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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 関東大震災から100年 その3 -鉄筋コンクリート造-

碑に刻まれた「鉄筋混凝土」

震災復興の最大の成果は“区画整理事業”で、一見すると地味だが、猛反対を押して焼失地全域で遂行されたこの事業の下支え無しに、道路の拡幅も大型の鉄橋も復興小学校も魚河岸の築地移転もあり得なかった。
 
地味な区画整理と並んでもう一つ、今では当たり前過ぎて歴史的には目立たない事業として鉄筋コンクリート造の推進があった。
 
まさかと思われる建築専門家のために申し添えておくなら、関東大震災の前、鉄筋コンクリート造はそう一般的ではなかった。
 
日本における鉄筋コンクリート構造の歩みを振り返ってみたい。
 
フランスの庭師のジョセフ・モニエが明治維新の前年の1867(慶応3)年に特許を取り、1887(明治20)年、その特許を買ったドイツのヴァイス社が鉄筋コンクリート構造の原理を力学的に解明してから世界に広がり始め、日本に第1号が実現するのは1903(明治36)年だから、世界的には相当早く取り入れている。
 
その第1号は建築ではなく土木で、琵琶湖疏水を引いたことで知られる土木学者の田辺朔郎が疏水にかかる歩道橋として部下を使って実現している。
田舎(京都の山科)の小さな歩道橋にもかかわらず、「本邦最初鉄筋混凝土橋」と刻まれた立派な碑が立ち、担当した部下と施工業者の名が刻まれていることから関係者の心意気がしのばれよう。
田辺が部下と施工業者の名をわざわざ刻んだのは、設計も施工も当時の工事関係者にはとても理解しにくかったからだ。
 
この生まれたばかりの新しい技術は、建材に働く外力を圧縮力は混凝土(コンクリート)で引張力は鉄筋で受けるという、それまでの石や煉瓦や木や鉄にはなかった珍しい方法で実現しており、構造力学を学ばないと、感覚だけでは理解できない。
鉄筋コンクリート発明者の当のモニエも理解しておらず、そのことを知ったドイツのヴァイス社の人々は呆れたらしい。
 
施工はもっと不安だった。
一番の理由は、水でジャブジャブのコンクリートに埋まる鉄がなぜ錆びないのかが分からない。
竹中工務店を神戸で創業した竹中藤右衛門は、関西の鉄道橋の橋脚で初めて鉄筋コンクリートの施工をした時、錆が心配のあまり「鉄筋一本一本に油紙を巻き、コンクリート打設の直前にほどいて磨いた」と伝える。
コンクリートは強アルカリ性ゆえ、錆などそのうち消えるから心配無用。
 
こうした不安を乗り越えて、発明後36年して、泥が岩に化すという魔法の技法は日本に上陸し、まず土木が、次に建築が使うようになる。

【田辺朔郎を讃える「本邦最初鐵筋混凝土橋」の石碑】
【田辺朔郎を讃える「本邦最初鐵筋混凝土橋」の石碑】
【「技師山田忠三 技手河野一茂」とある】
【「技師山田忠三 技手河野一茂」とある】
【小さな歩道橋だが,橋の中央部の薄さに注目。アーチ橋にする必要はないが,心配だったのだろう】
【小さな歩道橋だが,橋の中央部の薄さに注目。
アーチ橋にする必要はないが,心配だったのだろう】
【疏水の水面に鉄筋コンクリート構造が映る】
【疏水の水面に鉄筋コンクリート構造が映る】

 
 

建築における鉄筋コンクリート造の夜明け

建築における第1号としては、1911(明治44)年の遠藤於菟による〈三井物産横浜支店一号館〉が近代建築史を飾る。
 
地下付地上4 階建ての当時としては大型のビルで、全鉄筋コンクリート構造の上にタイルを貼って仕上げられている。
 

【遠藤於菟設計の三井物産横浜支店1号館。外観はあっさりと作られている】
【遠藤於菟設計の三井物産横浜支店1号館。外観はあっさりと作られている】
【外壁には石とクリーム色のタイルが貼られている】
【外壁には石とクリーム色のタイルが貼られている】
【室内の梁も天井も鉄筋コンクリート構造】
【室内の梁も天井も鉄筋コンクリート構造】

 
日本の鉄筋コンクリート造の父ともいうべき遠藤は、後にその来歴を振り返り、次のように記す。
 
「1904(明治37)年にアメリカの著書に就いて鉄筋コンクリートを研究しました。
・・・研究して見るとそれが如何にも合理的で且つ信頼すべき材料で有るという事の確信を得ました」
田辺朔郎の歩道橋誕生の翌年、先行する土木分野からではなくアメリカの本から学んだというが、本当だろう。
建築と土木は社会から見ると似て見えるが、中に入ると、発想も技術も体質も相当違うことに驚く。
 
