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ホーム > 建設情報クリップ > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その22 天然石模造の人造石

 

近代の建築と石材

近代の建築は,その建材を人工的あるいは工業的に,しかも大量につくり出すことで発展してきた。製造された鉄,ガラス,コンクリート,タイル,その他ボード類といった建材は,基本的には平滑で人工的な素材感を持ち,近代性を表現する役割を担った。モルタルやペンキの仕上げもその意味で近代的な表現といえる。
 
これらと対照的な素材感を持つのが,石材であろう。重厚であることと,自然にできた組成の風合いが建材としての価値を高める。伝統的あるいは歴史主義的な西洋建築を象徴する材料でもある。当然ながら,従来のイメージを纏まとったそうした洋風建築は,産業革命より後も大量につくられ続けたが,その結果,石材の需要も増していった。さらに,モダンなデザインが採用される建築においても石材が使われなくなったわけではない。装飾が忌避された分,むしろ素材による高級感が重視されるという側面すらあった。石工の家に生まれたミース・ファン・デル・ローエが,石の素材感を精緻に用いて作品の質を高めた例などが典型である(写真-1)。
 

【写真-1 バルセロナ・パビリオン(撮影:安野)】




 
石材の難点は,その価格の高さにある。山あいの産地で切り出して加工し,さらに現場まで運ばなければならない。重さや材質の違いも手伝ってほかの材料に比べて手間がかかるため,供給力が需要を満たさない状況がおこりやすい。そこで,需要に応じようと,天然素材の石であっても人工的につくり出すことが試みられるようになった。特に工業的に生産できる安価な石材が,現場や施主から求められたであろうことは容易に想像がつく。
 
天然石の代わりに人工的につくり出した石材は,人造石と呼ばれる。広義にとれば,近代建築史の主役である鉄筋コンクリートも含まれるだろうが,それは既にこのシリーズで紹介されているため,本稿では,似て非なるものに触れておきたい。
 
一つは,日本人が発明したとされる人造石で,鉄筋コンクリートが大正以降に普及する以前,明治期に主に土木の分野で用いられていた。もう一つは,天然石の素材感を模すことで,主に内外装に用いられるもので,大正から昭和初期に普及していった建材である(写真-2)。テラゾと呼ばれる人造大理石などが代表例である。
 

【写真-2 博報堂ビル(昭和5年)外装の人造石(撮影:安野)】




 

たたきを応用した人造石

明治初期,服部長七(はっとりちょうしち)により考案された人造石は,伝統的に用いられていた「たたき」を応用したものであった。長七は,天保11(1840)年,三河国碧海郡北大浜村(現在の愛知県碧南市)に生まれる。父は左官職で,自らも同業の職人となり,左官業を営んだ。その後,醸造のほか,酢や饅頭の製造を手がけて財を成し,維新後の明治6(1873)年に上京して日本橋で饅頭屋を開く。翌年には饅頭屋をやめて「たたき」を生業とするが,このきっかけには,日本橋でのたたき工事があったという。彼の故郷である三河産の真砂土で試したところ,堅牢(けんろう)かつ安価にできたことに可能性を見いだし,これが転機になったとされる。たたきは,石灰と種土(真砂土・花崗岩などの風化した土)を混ぜ合わせて固めることでつくられるが,伝統的に土間や竃(かまど)のほか,井戸,壁,塀,水路などに用いられてきた。
 
長七は,その後,配合などの変更で,より水に強く硬いものへと改良し,その技術を土木工事に応用していくことになる。具体的には,切石を積む際の裏込めに使ったり,さらに割石と混合させたり,ブロック状のものを積むなどして用いられたという。
 
まず,故郷の三河で明治11(1878)年に橋の架け替えを行い,翌年に東京麹町での水道工事などを経て,明治15(1882)年には,再び三河で新田開発に携わり,堤防の築造を成功させている。その後も愛知県周辺を中心に,築港や干拓において堤防や堰などの工事に貢献した。
 
その活動は,佐賀,愛媛,広島,岡山,東京,神奈川,新潟などの各地で展開され,彼が手がけた工事は,少なくとも30件以上に及ぶ。具体的な施工例としては,明治18~22年にかけて工事が行われた広島の宇品(うじな)港,明治23(1890)年の佐渡の相川港のほか,四日市の潮吹き堤防(明治27年),愛知の神野新田(じんのしんでん)干拓(図-1,明治26~28年),名古屋港(明治31~35年)などが挙げられる。技術は明治20,30年代を通じて発達し,その後は工業的に生産されたセメントを用いる近代的コンクリートの普及によって役割を終えることになる。
 

