• 建設資材を探す
  • 電子カタログを探す
ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 東日本大震災から7年 とりもどそう 笑顔あふれる女川町(おながわちょう)

 
女川町の復興まちづくり事業も7年を経過し,復興のステージもいよいよ平成30年度は最終段階。平成29年度も数多くの自立再建宅地や災害公営住宅の引渡しが完了した。平成28年度末の時点では,自立再建,災害公営住宅の引渡し,供給状況,進捗率は65%であったが,29年度末の時点では97%に達した。すべての町民の協力や関係者のたゆまぬ努力が実って,ほぼ計画どおりに完了することが確実になった。
 
 

宿願の出島架橋が着工

以前にも触れているが,本町は町中心部と二つの離島,半島などに点在する漁業集落で形成されている。二つの離島は「江島」と「出島」。神奈川県の江の島や長崎県の出島と同名である。「えのしま」「いずしま」と呼ぶ。いずれの島も周囲は豊かな三陸の好漁場で磯根資源が豊富であり,特に出島ではギンザケなどの養殖業も盛んに行われていた。
 
その出島も震災により,島の住宅のほとんどが倒壊,流失し,島民約500人(当時)のうち25人が犠牲となった。震災直後,生き残った全島民は島外に避難せざるを得なかった。
 
江島は,集落の多くが島の高台に形成されていたことから,大津波による大きな被害は免れた。また,江島は,本土から14kmほどの沖合に位置するが,出島は300mほどしか離れていない。それでも,本土と島を結ぶ交通手段は航路だけで,台風や低気圧などが接近した荒天時には欠航することもあり,どちらの島民も本土に暮らす者には分からない労苦を幾多となく強いられてきた。
 
出島の南方,牡鹿半島の対岸には,女川原子力発電所が立地し,離島は,有事の際の避難誘導が喫緊の課題となっていた。出島島民挙げて架橋建設の早期の着工が熱望されていた。
 
そうしたことから,遡ること約40年前の昭和54年に「出島架橋建設促進期成同盟会」が立ち上げられ,宮城県に対し,架橋事業実現の要請を継続してきていた。
 
出島には,女川町立第四小学校,第二中学校があったが,震災の影響により島外避難したことなどを契機として,平成25年4月に町内にあった第一小学校,第二小学校,第四小学校,女川町立女川第一中学校,第二中学校をそれぞれ再編,女川小学校,女川中学校に統合した。
 
現在,出島には震災前の6割に当たる300人ほどが住民登録しているが,実際に居住しているのは100人ほどだった。小中学校の統合に伴い,子供を持つ親は,本土の仮設住宅に住みながら,島での生業を続けている状況であった。
 
町が島民の要請を受け,架橋の早期実現を目指すには理由があった。震災での原発事故が発生した際の島民避難道としての機能はもちろんのこと,震災後の人口流失が加速していたためだ。町では危機感を募らせ,町が事業主体となって整備することを決断した。
 
架橋整備の朗報は平成27年3月。島民や町,関係者の粘り強く,地道な活動が国を動かし,出島架橋は,事業に社会資本整備総合交付金の通常枠を活用して整備させていただくことが決定。架橋部を含めた延長約3km,総事業費約93億円の架橋整備事業は,平成29年3月22日,島民,国,県,町関係者が出席し着工式と安全祈願祭が開かれ,本格的なスタートを切った。完成目標年度は平成34年。完成後は,避難道としての役割をはじめ,緊急時医療の不安解消や水産業の振興など生活産業道路として飛躍的な役割が期待されている。
 

架橋着工式。震災後,島を離れざるを得なかった住民も多い。架橋整備と同時に交流人口の増加や定住促進に向けた取り組みも急がれる




 

出島架橋完成後の合成写真(イメージ)。本土と島の距離は,わずか300mである。写真奥の赤で囲んだ施設は女川原子力発電所。




 



 

