建設資材データベーストップ > 特集記事資料館 > 建築施工単価 > 材料からみた近代日本建築史 その3 板ガラス生産と近代の日本家屋

 
一口にガラスと言っても,生活の中には多くの種類とサイズがある。食器,容器,レンズ,服飾品など数え上げれば切りがない。しかし,建築におけるガラスとして最も重要且つ需要が高いのが,窓をはじめとする建具用の板ガラスだろう。ガラスは,平板という形状を得ることによって,それまでの役割を越えて,世界の建築と都市を変えていった。ここでは,そうした板ガラス工業の発達とそれを受容した近代の日本家屋の関係を概観したい。
 
 

板ガラス工業の近代化

日本の近世以前において,建築のガラスは,例外的にキリスト教会堂などで用いられる程度であったと思われる。元禄時代,品川にあった伊達綱宗の邸宅にガラス障子があったことなどが伝わるというが,例外的なものだろう。ガラスが本格的に建築材料として用いられるようになるのは,明治以降のことであったと考えられる。幕末の頃,世界に目を向ければ,1851年,ロンドンのハイドパークで開催された万国博覧会で,約100×25cmの板ガラス30万枚と3,300個の鋳鉄柱から成るクリスタルパレス(図1)の竣工が,新材料としてのガラスを印象づけたように,日本が明治維新を迎えるまでに,建築におけるガラスの役割と需要は飛躍的に広がりつつあった。当初見られた温室やパッサージュ(図2)だけではなく,19世紀後半から各国で開催される博覧会のパビリオンでは,板ガラスがふんだんに使用され,その明るく軽やかな空間は,多くの市民を魅了していったに違いない。その当時形成されたパリ市街には,プランタン百貨店,国立図書館,グラン・パレ(図3)など,ガラス屋根を持つ建物が現在でも数多く残される。
 

図1:クリスタルパレス(1851年)(The Illustrated London News v.20b
1852.5.1 Reprint 1997より)


 

図2: パッサージュ・ヴェロ・ドダ(1826年[パリ])(写真:安野彰)


 

図3:グラン・パレ(1900年[パリ])(写真:安野彰)



さて,ガラスが主要な建築材料になるためには,板ガラスの大量生産が不可欠であった。日本では,外国人の住宅など,各地の西洋建築で用いられ,明治期を通して板ガラスの使用が盛んになるものの,その生産を自力で行うことはできなかった。明治40年代に入るまで,殆どを欧州からの輸入で賄わざるを得なかったのである。主要な輸入先は,当時世界一の技術と生産量を誇ったベルギーであった。この小国は,周辺各国へも輸出するほど板ガラス工業の隆盛を極めていたが,第一次大戦の勃発等により事情は激変するのである。当時のガラスの多くは手吹き法により,直径25cm程度の円筒を切り開いて平板にしたものであったが,大戦の前後でアメリカによって主導された技術革新も,その後の生産量競争に影響を与える。
 
欧州では,中世においても窓ガラスの需要が低くなかったが,それを支えたのが,棒の先に付けて呼気でふくらませた溶融ガラスを,反対側で柄によって受けて竹とんぼを回すようにして平円板状に振り拡げるという,クラウン法であった。17世紀末になると,代わって手吹きの円筒法が考案され,19世紀になる頃までには,これが板ガラス製造の主流になっていく。この方法では,鉄パイプに溶融ガラスを取り付けて空気を吹き込んで細長い円筒状にした後に両端を切り落とし,これを縦に切開してからのし上げて板ガラスとした(図4)。技術はドイツで完成されたが,ベルギーにおける技術と生産が競争力を付けていったのである。1913年,アメリカ人のラバースは,これを機械化し,より大きな円筒と板ガラスの製造を可能とした。
 