【図-1 神野新田の人造石樋門(出典:神野金之助編『神野新田紀事』神野金之助1904 年)国立国会図書館デジタルコレクションより】




 
転換の先鞭(せんべん)をつけたのが,英国リーズの煉瓦職人,J.アスプディンがその製造法において1824年に特許を得たポルトランドセメントである。セメントの水硬性についての研究が進んでいた当時,彼は,石灰石を微粉末にするか焼成のうえ粘土と調合し,水を加えて粉砕,乾燥後さらに焼成して得たクリンカーに適量の石膏を加えて再度粉砕する,という方法を考案した。この製造法を軸にした研究が進むことで,各国がセメントの工業生産化と大量供給を実現させていったのである。
 
日本では,当初,外国産のセメントを輸入して,港湾などの土木工事や煉瓦の目地モルタルの材料として用いていたが,明治6(1873)年に官営のセメント工場が建設され,2年後には生産を開始する。その後も民間の工場が増え,国産による供給が増加していった。一連の技術革新によって明治後半から昭和初期にかけてコストが低減する一方,服部人造石の方は,人件費が上がり,長七が後継者を育てないまま明治37(1904)年に引退してしまうなど,不利な状況に追い込まれていったとされる。
 
天然のセメント類は,古代から各地で存在し,ローマ文明に代表されるコンクリートの技術が使われてきた。欧米でもこれが,近代においてポルトランドセメントや鉄筋コンクリートに置き換えられていくのだが,日本においても,伝統的なたたきの技術の応用である服部人造石が,世界共通の工業技術の発達に伴い表舞台から退くことになった。

 
 

天然石を模した人造石

ポルトランドセメントは,煉瓦の目地モルタル,コンクリートの素材として近代の建築やインフラを構築する重要な素材であるが,これを用いて,天然石の見た目を模造する建材づくりも早くから試みられている。明治16(1883)年10月発行の雑誌記事では,セメントでコンクリートをつくり出す方法を主に伝えているが,後段では「大理石に擬し或は之を其他諸石に似する術」について既に言及がある。硬化の仕組みはそれほど変わらないだろうから,構造材に限らず,化粧材として使える人造石をつくろうとする発想がなされるのは当然ともいえよう。むしろ,天然石の代替品を考えない方が不自然である。
 
しかし,当初は,ポルトランドセメントを用いない人造石も開発されている。ランソム石は,硅石と苛性ソーダで硅酸ソーダをつくり,これに砂を混ぜて型に嵌はめ,石灰の冷液に浸してつくる。ソレール石は,天然のマグネシウムを焼き,砂または粉末の大理石を混ぜて苦汁(にがり)で練り,型に詰めて固めるとある。石の名前は共に開発者の名前に由来するもので,ソレールは,フランスの化学者とされる。これらは,遅くとも明治半ばまでには日本にも紹介されている。
 
欧米由来の人造石については,このほかにも,アペナイト石,ヴィクトリア石,エリオット&バルソン法,ハットフィールド法,タムソン&ブライアント法,フリーア石,フォスター&アンデルブルグ石など,さまざまな例が当時の文献中に示されている。アペナイト石はランソム石の一種とされるものの,ポルトランドセメントを用いる。ヴィクトリア石もセメントを用いるもので,ロンドンの下水にはこれが使われたという。ほかもセメントを使用するものが多く,ポルトランドセメントの登場は,よく語られるコンクリートのみならず,内外装に用いられるそのほかの人造石の製造にも,大きく道を開いたといえる。ちなみに,イタリア語の‘terrazzo’に由来する人造大理石のテラゾも近代以降のものとされる。
 
 

