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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 通潤橋(つうじゅんきょう)170 年 ─生命と大地を潤す虹の架け橋─

はじめに

通潤橋は、九州島のほぼ中央部に位置する熊本県上益城郡山都町にあります。
我が国最大級の石造アーチ橋であり、小学4年の教科書でも取り上げられ、県内から多くの子ども達が社会科見学に訪れます。
この橋が完成したのは、江戸時代末期にあたる1854 年(嘉永7)であり、2023 年には約 170 年を迎えます。
 
 

通潤橋が建設された経緯

通潤橋の南側には、四方を河川に囲まれた南北約4.7km、東西約2.6km の白糸台地が広がります。
江戸時代末期には、河川との比高差が著しいことから水を引き上げることができず、かつ独立した水系が存在しないため、湧水に依存した水田経営を強いられ、新規の大規模開発も困難な状況にありました。
こうした状況を打開するために建設されたのが、延長約17kmに及ぶ農業用水路「通潤用水」(2014 年(平成26)世界かんがい施設遺産に登録)です。
この農業用水路を架け渡すために造られたのが通潤橋であり、通潤用水を構成する施設の一つに位置付けられます。

【山都町の位置】
【山都町の位置】

 
 

概要

通潤橋は、橋長約78.0m(下流側の橋長)、橋高約21.3m(上流側石垣基部の下端から石垣の上端まで)、幅は中央部で約6.6m を測ります。
スパン(径間。アーチの延長)は約26.5m、ライズ(拱矢。スパンの支点からアーチ中央部内側までの高さ)約9.2mとなっています。
橋本体は、アーチ部と反りの付いた勾配を有する高石垣、通称「鞘石垣(さやいしがき)」で構成され、橋上に水を通す石管を3 列載せます。
特に、アーチの下部は城郭の石垣と同様の石積であり、アーチ基部を覆っているため、本来のスパンの数値は不明ですが、史料上においては、約28.1m(15 間3 尺)とされています。
水は、左岸側に設けられた取入口(吸水槽)から取り込まれ、橋上の通水石管、吹上口(吐水槽)を経て通潤用水上井手(うわいで)に入ります。
取入口と吹上口の比高差は約2.2mで、この差を利用して白糸台地に水が吹き上がる構造となっており、一般的にいわれる「サイホン」で、建設当時は「吹上樋(ふきあげどい)」と呼ばれていました。

【通潤橋上流側の規模】
【通潤橋上流側の規模】

 
 

吹上樋と鞘石垣

通潤橋には、いかなる時も命の水を白糸台地へ送る吹上樋を、沈下や最大の不安要素である地震
から守るため、鞘石垣をはじめ多くの技術と工夫が詰め込まれています。
 
「吹上樋」は、農業土木用語でいうサイホンであり、土中に埋設する管路の事例は存在しますが、橋上に敷設される事例は、近世(江戸時代)には通潤橋以外存在せず、極めて独創的な構造となっています。
通潤橋の吹上樋は、凝灰岩製の石管を連結させた形態を採っており、1 列あたり 220 ~ 230 個程度で構成されています。
各石管は、およそ3 尺角(約0.9m)の方形で、中央の1 尺部分を刳り抜き、四方に二重の溝を施して、漆喰を充填させる仕組みになっています。
石管の大部分は、オリジナルの部材で、漆喰の交 換も受益者の方々が手作業で行っており、今日も通水機能が維持されています。
3 列の石管列の中央には、丸太状の木栓で閉める放水口が1 列ごとに設けられており、管内が満水の状態の時に開栓することで、「通潤橋の放水」が行われます。
放水は、本来吹上樋の内部に堆積した土砂を噴き出す水で排出する目的で行われていましたが、今日では熊本県を代表する風景の一つとなっており、訪れる多くの方々を魅了しています。
建設当時の史料群が豊富に残されていることも、通潤橋の大きな特徴の一つです。
それら史料から、吹上樋の規格検討、試験の過程も明らかとなっており、その点においても稀有な存在です。
「通潤橋仕法書(つうじゅんきょうしほうしょ)」という史料によれば、1851 年(嘉永4) 10 月から翌1852 年(嘉永5)3 月までの間、当初計画における原寸の延長と比高差を有する樋を用いた試験を少なくとも4 回実施しており、水圧に耐えうる材質、規格、継目に充填する目地材を変更していく過程が明らかとなっています。