図4:円筒切開法




まもなく続く平板法は,ベルギーのフルコールとアメリカのコルバーンによってほぼ同時期に発明される。フルコール式は,溶融ガラスを耐火煉瓦のスリットから引き上げて,両側から冷却して板状に固めるというものである。一方のコルバーン式(図5)は,耐火煉瓦を用いず,溶融ガラスの表面から直接引き上げられ,ナールロールと呼ばれる部位によって直ぐに水冷されて板状にされる。これらの方式は,それまでの円筒法に比べ,多様なサイズの板ガラスを迅速に生産することを可能とした。
 

図5:コルバーン式




1925年,アメリカのピッツバーグ社によって開発されるピッツバーグ式は,フルコール式同様に,耐火煉瓦のスリットから鉛直にガラスを引き上げるものだが,スリットが溶融ガラスに沈められている点で異なる。平板法の改良型と位置づけられよう。
 
 
 

国産ガラスの誕生と生産の拡大

板ガラスの生産は,幕末の日本でも諸藩で試みられていたようで,薩摩の尚古集成館には,試作と思われる2cm厚の製品が残されている。しかし,その技術は引き継がれなかったようである。
 
ともあれ,近代化を推進していく以上,板ガラスの使用は不可欠であるから,直ぐに工業的生産への試みが再開される。まず,1873(明治6)年,三條実美の側近であった丹羽正庸が,村井三之助を技術者として品川興業社硝子製造所を創立した。イギリス人ウォルトンを招くものの,そう簡単に企業としての成功を見ることは無い。この施設は,1876(明治9)年に工部省に買い上げられ,品川硝子製造所として再出発することになる。翌年秋には,煉瓦造建物(図6)を完成させるなど,しだいに施設を整備,先のウォルトンはじめ複数のイギリス人技術者を雇い入れ,1885(明治18)年に民間に払い下げられてからも試行が続くが,ついに1892(明治25)年の秋には解散に至ってしまう。食器類などのガラス製品は出したものの,板ガラスの製造では,技術的な問題をクリアできなかった。1900(明治33)年にも,官営時代の職長を務めた岩城瀧次郎がこの場所で,再度挑戦するが,2尺平方の製品を見るに止まった。
 

図6:明治村に移築保存されている品川の硝子製造所(1877年)(写真:内田青蔵)



一方,1903(明治36)年の第五回内国勧業博覧会では,かつて品川の硝子製造所にいた島田孫市らが板ガラスを出品するが,これも実質的には試作品に止まっていた。その3年後にあった東洋硝子の設立も不発に終わるなど,国産品製造を目指してから30年以上もその実現には至らなかったのである。
 
しかし,1904(明治37)年の『建築雑誌』に,ガラス価格の暴騰とともに早期の国産化を論じる一般誌の記事が採録されているように,この頃,板ガラスの国産化は渇望されるものとなっていた。こうした背景下,実用化と産業的な発達に至るまでの成功を収めるのは,1907(明治40)年,岩崎俊弥が兵庫県尼崎に設立した旭硝子株式会社である。俊弥は,岩崎弥之助の次男として生まれ,ロンドン大学で応用化学を修めるが,1903(明治36)年の帰国後に事業を興す。社名に三菱を冠しないのは,失敗のリスクが少なくないと考え,もしもの場合に三菱の名を汚さぬよう配慮した結果という。まず,ベルギーから輸入した手吹き円筒法を用いて1909(明治42) 年操業開始の尼崎工場で生産が実現する。先進国のベルギーから技師を招聘したことが奏功した。次いで前記のラバース法を導入し,1914(大正3)年,北九州の戸畑に牧山工場を,次いで横浜に鶴見工場を建設して内外の需要に応えるようになった。1918(大正7)年には,コルバーン式による平板法の特許権をリビーオーエンスフォードグラス社から取得することで,日米板硝子株式会社(1931年に日本板硝子株式会社と改称)が大阪に誕生することになる。
 
