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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 関東大震災から100年 その2 -復興小学校-

復興小学校のプランニング

震災事業のなかで一番重要なのは“区画整理”と私は見ている。
区画整理があったからこそ道路を広げたり付け加えたりはスムーズに進んだし、隅田川に架ける巨大な鉄橋だって道路の一部であるから同じこと。
 
区画整理や道路拡張や巨大鉄橋に比べると建築は目立たないが、そんななかで人目を引いた事業を挙げれば、個々の建築では日本橋の魚河岸から移った〈中央卸売市場〉がナンバーワンで、建築群では〈同潤会アパートメント〉と〈復興小学校〉ということになろう。
 
〈同潤会アパートメント〉は、日本最初の政府による大規模住宅改良事業であるばかりか、鉄筋コンクリート造により耐震耐火を計っている点でも先駆的に違いなく、今も論及され続けているが、それに比べ〈復興小学校〉のほうは建築の歩みの上では地味というしかないし、そのように扱われて今にいたる。
 
にもかかわらず私が光を当ててみたいと思うのは、設計を担当した一人である阪東義三(1894~1951)が、“震災復興事業はうまくゆかないことが多いなかで、せめてこれだけはちゃんとやろうと建築関係者が取り組んだのが小学校の建設だった”との意の回想を残しているからだ。
 
阪東によると、広大な焼失地の上に点々と再建される小学校に地域の住民センターの役割を付与したいと考え次のように作る。
 
①これまでは木造であった校舎を、最新の鉄筋コンクリート造とし、いざという時、地域住民の安全な避難所とする。
 
②校庭に連続して小公園を設け、いざという時、そこから退去することも進入することも出来るし、日頃は子供たちが、退校時にちょっと寄ったり、集まって遊んだりも可能。
下町の商売人やサラリーマンの親たちが仕事の行き帰りベンチに腰掛けて休む時、校庭で元気に遊ぶ子供たちを見ることができる。
 
③校舎をぐるりと囲むコンクリート製の塀の高さは、中の子どもたちの背より高く、外の大人たちの背より低くし、子どもたちの気は散らないが、通りがかった大人たちは中の様子をうかがうことができる。
 

こうして生まれた小学校のことを「復興小学校」といい、私たちが東京建築探偵団を結成した頃にはたくさんあった。
今はわずかしか残っていない。
そのいくつかを昔撮った写真で紹介しよう。
 
 

モダンな学び舎

まず、千代田区三番町の〈九段小学校〉を見てみよう。
設計は当時の東京市建築課により、竣工は大正15年。
大正12年に震災が起こり、区画整理を終えてから小学校の復興が始まっているから、大正15年は復興小学校出現の最初期にあたり、ここから昭和4年までに復興小学校は出現している。
もちろん構造は鉄筋コンクリート造の三階建て。
 

【九段小学校 左が震災復興時の校舎で,右端の塔が表現派らしいデザインを見せる】
【九段小学校 左が震災復興時の校舎で,
右端の塔が表現派らしいデザインを見せる】
【窓回りの放物線状アーチも表現派】
【窓回りの放物線状アーチも表現派】

 
外観の一番の特徴は校舎の角にアーチの、それもよく見ると放物線状の塔が立つ。
教室の窓を見ると、縦長窓のうえ、三階分を放物線状のアーチ内に納めている。
 
この塔と窓回りの放物線状の造形こそ、この建物の造形が表現派の血を継ぐ証となる。
 
次は中央区日本橋本石町の〈常盤小学校〉。
設計は前者と同じ。時期は昭和4年と遅れるが、昭和3~4年が復興小学校出現の最後となる。
規模は鉄筋コンクリート造三階建て。
よくぞ建築密集地の本石町にこれだけの面積を小学校に当て、加えてごく狭いとはいえ小公園も付いている。
 

【常盤小学校 道路に面する塀の高さまでよく考えられている】
【常盤小学校 
道路に面する塀の高さまでよく考えられている】
【三階のアーチ窓は表現派に,一階と二階の正方形窓はモダニズムにつながる】
【三階のアーチ窓は表現派に,
一階と二階の正方形窓はモダニズムにつながる】

 
建築のスタイルは一見すると四角な箱型だからモダニズムかと思うが、細かく見ると違う。
 
まず色が白ではなくクリーム系で統一されている。
窓を見ると、上層にはアーチがつき、一階と二階は正方形。
 
主入り口を見ると、筋付アーチを強調し、かつその左手には上広がりの段々付きの植木鉢が、右手には小さな半円窓が三つ付く。
 
クリーム色、アーチ窓、筋付大アーチ、上広がり、小円窓、いずれも表現派のデザインにほかならない。
 
中に入って目立つのは講堂で、鉄筋コンクリートでこれだけのスパンを飛ばすにはひと工夫必要になる。
側壁からの壁柱を上広がりにしたのと、中央に山形の大梁を加えたことにより可能になっているが、側壁からの上広がりの壁柱はいかにも表現派ふう。
 