役場新庁舎の建設着工へ

震災から7年目を迎えた平成29年3月31日,町はいよいよ役場新庁舎の建設に着手した。場所は,JR女川駅に隣接する南側の高台で,町のへそ部分にあたる。
 

新役場庁舎全景。震災前の庁舎の西側に近接する場所で,地盤高は庁舎1階部分で約20mとなっている




 
震災前は,旧女川駅周辺に役場庁舎,生涯教育センター(震災前は「生涯教育センター」と呼称。再建後は「生涯学習センター」と呼称),保健センターは,それぞれ別棟で建設されていたが,震災を契機として安全な高台へ移転・集約した複合施設とし,コンパクトで利便性,機能性の高い施設とすることとした。
 
また,建物は街,海側へ向けて,開放的な眺望を確保するとともに駅や商業エリアの低地部と住宅のある高台を機能的,景観的に「つなぐ」役割を果たす。高台,低地部のいずれのレベルからもアクセスが可能となるようなアプローチを設けた。役場庁舎は,1階から3階までが執務室,議場などがある。また,庁舎の南側に併設した生涯学習センターは,約400席のホールと,研修室,図書室からなり,そのほか庁舎北側に保健センターや子育て支援センターを整備する。総事業費は,41億3,700万円で平成30年9月の完成を目指す。
 

女川町庁舎等完成予想図。庁舎敷地の海側(東側)には,震災により犠牲となられた方々の霊を慰め,震災の記憶と教訓を後世に語り継いでいくための慰霊碑を建立する(女川町新庁舎イメージパース)




 



 



 

トレーラーハウス宿泊村エルファロが移設

太平洋に面した本町は,世界三大漁場の一つ,「金華山沖」を控え,港に水揚げされる豊富な水産漁獲物に支えられ,水産・漁業の町として発展してきた。
 
また,恐山,出羽三山と並び称される奥州三霊場「金華山」の玄関口として,古くからたくさんの参拝客が訪れる「観光の町」でもある。平成6年には,通過型から滞在型の観光への転換を目指し,水産観光センターと水産物流通センター,通称「マリンパル女川」をオープンさせた。マリンパル女川は,町中心部の高台にある総合運動場とともにスポーツ観光の一翼を担い,年間70万人にのぼる観光客の受け皿となっていた。
 
しかし,震災による大津波で被災。施設は震災後に解体撤去した。
 
また,離半島部の民宿を含め,震災前,本町の宿泊施設(ホテル・旅館・民宿)は,合わせて53施設,収容人数は1,547人を数えた。震災翌年の平成24年には8施設,469人の収容数まで激減。宿泊施設の減少は,その後の復興事業に携わる多くの関係者への影響はもとより,観光客への影響も大きかった。本誌2013年4月号でも触れているが,町内の安全な高台には応急仮設住宅を建設したため,宿泊施設の再建場所確保は困窮を極めた。早くから復興支援に駆けつけてくれたボランティア,応援自治体職員の多くも,隣接市町から毎日遠距離通勤をしている状況であった。
 
そうした中,国・県,関係機関の力強い支援と,何より「被災した町に宿泊施設を」という民間関係者の強い願いが結実し,平成24年12月末,被災地初のトレーラーハウス宿泊村「エルファロ」が誕生した。40台のトレーラーハウスには63室195人の収容能力がある。
 
宿泊施設としての利便性等を考えれば,施設はできるだけ駅周辺などへの立地が望ましかったが,町内の至るところで復興まちづくり事業の造成工事が行われていた関係上,当初は駅から2kmほど離れた清水地区の町営住宅跡地に整備せざるを得なかった。同地区は,平成29年度中の用地嵩上げが計画されており,その間,宿泊施設としてのトレーラーハウスを設置できるためだった。いよいよ清水地区の造成工事の着手にあたり,トレーラーハウスは,JR女川駅の南側に隣接する町有地へ移転・設置されることになった。その結果,今では利便性はもちろんのこと,駅前商業エリアとの連動性が確保され,滞在型観光や交流人口の拡大に必要不可欠なものとなった。本来,応急仮設建築物であるトレーラーハウスが本設再建建築物として国内で初めて許可を受けるまでには,宮城県をはじめとする関係各位のご尽力の賜物であり,この場を借りて深く感謝したい。
 

JR女川駅南側に移設された宿泊村エルファロ。そのカラフルな色合いがまちの雰囲気を一層明るく引き立てる




 



 



 