第一次大戦で,輸入品が途絶える中,この2社が成長し,また,昭和初期にフルコール式,ピッツバーグ式ほかの新製法を輸入するなどして,日本の板ガラス工業は,飛躍的な成長を遂げていくことになるのである。殊に,窓用板ガラスの生産量に限れば,1935(昭和10)年頃までには,世界に伍するものとなり,日本の輸出工業品の中でも重要な位置を占めるまでになる。輸出先は欧米各地に止まらず,中東など世界各地に及んだという。なお,前記2社は現在でも世界を代表するガラス製造企業である。
 
 
 

透明板ガラスの普及とガラス障子

明治末以降の国産板ガラスの増産は,日本の都市空間を様々なところで変化させていくが,住宅においても多大な影響を与えた。日本家屋の縁側には,内に障子と外に雨戸がおさまっていたが,新たに雨戸の直ぐ内側にガラス障子が使われていくことになる(図7)。ガラス障子は,大正期に中流住宅が増加していくことと相俟って広く普及すると言われるが,事実,1921(大正10)年から昭和初頭にかけて,板ガラスの生産量は倍以上,価格は半分になっており,一般住宅での普及と相関していたと考えられる。
 

図7:ガラス障子(旧山崎家別邸(1925年)[川越])(写真:安野彰)




なお,比較的上流の邸宅では,明治半ばから,徐々に板ガラスが用いられていたようである。洋風建築や洋室は勿論だが,日本家屋の部分でも,例えば,防水が必要な水まわりの建具,衛生や作業能率の側面から採光が重視される台所などが優先された。また,障子全体をガラスにしないまでも,一部をガラスに置き換えて装飾的に用いる例もあった。
 
縁側にガラスの引き違い戸(ガラス障子)が入ることで,それまでよりも気密性が上がり,冬場に建具を開かずとも庭を眺め,暖かい陽光を取り入れることができる。結果,縁側はサンルームのように扱われることもあった。開国以来,厳しい冬の気候に対応できる欧米の建築を見習って,日本家屋にも冬場の暖房性能の必要性が訴えられていた。冬でも明るく暖かい室内で活動的に生活することが求められたのである。その意味で,板ガラスの役割は極めて重要であったといえる。また,太陽光を採り入れることによる室内衛生化への理解も,潜在的な需要を作り出していたと考えられる。さらに,雨戸の位置にガラスが入れば,雨天時に雨戸で閉ざした時の暗さや,戸締まりや障子紙を張り替える手間も大幅に解消されることになる。
 
しかし,日本の家屋は,ガラスのもたらした光をただ単純に採り入れただけではなかった。柔らかい光を室内に導く内側の紙障子は残されたため,光量の調整と透明なガラス障子との対比による多様な演出が可能になった(図8)。ガラス障子には,すりガラスが入ることもあるので,光の種類の組み合わせには実に多彩な選択肢が存在した。外側にガラス障子が嵌り,需要が満たされれば,内側の障子にも一部にガラスが用いられる。雪見障子や猫間障子という風流な建具も,板ガラスの普及によってもたらされた近代的な装置なのである。
 

図8:ガラス障子と紙障子(旧山崎家別邸(1925年)[川越])(写真:安野彰)




なにより大きな開口面を前提とする日本住宅にとって,安価な板ガラスの供給は,ガラス障子の普及に不可欠なものであった。それが遅れれば,日本住宅の近代化は少し違った方向へ舵を切っていたかも知れない。
 
 
 

装飾性のある板ガラス

透明板ガラスだけではなく,戦前期においては,装飾を施された板ガラスの生産と使用も特徴的といえる。概ねガラス表面に変化を与え,光の屈折による変化や幾何学的な模様を楽しむものだが,透明ガラスとしては質の低い製品を有効活用できるメリットもあった。大凡には,すりガラス,結霜ガラス,型板ガラスなどに分類される。結霜ガラスとは,すりガラス表面に膠(にかわ)等の混合物を塗布し,その乾燥による収縮作用でガラス表面を剥ぎ取ることで,結霜に似た模様を付けたものである(図9)。
 

図9:結霜ガラス(旧山崎家別邸(1925年)[川越])(写真:安野彰)




