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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 関東大震災から100年 その4 -丸ビル-

100尺制限

関東大震災の前の段階ではRC造は決して主流ではなく、一部の先駆者が実験的に試みている程度で、主流は、大正3(1914)年に竣工した東京駅に顕著に見られるように煉瓦造、とりわけ鉄骨で補強した煉瓦造であった。
 
大正期に入るとオフィスビルの需要が急し、それまでの3~4階建て程度では済まなくなり、大正9(1920)年の市街地建築物法(後の建築基準法)の制定に当たっては、高層オフィスビルを念頭において、高さ「100尺制限」が定められる。
100尺とは約30m、階数でいうと10階建て。
なお、この高さ制限は長く守られ、戦後の〈霞が関ビルディング〉の時にやっと撤廃されている。

【〈三井貸事務所〉明治45(1912)年横河民輔設計 鉄骨造高層オフィスビルの最初
【〈三井貸事務所〉明治45(1912)年
横河民輔設計
鉄骨造高層オフィスビルの最初】
【〈東京海上ビル〉大正7(1918)年曾禰中條事務所設計 鉄筋コンクリート造 丸の内の行幸道路の濠端にあった】
【〈東京海上ビル〉大正7(1918)年
曾禰中條事務所設計
鉄筋コンクリート造
丸の内の行幸道路の濠端にあった】

 
 

アメリカ方式の採用

では10階建てのビルはどんな構造で作られるのか。
当時そんな高いオフィスビルを必要としたのは日本橋方面を本拠地とする三井不動産と、丸の内に陣取る三菱地所の2社しかなかった。
 
三井は、明治最後の年というか大正最初の年(1912)に、日本橋に6階建ての〈三井貸事務所〉を横河民輔に託して建設し、構造は鉄骨造で、平面はアメリカのオフィスを手本とし、中央に“光井戸(トップライト)”を貫き、エレベーターを使うところまではいいが、アメリカのオフィスビル平面の生命ともいうべき“コアプラン”を明白には採っていなかった。
 
日本橋での三井の実験をにらみながら、三菱は丸の内のビル建設にあたり、明治期のイギリス系から大正期に入ると一気にアメリカ系へと舵を切る。
 
舵の切り方は大胆で、設計は日本でするものの、施工はアメリカに託す。
具体的には、ニューヨークの超高層オフィスビルに実績を持つアメリカを代表するフラー社に建設を任せる。
このことは、大正以後の日本の10階建てビルはRC造ではなく鉄骨造中心に進むことを意味していた。
なぜなら、当時、ニューヨークの高層ビルはすべて鉄骨造だったからだ。
 
なぜ三菱は、鉄骨造とし、施工をフラー社に任せる決断をしたのか。
 
丸ビルである。
 
明治27(1894)年の〈三菱一号館〉以後、営々と丸の内のオフィスビル街建設を進めてきたが、その中心は今と違い丸の内といっても南の馬場先門の通りだった。
それが大正3年に東京駅が完成し、駅前の通りも拡幅されて天皇が通る「行幸道路」となり、丸の内の中心は北上して東京駅前に移ることが決まり、三菱は駅前の門というか門の位置に〈丸ビル〉を、その並びの皇居前に〈郵船ビル〉を計画する。
ともに東京のシンボルとなるに違いない。
 
そして丸ビルの案を作り、施工計画を立てて工事期間を計算した。
先行して向かい側に大正7(1918)年に完成していたRC造7階建ての〈東京海上ビル〉を例に計算すると、なんと18年もかかる。
現場ですべて作業するしかない鉄筋コンクリート造は、工場で作り現場で組み立てる鉄骨造に比べ工期が長くなるのは当然だった。
ところが鉄骨造であれば、フラー社は2年半で可能だという。
 
もちろん三菱はフラー社と契約し、丸の内の一画に新たに設立された“東洋フラー社”には30名近いアメリカ人建築関係者が陣取る。
地所の筆頭建築家の桜井小太郎が描いた図面をニューヨークに送り、鉄骨が加工されて日本に運ばれ、日本の職人を使いアメリカから持ち込んだ最新鋭の建築機材を駆使して鉄骨を組み立てて骨組みとし、中空煉瓦を積んで壁とし、その上にタイルを貼り、テラコッタを取り付け、予定通りの工期で完成した。

【在りし日の丸ビル。角が丸く,よって「丸ビル」と誤解した地方出身者を私は2人知っている】
【在りし日の丸ビル。
角が丸く,よって「丸ビル」と誤解した
地方出身者を私は2人知っている】
【丸ビルの反対側は丸くなかった】
【丸ビルの反対側は丸くなかった】
【入口回り。地味な造りだった】
【入口回り。地味な造りだった】
【仕上げは大正12年の竣工時ではなく,震災後の大改修を,戦後さらになぞったもの】
【仕上げは大正12年の竣工時ではなく,
震災後の大改修を,戦後さらになぞったもの】

 
 

丸ビル初めてものがたり

と書くと、ことはスムーズに運んだように思えるが、その昔、現場の様子について当時の関係者にインタビューしたところ、日本の建築界には初めてのことばかりで大変だったという。
 