【橋上の吹上樋】(平成29年度 保存修理工事(災害復旧)時に撮影)
【橋上の吹上樋】
(平成29年度 保存修理工事(災害復旧)時に撮影)
【吹上樋を構成する通水石管】二重目地のうち内側に漆喰が残る。中央部は通水孔。(令和元年保存修理工事時に撮影)
【吹上樋を構成する通水石管】
二重目地のうち内側に漆喰が残る。中央部は通水孔。
(令和元年保存修理工事時に撮影)

 
もう一つの特徴である「鞘石垣」は、当時最大級の高さである石造アーチ橋に、相当の重量が想定される吹上樋を橋上に設置するために導入された、反りの付く勾配を有する高石垣を指しています。
これらは、熊本城内にある矢倉台に準じた勾配とされ、かつそれを計算で割り出し再現していることが、当時の史料で確認できます。
本来は、 17 世紀以降の近世城郭の石垣稜線にみられるもので、当時の支配権力に属した石積技能者である穴太(あのう)に伝わる技術です。
これらは、戦国、安土桃山時代を経て江戸時代初期まで、各地で城郭が築城される過程で発展した日本独自の技術であり、中国から伝わったとされるアーチと融合した土木構造物が通潤橋といえます。
それまでの石造アーチ橋には、河川が増水した際など、強い水流からアーチをはじめ橋体を保護するほか、垂直に積み上げられた石垣を支持するため、「袖石垣」や「添石垣」と呼ばれる構造物が橋体に沿って築かれる事例がありました。
我が国で最大の径間を有する霊台橋(熊本県上益城郡美里町所在。
径間約28.24m)には、大規模な袖石垣が橋体に付随していますが、通潤橋の鞘石垣は、本来城郭石垣の技術であり、これらとは一線を画するものです。
構造的見地からも、鞘石垣の地震に対する有効性が認められています。
また、外観も鞘石垣を導入したことにより、他の石造アーチ橋よりも洗練されたものとなっています。

【通潤橋建設に係る技術資料「通潤橋仕法書」】「鞘石垣」の勾配に関する挿絵
【通潤橋建設に係る技術資料「通潤橋仕法書」】
「鞘石垣」の勾配に関する挿絵
【通潤橋右岸側にみる鞘石垣】
【通潤橋右岸側にみる鞘石垣】

 
 

地域社会が主体となって造った

先に紹介した技術が導入されている通潤橋は、幕府や大名などの支配層が造ったものではありません。
江戸時代は、全国的に河川改修や新田開発が飛躍的に進展した時代でした。
広域的な大規模開発は、幕府や大名などが大きく関与しますが、江戸時代後期には地域開発の担い手は民衆層に移っていきます。
通潤橋を建造した主体も、郡の下部に位置付けられる「手永(てなが)」と呼ばれる行政機構であり、百姓身分の民衆が役人として地域運営を行っていました。
通潤橋・通潤用水建設事業の責任者と知られる布田保之助は、手永の代表である惣庄屋の地位にあった人物です。
手永の業務は多岐にわたり、現在の自治体が行う公共的な業務を担っており、道路や水路整備などの水利土木事業も多数展開しています。
通潤橋の建設も同様であり、事業計画、資金調達、技術検討など、非常に高レベルの大規模事業が、民衆の手で推進され実現されています。
近代国家に移っていく直前の幕末という特異な時代に、民衆社会の到達点を示す象徴的な事例として、歴史上において通潤橋は非常に重要な建造物といえます。

【通潤橋の外観】左下は取入口,右上に吹上口(白糸台地)がみえる。比高差は約2.2m。
【通潤橋の外観】
左下は取入口,右上に吹上口(白糸台地)がみえる。比高差は約2.2m。

 
 

現代における通潤橋の役割

通潤橋は、本年秋頃国宝に指定される見通しですが、今もなお機能は維持されています。
その存在は、現代においても、農業、観光、教育、そして誇りとして、より重い意味を帯びたものとなっています。
特に、通潤橋の恩恵を受けてきた地域の方々の思いは、特別なものです。
通潤橋を語るとき、受益者の方々は自らのこととしてお話しをされます。
その言葉は、心の中に言い表すことのできない何かとして深く刻まれるものです。
その思いを引き継ぎ、決して楽ではない維持管理を続け、現代まで守ってこられた方々の思いと共に、通潤橋が未来に続いていくことを願っています。
 
 
参考文献
山都町教育委員会編 2023『重要文化財通潤橋総合調査報告書』山都町文化財調査報告書 第6集
 
 
 

山都町教育委員会 主任学芸員 
西 慶喜(にし よしのぶ)

 
 
【出典】


積算資料2023年8月号

最終更新日:2023-10-30

 

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