すりガラスや結霜ガラスは,明治末に普通板ガラスが国産化される以前から作られていたようで,輸入業者が,外国産の板ガラスに加工をしていたと考えられる。板ガラスの国産化が為されてからは,メーカーが,透明板ガラスと並行して生産するようにもなる。創業当時の旭硝子もベルギーから導入した機械を用いて,すりガラスや結霜ガラスなどを生産していたというから,明治末には相応の需要があったことになる。日米板硝子も,『春霞』と呼ばれる結霜ガラスの生産を1921(大正10)年に開始する。これは,結霜ガラスの表面に,更にすり加工を施し,より柔らかく奥行きのあるムラを生じさせた製品で,丸の内ビルディングの室内建具等に用いられた。
 
型板ガラスは,溶融ガラスを圧延するロールに型を施すことで,ガラス表面に規則性のある立体的な模様を施すものである。第一次大戦後,板ガラス製造業が乱立する中,型板ガラスを生産する中小企業があった。ユニオン硝子製造所,極東硝子がそれで,「縞」,「雪」,「石目」,「霞」,「雲」などの模様を施した厚手の型板ガラスが生産されたという。この当時は,キャスト法という,ロールの下にテーブルを敷き,その間に溶融ガラスを流す工法であったため,溶融ガラス上下の温度差が広がり,素地が薄いと製品に湾曲や破れが生じてしまう。そのため,ガラスの板厚は4〜5mmにならざるを得なかった。しかし,欧州からの輸入が再開されると,これらの企業は大正末までに生産を中止してしまう。
 
1930年代に入ると,薄手の型板ガラスも生産されるようになる。たとえば,前記したコルバーン式では,ガラスを平板状に引き上げた後にロールを使用する。1932(昭和7)年,日本板硝子(旧日米板硝子)では,これに型を付け,「モール」という製品が製造される。また,徳永板硝子は,上下のロールを使って型板を施す製法を用いて,複ロール法では世界で初めて厚さ2mmの薄型板を製造した。この板厚が,透明板ガラスが普及しつつあった日本家屋の建具に適したことで,型板ガラスも普及が拡大していくことになる。と同時に,「梨地」,「銀格子」,「水玉」,「ダイヤ」,「縞」,「斜子」,「石目」,「田毎」など多種多様な型板ガラスが製造された(図10)。
 

図10: 型板ガラス(旧鋳物問屋鍋平別邸(1912〜27年頃)[川口])(写真:安野彰)




すりガラス,結霜ガラス,型板ガラスは,光を通すものの視覚上の透過性が低く,殊に型板ガラスは,向こう側にある物体の形状も光の屈折により捉えにくい。こうした性能上の特性は,使い分ければ利点ともなり,プライバシーの確保と採光を両立させた。とりわけ,人工照明の乏しい戦前においては,窓際の室を介して奥の室へ外光を導く際にガラスが使われたが,この種のガラスを用いることで,二室の独立をも保ったのである。障子が果たしていた機能を代替したと捉えることができよう。
 
そして,幾何学模様や結霜の柄は,木質が基調の日本家屋の室内,襖や畳縁などの装飾ともよく調和したと思われる。また,一部の型板ガラスは,乱反射して白く輝き図柄を引き立たせるため,ステンドグラスの地としても用いられていた(図11)。小さくとも洋室があれば,住宅内のステンドグラスは珍しくなく,室内意匠の要として空間に艶と詩情を与えていたのである。
 

図11: ステンドクラスの地には型板ガラスが用いられている(旧野口邸(1922年)[小樽])(写真:安野彰)




ところで,型板ガラスが普及するにつれ,結霜ガラスの需要は減少していくことになる。戦時体制の影響もあり,戦中にその生産を中止する企業が相次いだ。
 
 
 