初めてのことは二つあった。
一つは、建設技術。
当時、建物を作るのは全て人力に頼っており、土工がスコップで基礎を掘り、基礎杭はヨイトマケで打つ。
重い鉄の塊を三本脚の支柱の上端に吊るし、大勢で引っ張り揚げ、一気に落下させた衝撃で打ち込むのだが、その引き揚げる時“ヨイトマケ”の掛け声が入る。
コンクリートは手で練り、その上に鉄骨を立てる時も、さらに梁を架ける時もロープをかけて大勢で引っ張り揚げていた。
足場はもちろん杉丸太を縄で縛る。
現場にあるのは大量の人手と道具と建材だけで、機械っぽい道具といえば今も庭師が使うチェーン・ブロック(人力による簡単な荷揚げ器)くらい。
もしこうした人手だけが頼りの施工なら、10階の大型ビルに18年かかっても仕方がない。
 
それに比べアメリカ式施工は多くが機械化されており、まず日本側が驚いたのは資材の輸送で、港に荷揚げされた鉄骨が、牛の曳く荷車ではなくトラックで現場に運び込まれる。
杭打ちは、スチームエンジンによる鉄製の杭打機。
足場は各階ごとに上がってゆく鉄製の垂直移動式。
鉄骨を持ち上げるのは「ガイデリック(階ごとに据え付けるクレーン)」。
 
 

剛性不足

以上のような施工の機械化は目を見張り、そして学べばよかったが、施工の発注の仕方が日本とはまるで違っていた。
 
日本で建物を作ったり土木工事をする場合、まず設計を固め、次にいくらで作るかを建設会社と
予算を決め、後は任せるという昔も今も変わらない請負方式を採る。
欧米は、設計を固める段階までは同じだが、施工は大きく異なり、基礎工事、コンクリート工事、足場、鉄骨工事、といったように工事の内容ごとに分けて発注し、その工費は施主の委託を受けた設計者(建築の場合であれば建築家)が直接工事をコントロールする“直営方式”を採る。
丸ビルと郵船ビルの場合、設計は前者を三菱地所が、後者を曾禰中條事務所が手がけ、実際の工事はフラー社が進めるのだが、各工事ごとにその資材の用意と職人の手配とそして工費のチェックを日本の設計者が行うという超面倒な方式を採った。
 
直営方式は建築家には面倒極まりなかったが、アメリカ流の機械化工事は大いに役立ち、予定通りに工事は完成したが、今から100年前のその年は大正12(1923)年に当たっていた。
完成直後、関東大震災が襲い、丸ビルと郵船ビルという東京駅前の新しいシンボルは激しく揺れ、鉄骨は大きく撓み、もちろん倒壊には至らなかったし死者も無かったが大問題が生ずる。
鉄骨の大きな撓みがもたらす変位に壁に積まれていた中空煉瓦とその上にモルタル接着されていたタイルとテラコッタは崩れたり亀裂が走ったりして、オフィスビルとしては一時使用不能に陥った。
 
原因は、今となってはに信じがたいが、肝心の鉄骨が細かった。
もちろんすでに日本の耐震構造学も鉄骨の力学も確立しているのに細くなってしまった原因こそ俄に信じがたかった。
丸ビルについては、ニューヨークでの日米打ち合わせの時、部下の山下寿郎が下手な英語で書いた補強案を建築界きっての英語使いで知られていた桜井小太郎が、その下手さを恥じてフラー側に見せなかった。
 
郵船ビルの場合は、内田祥三が描いて送った鉄骨断面をフラー社が過大とみなし、ハリケーンの風力に合わせて勝手に細くしてしまった。
トラックで運び込まれたアメリカ製の鉄骨を前に、どうしたら現場サイドの工夫で補強できるか知恵を絞ったものの、薬石効なく、震災の後の大改修を余儀なくされたのだった。

【解体時の梁の様子。当初,鉄骨の上に防火のため煉瓦を巻いていたことが分かる】
【解体時の梁の様子。
当初,鉄骨の上に防火のため
煉瓦を巻いていたことが分かる】
【一階ホールの柱と梁は,心配になるほど細く,弱い地震でもグラグラ揺れた。鉄骨の上に鉄筋とコンクリートを入れて補強している】
【一階ホールの柱と梁は,
心配になるほど細く,弱い地震でもグラグラ揺れた。
鉄骨の上に鉄筋とコンクリートを
入れて補強している】

 
 

著者  藤森 照信(ふじもり てるのぶ)

1946年長野県生まれ。
東京大学大学院博士課程修了。専攻は、近代建築、都市計画史。
東京大学生産技術研究所教授・工学院大学教授を経て、現在、工学院大学特任教授、東京大学名誉教授。
全国各地で近代建築の調査、研究にあたる。
2016年7月に東京都江戸東京博物館の館長に就任。
建築家の作品として、〈神長官守矢史料館〉〈タンポポハウス〉〈ニラハウス〉
〈秋野不矩美術館〉〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉など。
著書に、
『藤森照信の建築探偵放浪記~風の向くまま気の向くまま~』(経済調査会)、
『アール・デコの館』『建築探偵の冒険・東京篇』(以上ちくま文庫)、『近代日本の洋風建築開化篇』『同栄華篇』(以上筑摩書房)、『銀座建築探訪』(白揚社)など多数。

2020年〈ラコリーナ近江八幡草屋根〉で日本芸術院賞を受賞。
 
 
【出典】


積算資料2023年9月号
積算資料2023年9月号

最終更新日:2023-08-23

 

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