日本での研究・開発

昭和12(1937)年に村上恵一が記した論稿によれば,わが国におけるこの種の人造石の研究は,既に明治から始まっていたようで,明治期においては,25(1892)年以降に関連の特許が10件あるとしている。明治から大正初期のものは,主に磁器によって製造しようとするものがみられ,次に,ソレール石のようなマグネシアセメントを用いるものが,大正年間に取得された特許約50件の半分程度を占めたという。しかし,前者は価格と大きなサイズに対応し難く,後者はガラスのような平滑面で硬化させると大理石のような光沢と強度が得られ, 鋸のこぎりで切断できるものの,湿気に弱く,長期に使用する場合,次第に強度を失うという難点があった。大正元(1912)年発行の文献には,
 
「我国にありては『ラムソム』氏の人造石及び『ビクトリア』石の如き,完全なるもの未だ製出せられしを聞かず。人造石の性質に関して,研究充分ならざれども,主に土及び『セメント』を原料とし,花崗岩及び安山岩に類するものを製するを得べし。」
 
とある。この時点において,外国製品と同等のものは開発・製造されるに至っていなかったようだが,セメントでそれに近いものはつくられていたような書き方もされている。これは後述する現場塗りのものかもしれないが,既に明治40(1907)年の『各種商店建築図案集』には,
 
「近年著シク進歩シタル人造石ヲ適用スルモ妨ナシ」,「備前焼花崗石模造」,「石材ニ代エルニ石色漆喰塗」
 
というように,それを裏付けるような記述がみられる(図-2)。
 

【図-2 「人造石ヲ適用スルモ妨ナシ」とする商店の立面(出典:越本長三郎『各種商店建築図案集』建築書院1907年) 国立国会図書館デジタルコレクションより】




 
そして,大正末の建築カタログには,大日本人造大理石株式会社という企業の広告に,枢密院や社会局の階段,中之島公会堂の角柱,控訴院の内装などの実績と共に紹介されている。技術は大正期に取得した特許に基づいたもので,白色セメント,大理石粉,石膏などに特殊な顔料と数種の薬品を混ぜ,撹拌,「捏混」その他の工程を経て,木枠に嵌めて凝固されるとある。さらに同じカタログには,他社の広告に,それまでの「模造石」とは異なり,「真に人工の妙を極め」,天然石との見分けが難しく,耐火や耐力の性能を上げたという製品が紹介されている。こうした事例を参照すると,この種の人造石製造が産業化したのは,おそらく大正期半ばから末にかけてと思われる。そして,昭和元(1926)年発行の文献には,
 
「耐震耐火の建築用材として近年頓に其需要を増大した。」
 
という記述がある。大火災を伴った,大正12(1923)年の関東大震災が需要を喚起させた一因と考えられる。まず,耐震と耐火の両者を満たす材料として,鉄筋コンクリートという人造石が注目されたが,その壁体になるべく薄く施工できる内外装材として天然石を模した人造石の需要が拡大したのではないだろうか。文献を読み込む限り,その後は急激に技術が発達し,生産を拡大させていった様子が窺うかがえる。特に需要があったのが,外装を含め広く利用される御影石やそれに類するものと,主に内装に使われ,全般に高価な大理石の代替品であった。
 
 

可能性についての議論

ちょうどその頃,建築学会が,勃興する鉄筋コンクリート造の外装について,さまざまな専門家の意見を集めた冊子を昭和3(1928)年に発行している。この中で,大蔵省営繕管財局の技師であった津田元四郎(つだもとしろう)が,人造石とその将来性をテーマに論じている。
 
津田は,天然石材は価格が高く,比較的安価な砂岩なども吸水性があり過ぎる,タイルでは大きなサイズをつくれないなど,それまでの外装材だけでは需要が満たされないといった状況で,人造石や擬石がそれを補うものとして注目されたと述べている。さらに,ポルトランドセメントで砕石を固める人造石は,その調合の具合でさまざまな天然石に似せることができ,多種多様な色彩や形状の建材を得られ,さらに鉄筋を挿入して強度を増したり,圧搾で密度を高めて硬度と防湿性を増したりすることもできるとして,技術の開発次第で,さまざまな利点を生み出せるという可能性の高さを強調している(写真-3)。何よりも,量産できるため,価格を低廉にできる。また,鉄筋コンクリートと同質であることは,「理化学的な故障」の誘起を避けられるという指摘もある。
 

【写真-3 後に開発されるメトロポーラストン。多孔質にして遮熱,防音性を高めた(出典:建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和八年用』同発行1933年)】




