣れていた彼らにとって、干潟は潤いに満ちた天国であった。
 
この広大な干潟を自分たちのものにしたい。この干潟を干拓して農作物を得て豊かになる。
彼らはこのデルタ干潟を干拓する決意を固めた。
 

【写真- 3 6000 年前のナイルデルタは海面下(5m 上昇)】
【写真- 3 6000 年前のナイルデルタは海面下(5m 上昇)】

1993 年7月1 日 スペース・シャトル「エンデヴァー」より撮影した写真を加工(竹村・山田)
作図:財団法人リバーフロント整備センター 竹村・後藤
 
 

壮大なデルタのランドマーク

世界各地の干潟で干拓が行われたが、このナイルデルタは際立ってスケールが大きかった。
 
ギザからデルタ先端の海岸線まで、直線距離で200km以上に及ぶ。
面積は4~5万km2で、九州全体に匹敵する。これほど大規模な干拓は世界広しといえども他にない。
 
さらに、このデルタには葦が一面に茂っていた。
古代エジプト人は、この葦が茂るデルタを「大いなる緑」と呼んでいた。
彼らはこの広大な葦に囲まれた干潟で、干拓作業を行っていった。
 
デルタでは、水が流れてくる方向が上流とは限らない。
葦に囲まれたデルタでは方向感覚が失われる。
この葦の広大なデルタでの作業には、絶対に必要なものがあった。
それは、方向を見失わない「灯台」であった。
 
ナイル川西岸のピラミッド群の建設が始まって100年が経過したころ、クフ王はギザの高台でピラミッドの建設を開始した。
(図-4)で、エジプト文明の年代とピラミッド建設・ナイル干潟の関係を示した。
 
灯台は、遠くから見通せなければならない。そのため、ギザの高台にピラミッドが建設された。
 
さらに、そのピラミッドは可能な限り高くした。
しかし、何故、ギザのピラミッドは3基も必要だったのか?1基で十分だったのではないか?
 

【図- 4 海面変化とピラミッド建設 作図:竹村】
【図- 4 海面変化とピラミッド建設 作図:竹村】

 
 

3基のピラミッド

(写真-2)にその現象が映っていた。
写真の3基のピラミッドの面は、それぞれ異なった光と影を見せている。
ピラミッド1基だと、太陽の位置と見る方向によってピラミッドの面が影になる時間帯がある。
それでは灯台の役目を果たさない。
 
ピラミッドが3基あれば、どこかの面が太陽の光を受ける。
ピカピカの大理石は、鏡のように光を反射させて隣のピラミッドを照らす。
3基のピラミッドの光の反射の組み合わせは、複雑なダイヤモンドの光であった。
 
キラキラ光るダイヤモンドは、何時でも、何処からでも見ることができた。
その光は、厳しい干拓に従事する古代エジプト人たちを勇気づけた。
だから、ギザ台地の3基のピラミッドは、

  • 河口に近い高台の上になければならなかった
  • 可能な限り高くしなければならなかった
  • 光の反射のために正確な正四角錐でなければならなかった
  • 光を反射させるため鏡のような大理石を張る必要があった

ナイル川西岸の100基のピラミッド群は、ナイル川の堤防を形成した。
 
ギザ台地の3基の巨大ピラミッドは、デルタ干拓の灯台であった。
 
ピラミッドはエジプト文明誕生と発展のために、絶対に必要なインフラ・ストラクチャーであった。
 
人類最初の沖積平野との闘いはナイル川で行われた。古代エジプト人は見事に沖積平野を豊かな大地に変えた。
 
その4000年後、ユーラシア大陸の東の海に浮かぶ日本列島で、徳川家康が関東の干潟デルタとの闘いを開始した。そして、その沖積平野との闘いは、日本列島各地へと展開されていった。

 
 

竹村公太郎(たけむらこうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長、博士(工学)。神奈川県出身。1945年生まれ。東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後、04年より現職。土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)「、本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)、
「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO法人)         
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

 
 
【出典】


積算資料2023年6月号

積算資料2023年6月号

最終更新日:2024-03-25

 

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