むすび

戦後まもなく,板ガラスの生産は,フロート法の開発によって,さらなる転機を迎える。フロート法とは,溶融した金属がつくる平面の上に溶融ガラスを流す工法で,狂いやゆがみが殆ど生じない画期的な発明であった。そうしたガラスに慣らされている現代人にとって,板ガラスの生産は,さほど難しくないような錯覚に見舞われるが,意外にも大正に至るまで,国産のガラスは珍しく,庶民が住まう家屋の多くでは,障子や板戸といった建具が主であったと考えられるのである。板ガラスの建具は,障子に置き換わって溶け込むように日本家屋に入り込んだため,建築物の形状や空間に劇的な変化を与えるものでは無かっただろう。しかし,そのことによって,住人が受けた恩恵や生活上の変化は,如何ばかりであったか。
 
一方,装飾性のある板ガラスは,少し前までは,確かな存在感とともに日常のなかにあった。模様の工夫が作り出す透過光の変化が,無色透明なガラスには無い質感と美しさを醸していた。現在ではそうした側面が後退し(視線を通さないという特性は今日でもすりガラスや型板ガラスの需要を保たせている)ているが,透過光を魅力的に変換する特性はもっと見直されても良いだろう。
 
一昨年になるが,原発事故に伴う節電が実施されて,夕暮れ時の街並みが美しく見えることがよくあった。とりわけ人工照明が多かった都心では,減灯による景色の変化が顕著だった。結果,季節と時間で移ろう陽光の変化が薄暗い物陰に映える瞬間に惹かれる機会は一時的にだが増えた。人工照明が充実し,場所や一日の時間がしだいに均質化する生活に慣らされてきた結果,自然光への感度や関心が低くなっていたことを思い知らされた覚えがある。今日のように電力が豊富でなかった時代のガラスは,陽光とそれがつくる陰影の美しさを象徴的に見せる役割も担い,今とは異なる豊かさを日常生活に与えていたに違いない。板ガラスや電灯が日本の家屋内に普及して定着しつつあった当時,谷崎潤一郎は,『陰影礼賛』において,明るさを増していく都市や住宅の空間に対する違和感を表明し,我が国古来の美意識に迫ったが,現代から見れば,当時のガラスとそれが使われた家屋もそうした美意識の延長上に存在したように思える。
 
板ガラスが一般に使われ始めた頃,今に比べれば陽光も人工光源も貴重なものであった。同時代に作られたガラスと建物の質は,そうした時代の人々が抱いていた感受性が投影されているものだ。そのことを想像すれば,100年近く前の建築に残るガラス達はさらに輝きと神秘性を増して魅力的に見えてくる。
 
 
 
<主要参考文献>
●「硝子板の暴騰」,「世界板硝子業の趨勢」建築雑誌214号1904年10月
● 加藤左織「日本の現代ガラス工業の発達小史」千葉商大論叢14巻3号1976年12月
● 加藤雅久・真鍋恒博「明治期から昭和初期のわが国における型板硝子等の変遷」日本建築学会計画計論文集524号1999年10月
● 古閑克巳「講演 我國板硝子工業の趨勢」建築雑誌608号1936年1月
● 坂井友香梨・藤岡洋保・山崎鯛介「大正・昭和初期の中流住宅における外回りガラス障子の普及−住宅図集を用いた分析−」日本建築学会大会学術講演梗概集F-2,2006年7月
● 佐藤止戈夫「板硝子工業進歩の趨勢」精密機械70号1939年7月
● 丁渓生「コールバーン式平板硝子製造法」大日本窯業協会雑誌355号1922年3月
●『 日本板硝子株式会社五十年史』日本板硝子株式会社1974年
● 蓑田猪太郎『硝子製造法』博文館1903年
● 由水常雄「明治の建築と窓ガラス」建築雑誌1145号1979年1月
● 米村敦子「明治後期から大正初期の住宅の採光について−家族室の南面化と窓ガラスの普及−」家政学研究Vol.29No.2,1983年3月
 
 
 

文化学園大学 造形学部 建築・インテリア学科 准教授 安野 彰(やすの あきら)

 
 
 
【出典】


建築施工単価2013年春号



 

 

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