 
しかし,津田は,当該産業の初期に属するこの時点では,そうした要件を十全には満たしていないとしている。将来において「原料の選択と製法が相俟つて精巧なる極度に達し」た結果,「セメント工藝品」ともいうべき水準に引き上げられることを期待すべき建材であるとして,規格を定め,量産を見通した工場の建設にも言及している。津田が記事を書いた同じ冊子で,特に人造石を採り上げているのが,建築家の古塚正治(ふるづかまさはる)である。
 
古塚は,これを「ストンブロック」と称し,極めて最近の応用でありながら,比較的有望視されてきたとしている。しかし,その割には,発展の好機がない状況が続いており,しばらくするとこのまま忘れられるのではないかと,悲観的な見解を示している。欠点として,数年のうちに退色する,白セメントの品質が期待ほど高くなく,人造石の耐湿性が天然石に大きく劣る,型抜きによる彫塑の細部が拙(つたな)くなる,修繕が簡便なため職人の扱いが雑になる,業者が小規模などの点を挙げて,その将来を危惧している。しかし,指摘した事柄が解決されれば,それ以上に改良される時期も来るだろうと期待もにじませている。

 
 

昭和初期の急伸

建築学会の冊子と同じ年に発行された『石細工雛形図解』では,形体の大小および形が自由,価格も比較的低廉で加工しやすく工期の短縮に適し,天然石に比べ,耐久,耐火に優れ,一見では天然石と区別できないほどと肯定的に紹介される。青梅石,花崗石,大理石,蛇紋石などを模造できることや,「近来益々小住宅及び土木工事に使用」されつつあり,敷石,戸塀,倉,門柱,洗面所,風呂場,窓まぐさ石,窓台石,蛇腹石など「用途は甚だ多い」などの記述もみられる。しかし,その一方で,
 
「天然石の如く光沢及び外観の美なければ小住宅に多く使用せられ,重大永存の建築物には未だ利用せらるゝに到らず。」
 
というように,過渡的な状況についても言及されており,津田や古塚の記述とおおむね符合する。昭和4(1929)年の雑誌記事でも,人造石の技巧は幼稚といわざるを得ない,という記述がある。
 
いずれにせよ,昭和初頭は,人造石産業の勃興期で,製品としての不備を抱えつつも,多くの案件で試され,技術開発が進められた時期と考えられる。
 
しかし,ここからしばらく経った昭和8(1933)年の記事で,大林組の小田島兵吉は,その応用の範囲がずっと広くなったことや,特に「この数年の間に異常の発達」を遂げたとしている。その背景として,鉄筋コンクリートの建築が急速に発達し,需要が増えたことや,製作技術の発達があったと記している。
 
同年の別の書籍では,単なる天然石も模倣に留まらず,さらに進んで,人造石独特の趣を発揮するよう,種々の考案がなされて大いに発達し,需要が甚だ多いと述べられる。さらに,「近時天然石をどしどし駆逐しつつある。」とあるように,急速に普及している様子が窺える。技術面においても,
 
「製法によつては天然石よりも遙かに耐火的にすることも出来」
「最近では石材人造の技術が非常に進んで,天然石に勝るものが少なくありません」
 
と評され,数年前に高確率でみられた幾分否定的な意見や見解はほとんどみられなくなる。型抜きには,砂型を用いると,適度な吸水性が功を奏して耐水性が上がるうえ,細部まで立体を再現できるとあるように,数年前に古塚が指摘した難点を補う技術の共有も確認される(写真-4)。また,テラゾについては,目地金物が用いられることで,精緻な模様の製作も容易になったとある(写真-5)。ちなみに前記の村上によれば,この当時の飛躍を表すように,主流となるポルトランドセメントを用いる人造石の特許は,大正半ばより増え,昭和以降は11(1936)年までに50件以上確認できたという。
 

【写真-5 昭光石でつくられた函館森屋百貨店EV まわり(出典:建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和八年用』同発行 1933年)】




 

商品名を冠した人造石

事実,この頃から,幾つもの企業が人造石を手
がけている様子が急に目立ち始める。カタログや雑誌記事には,富国石(ふこくいし),譽國石,昭光石,中村式グラニット,日本テラゾ石,報國マーブル,岩元式ストン・ブロックなどの具体的な商品名が名を連ねる。浅野物産は,木繊維を用いることで木と石の両者の特徴を合わせたゼニサームという人造石板をアメリカから輸入販売している。
 