遠藤が日本近代建築史の表舞台で鉄筋コンクリート造建築第1号を実現したそのちょうど同じ年、裏舞台でもう一つ「鉄筋コンクリート造」をうたう小さな建物が生まれていた。
保岡勝也による〈静嘉堂文庫〉である。
 
保岡は三菱地所筆頭建築家として丸の内のオフィス街建設に腕を振るい、三菱二代目オーナーの岩崎弥之助の収集品を容れる〈静嘉堂文庫〉を高輪の弥之助邸の一画に建てるに当たり、防火と耐震を考えて採用している。
幸いその図面「芝區髙輪所在某邸内参階建鐵筋コンクリート造書庫之圖」を保岡は三菱を去るに当たり自作の作品集(日本における最初の建築家作品集となる)の中に発表している。
当時、「鉄筋混凝土」と一般的には呼ばれていたものを「鉄筋コンクリート」と訳した最初の例かもしれない。
 
田辺の橋も遠藤のオフィスも、実物は残るが図面が伝わっておらず、実際どのように施工され、どのように配筋がなされていたか不明だが、保岡の書庫は図が残る。
 

【保岡勝也設計の静嘉堂文庫の構造を示す図】
【保岡勝也設計の静嘉堂文庫の構造を示す図】

 
図を見ると、施工は横張りの板の型枠が使われ、型枠の間には「竹筒」がセパレーターとして挟まり、竹の穴の中をボルトが通り、ナットで締め付けられているから、基本は今と変わらない。
型枠の板と板の継ぎ目の処理は残念ながら分からないが、わざわざ描写していない点から考えると、後の打ち放し仕上げのように、“本実”ではなかった。
図を見ると打った後にモルタルで仕上げているから、実を入れてきれいに仕上げる必要はない。
 
ちゃんと図を見て初めて知ったが、壁体の垂直・水平方向にH形鋼が入っているではないか。
全鉄筋コンクリート造ではなく、鉄骨補強の鉄筋コンクリート造であった。
 
床は無梁板形式で、その配筋は、下端に集中するのは力学上正しいが、一部にH 形鋼が入るのはやはり全鉄筋コンクリートでは不安だったのか。
もし、壁も床も今のようにダブルの配筋にすれば補強の鉄骨は不要だったはずだが、これも第1号の宿命か。
 
 

孤高の建築家

ちょうどそのころ、辰野金吾は東京駅の構造を検討中で、佐野利器が鉄筋コンクリートを薦めるので、台湾ですでに森山松之助が実現していた電信局を見に行き、壁のあまりの薄さに不安になってやめた、と当時、辰野の下で設計に参加していた松本与作から聞いているが、この書庫も不安なまでに壁は薄い。
 
保岡は、三菱地所の筆頭建築家という高い地位にあり実績も大きかったが、組織には馴染めぬ性格の持ち主だったと伝えられ、結局、1912(明治45)年に三菱を去り、以後、小さな設計事務所を開き、大正期を通して日本最初の住宅作家としての地位を確立している。
図入りの啓蒙書を次々と出し、出版を通して知った施主の中小の住宅を次々にこなしている。
 
大量の中小の住宅を手掛けているが、現在、所在が確認されている例はほとんどなく、東京は本郷の〈旧平野邸〉しか私は知らない。
 
住宅だけでなく地方の一般建築も手掛け、残るものとしては、埼玉県川越市に1918(大正7)年の〈旧第八五銀行本店本館〉があり、白タイルを貼ったいかにも大正期のセセッションのデザインを感じさせる優品となっている。
 

【保岡勝也の旧第八五銀行本店本館(川越市)】
【保岡勝也の旧第八五銀行本店本館(川越市)】
【大正期のセセッションふうデザインの壁面】
【大正期のセセッションふうデザインの壁面】

 
 
 

著者  藤森 照信(ふじもり てるのぶ)

1946年長野県生まれ。
東京大学大学院博士課程修了。専攻は、近代建築、都市計画史。
東京大学生産技術研究所教授・工学院大学教授を経て、現在、工学院大学特任教授、東京大学名誉教授。
全国各地で近代建築の調査、研 究にあたる。
2016年7月に東京都江戸東京博物館の館長に就任。
建築家 の作品として、〈神長官守矢史料館〉〈タンポポハウス〉〈ニラハウス〉〈秋野不矩美術館〉〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉など。
著書に、『藤森照信の建築探偵放浪記~風の向くまま気の向くまま~』(経済調査会)、『アール・デコの館』『建築探偵の冒険・東京篇』(以上ちくま文庫)、『近代日本の洋風建築 開化篇』『同 栄華篇』(以上筑摩書房)、『銀座建築探訪』(白揚社)など多数。
2020年〈ラ コリーナ近江八幡 草屋根〉で日本芸術院賞を受賞。
 
 
【出典】


積算資料2023年8月号

最終更新日:2024-03-25

 

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