〈九段小学校〉と〈常盤小学校〉の二校のデザインの基調となった表現派は、震災直前の大正期をリードした先駆的デザインで、大正9年に結成された分離派が中核となって進めている。
東京市建築局の建築家であった阪東義三もその強い影響下にあったことが知られているから、〈九段小学校〉はその純度の高い表現派ぶりからしてあるいは彼が手がけたのかもしれない。
 
 

二代目ボスのこだわり

それにしてもどうして〈九段小学校〉や〈常盤小学校〉のような復興小学校は、構造と表現の両方でそれほど高い質が可能になったのか。
佐野利器の存在が大きかった。
 
佐野は、日本の建築界において辰野金吾に続く二代目のボスとして知られ、学者としては耐震構造学を確立し、行政面においては建築界を代表して耐震復興計画に加わり、内務大臣として復興を指導した後藤新平の下で、都市計画局長の池田宏と二人で実際を担いリードしている。
 
しかし、当初の大規模な復興計画は貴族院などの猛反対で縮小されたばかりか、復興を主導する
復興院も格下げされる中で、佐野は持ち場を政府から東京市に移し、政府に代わって復興事業を遂行するため新設された東京市建築局の局長に就く。
佐野は正しいと思うことは断固行う頑固な性格で知られ、たとえば小学校を司る教育庁が、ある小学校に女子教育のための畳敷きの裁縫室を設けたことを知ると、「20世紀は裁縫より科学の時代だ」と怒り、清水建設の職人を派遣して壊し、理科室に作り替えたりしている。
 
そんな建築局長にとって、それまで木造であった小学校を最新の鉄筋コンクリートに造り変えるなんて当然だったし、表現においても、当時の主流の歴史主義のスタイルを拒み、先端の表現派を認めるのに躊躇はない。
 
構造が専門の佐野ではあるが、表現についても一家言を持ち、震災の13年前の明治43年に行われた「我国将来の建築様式を如何にすべき哉」の論争の時、日本固有様式派と欧米派の二派を向こうに回し、「重量と支持との力学的表現を最も正直に簡明になし得べき新様式を」とただ一人、脱歴史主義と後のモダニズムに直結する考えを主張している。

 
復興小学校の構造と表現を決めた建築局長の路線は、佐野が東京市を去った後も、復興事業終了後も堅持され、昭和10年前後に入ると東京市は新築の小学校を表現派からさらに一歩進め、純度の高いバウハウス系のモダニズムで実現している。
実例としては昭和10年完成の〈高輪台小学校〉などがある。
 
なお、戦前の段階で公立小学校をモダニズムで統一したのは、世界を見ても東京市しかない。

【入口の表現派ふう大アーチ】
【入口の表現派ふう大アーチ】
【入口右手の小円窓は表現派ならでは】
【入口右手の小円窓は表現派ならでは】
【入口左手の鉢植えの上広がりはいかにも表現派】
【入口左手の鉢植えの上広がりはいかにも表現派】
【講堂の内部 当時としては最先端の構造とデザインであった】
【講堂の内部 当時としては最先端の構造とデザインであった】

 
 
 

著者  藤森 照信(ふじもり てるのぶ)

1946年長野県生まれ。
東京大学大学院博士課程修了。専攻は、近代建築、都市計画史。
東京大学生産技術研究所教授・工学院大学教授を経て、現在、工学院大学特任教授、東京大学名誉教授。
全国各地で近代建築の調査、研 究にあたる。
2016年7月に東京都江戸東京博物館の館長に就任。
建築家 の作品として、〈神長官守矢史料館〉〈タンポポハウス〉〈ニラハウス〉〈秋野不矩美術館〉〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉など。
著書に、『藤森照信の建築探偵放浪記~風の向くまま気の向くまま~』(経済調査会)、『アール・デコの館』『建築探偵の冒険・東京篇』(以上ちくま文庫)、『近代日本の洋風建築 開化篇』『同 栄華篇』(以上筑摩書房)、『銀座建築探訪』(白揚社)など多数。
2020年〈ラ コリーナ近江八幡 草屋根〉で日本芸術院賞を受賞。
 
 
【出典】


積算資料2023年7月号

積算資料2023年7月号

最終更新日:2024-03-25

 

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