以上のうち,最も紙面と字数を費やして紹介されるのが,平田商店が昭和4(1929)年に開発した富国石であろう。同商店は,関東大震災後の復興需要を見込み,セメントをはじめとする建材の販売を目的に,大正13(1924)年に創業している。震災後の需要とセメントに着目した結果,人造石の開発に着手しており,まさに時代の状況に適応した企業であったといえよう。
 
富国石は,三機工業が代理店となって販売された。昭和8(1933)年のカタログでは,「富国石と云へば優良人造石に対する普通名詞の様になりました」と,その浸透ぶりを表現している。特徴として,表面積の大きな火山砂利を使うため密着力が強く,耐圧性,耐震性,耐火性が高く,精選した着色料や防水剤によって耐水性が高く退色や汚染もないこと,軽量なため運搬が容易で価格が極めて低廉であること,設計に応じて自由に作成できることなどを謳うたっている。補強にあらかじめ鉄筋を入れている点や,大理石,御影石,紅霰石,龍山石(たつやまいし),小松石,白丁場石(しろちょうばいし),寒水石(かんすいせき)などさまざまな表情をつくれる点も注目される(写真-6,図-3)。この宣伝文どおりなら,この5年前に津田が指摘した人造石の利点に符合し,古塚の指摘を克服したものが,遅くともこの時点で製品化されていたことになる。
 

【写真-6 各種富国石の表面(出典:平田商店のホームページに掲載の戦後のパンフレット)】




 

【図-3 富国石の貼付図(出典:建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和十年版』同発行 1935年)】




 
これが使われた事例には,よく知られた建築も多く,東京株式取引所,総理大臣官邸,遊就館,京都府庁舎,茨城県庁舎,名古屋市庁舎,警視庁舎,大阪中央郵便局,東京商科大学本館・図書館,東京工業大学本館・化学教室,学士会館,東京慈恵会病院,建築会館,三越本店,明治屋ビルディング(写真-7,昭和8年)などが宣伝用に挙げられている。
 

【写真-7 明治屋ビルディング(撮影:安野)】




 
大阪の稲垣工業所は,平田商店に先立つ大正11(1922)年の創業で,「ストンブロックに於ける本邦同業中の創始者」と謳っている。主に外装用(昭和10年版のカタログでは内外装用となる)の譽國石のほかにも床用のテラゾ,インテリア用の人造石,ホローブロック,コンクリート土管などを商品にしていた。譽國石は,堂島ビルディング,住友総本店,新京阪ビルディング,大軌ビルディング,綿業会館,大丸呉服店,京都下村邸とこちらも多くの著名建築での使用が宣伝されている。なお,これらの建築には,大正末に竣工しているものもあり,譽國石かそれに相応する製品も当時から存在していたとみられる。ちなみに,大軌ビルディング(大正15年)は,前記した小田島の設計による。
 
また,東京の三東工務店の昭光石は,人造大理石で,服部時計店,文部省庁舎などで使用されている。
 
 

現場塗りの人造石

富国石や譽國石をはじめとする,型に嵌めて固めたブロックや板状の製品もしくは型抜きした人造石は,キャスト・ストン(Cast Stone),ストン・ブロック(Stone Block)などと呼ばれた。
 
一方で,砕石をセメントで練り合わせて現場で塗布する方法があるが,こちらは人造石塗り,擬石塗りとして分類された。
 
共に磨きや叩きなどの仕上げが必要になるが,特に後者の場合は,初めから左官仕事となり,組成を変えつつ何層かに塗り重ねた後に,鏝(こて)や水に浸した刷毛,噴霧器で洗い出したり,グラインダーや砥石(といし)などで研ぎ出したりするなど,かなりの手間をかける。その当時よく見られた人造石の研ぎ出しの流しは,こうした施工でつくられたものである。
 
人造石といえば,一般にこうした現場での塗りつけや左官仕上げ由来のものが注目を集め,独特の存在感を醸している。職人の手仕事が投影されやすく,いかにもつくりものらしい素材感が相まって,現代にはない風貌がつくられるためだろう。細部の融通が利くため,比較的小規模な建築や部分的な装飾においては,こうした方法が採用され,余計に際立つ(写真-8)。擬石塗りで看板の文字や装飾を象(かたど)り,石から彫り出したかのようにみせる例もあった。
 

【写真-8 人造石洗い出し仕上げでつくられた村上精華堂のファサード(撮影:安野)】




 
キャスト・ストンのように,石らしいみた目の模造を含め,機能性や経済性を高めた人造石とは,ある意味対照的といえる。
 
なお,その他の仕上げには,凹凸を付けるものとして,乾燥後にビシャンや鑿(のみ)など石工の道具を使う「叩き出し」,乾燥前に小砂利を布などにくるんだもので静かに叩く「石目塗り」などがある。
 
ポルトランドセメントの開発は,天然石を模した人造石という可能性を広げたが,その背景には,同根の鉄筋コンクリート造の発達があったといってよい。この構造の内外装としての需要が高まったことが技術開発や投資の契機と考えられるためである。また,こうした人造石の主原料である砕石や石粉は,もともと天然石であるから,西洋建築が普及する過程でさまざまな石材の産地が開発されていたことも条件として無視できないだろう。こうした多面的な要素が相互に関係しながら建材の工業化が進展していったのである。
 
近代の建築が発達する過程で,重厚さや伝統を表現していた石材が,目立たぬかたちで均質な製品に生まれ変わり,経済性や機能性を高め,需要に応えていた。一見すると古そうな歴史主義のスタイルの建築であっても,その中身の技術をよくみると,近代のあり方を如実に反映しているものである。人造石の歴史は,その意味で興味深い。
 
 

 
 
〈参考文献〉
●天野郁介編『実用建築材料編』(建築叢書)建築書院1912年
●石橋絢彦『土木学講義録 セメント篇』1900年
●井口豊八郎,和田操一郎『最新人造品及模造品の研究』太陽堂書店 1932年
●上野生「人造石の製造」塗装ト建材 第2巻第7号 1929年8月
●内田泰司『耐火材料の研究』(建築資料叢書 第4)洪洋社1926年
●S生「人造石用碎石に就て」塗装ト建材 第1号 1928年6月
●江畑弘毅「石材と人造石に就て 主要建築石材と其壘に迫る人造石」科学雑誌第17 巻第2 号 1932 年8 月
●小田島兵吉「人造石の話」セメント界彙報 第308号1933年11月
●太田要編『建築學會パンフレット 第2輯第5號 コンクリート外壁の表面仕上』建築學會 1928年
●大橋公雄「人造石(たたき)工法とその遺構 服部長七の業績と人造石の歴史的価値」産業遺産研究 第5号 1998年5月
●久保田金重『石細工雛形図解』大日本工業学会 1928年
●黒沢喜長治,鶴田勝『建築材料』淀屋書店 1936年
●越本長三郎『各種商店建築図案集』建築書院 1907年
●建築資料協会編『建築資料共同型録 大正十四年』同発行1925年
●建築資料協会編『建築資料共同型録 大正十五年』同発行1927年
●建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和四年版』同発行1929年
●建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和八年用』同発行1933年
●建築土木資料集覧刊行会編『建築土木資料集覧 昭和十年版』同発行1935年
●斎藤仁平「人造石製造法ニ付質問」明治協会雑誌第28号1883年10月
●『大理石,テラゾ五十年の歩み』全国石材工業会1965年
●中西由造『左官の知識及彫刻手引』吉田工務所出版部 1930年
●樋口輝久,馬場俊介,天野武弘,片岡靖志「中国地方の人造石工法 服部長七をめぐる人間関係」土木史研究論文集26号2007年
●村上恵一「我國の建築用人造石に就て」大日本窯業協會雑誌第45集536号1937年
 
 

安野 彰(やすの あきら)

1971年埼玉県生まれ。東京工業大学大学院総合理工学研究科人間環境システム専攻博士後期課程修了。博士(工学)。日本工業大学建築学部建築学科教授。専門は日本近代の建築や都市の歴史。著書に『世界一美しい団地図鑑』(共著,エクスナレッジ),『住宅建築文献集成』(分担執筆,柏書房),『社宅街』(共著,学芸出版社)など。
 
 
 

日本工業大学 建築学部 建築学科 教授
安田 彰(やすだあきら)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2019夏号



 

最終更新日:2019-12-18

 

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