コバルトーレ女川JFL昇格

平成29年11月26日,ビッグニュースが町に飛び込んできた。本町を拠点とするサッカークラブ「コバルトーレ女川」が見事,日本フットボールリーグ(JFL)への昇格を決めたのだ。
 
平成18年4月に創設されたコバルトーレ女川は,社会人リーグ2部を経て,平成22年に1部に初参戦。震災により一時活動を休止したが,平成28年(本誌2017年3月号掲載)から2連覇を達成した。
 
メンバーが地元企業で働きながら,地域貢献を掲げ,震災後も数多くのボランティア活動を続けてきた地元クラブチーム。これまでたくさんの人々の応援や支えがある中,それに見事に応え勝ち抜いた姿に多くの町民が感動した。「まずは残留。そして,次はJ3とチームの近江弘一代表。
 
奇しくも今季の第20回JFLは,東日本大震災から丸7年となる平成30年3月11日に開幕。1stステージ第1節,前回リーグ優勝チームのHonda FC(静岡県浜松市)との対戦を皮切りに新たなステージに向けての挑戦が今始まった。
 

見事JFL昇格を決めたコバルトーレ女川の蒼き勇者たち
(写真:石巻日日新聞社提供)




 

住宅・宅地供給率は96.5%。道路整備率は76%

平成29年度内も数多くの自立再建宅地や災害公営住宅の引渡しが完了した。特に中心部では,集合系の災害公営住宅は30年3月末までに完了し,残りは,宮ケ崎地区に建築中の戸建29戸のみとなっている。
 
リアス式の狭隘(きょうあい)な地形の本町は,物理的に山地を切土造成して整備しなければならず,多くの年月を費やしたが,ゴールは目前に迫っている。
 
宅地供給と同時に,被災した道路,国道や県道,町道の整備も既存生活圏や復興造成工事との調整で,随時,その位置を切り回しながら整備を進めてきた。
 
平成30年度の道路整備完了を目指し,関係者が一丸となって取り組んでいるところである。
 



 

住宅・宅地供給率

道路整備率(平成29年11月時点)




 



 

雇用環境の整備も急務

復興まちづくり事業の進捗に伴い,町内では少しずつ,段階的に水産加工場や冷凍冷蔵施設が本設再建されていた。駅前商業エリアでもテナント型商業施設や自立再建商業施設が建ち並び,活気を取り戻しつつあったが,人口流出に伴う人手不足が顕著であった。
 
本町は,ハローワーク石巻圏域に属するが,平成29年9月時点の有効求人倍率は1.72倍となり,平成24年8月から62か月で1倍を超え,高止まりとなっている。
 
しかし,職種別にみると,平成29年9月時点の有効求人倍率で,「建設・躯体」が14.40倍,「保安・警備」が9.22倍,「土木工事」が5.70倍となる一方,「事務」は0.39倍,「運搬・清掃等」は0.84倍など,職種により大きな開きがあり,ミスマッチが顕著であった。
 
また,平成29年4月末時点の石巻管内高校生(平成29年3月卒業生)の管内就職率は6割,管内大学の学生では1割にも満たなかったことから,中長期的に石巻管内高校生,大学生の地元就職率を高めていく必要もある。
 
一方,女川町内の雇用環境は,99%が中小企業である。平成29年5月に町が商工会会員向け309社に実施した「採用状況アンケート」では,回答のあった74社のうち,26社と3割以上の企業が「現在募集中の求人有」と回答。町が水産加工団地の企業6社に対し実施したヒアリングでは,どの企業もベトナムなどからの外国人研修生を活用し,労働力を確保していることが分かった。
 
外国人研修生以外の採用については,ほとんどの企業が「求人をハローワークに掲載しても応募がない」等,採用に苦慮している様子がうかがえた。そのような状況から,いくつかの課題が見えてきた。①町内の多くの企業が人材充足していないこと,②職種ごとのミスマッチ,③町内に高等支援学校のみで高校がなく,町内の子ども達には町内の求人情報を十分に知り得る機会がなく,就職時に町外へ流出している可能性が考えられること,④ハローワークに求人掲載するも充足できない等,効果的な手立てがないことである。
 
慢性的な人材,人手不足となっている今日,新たな雇用確保のための施策を実施することと並行し,今いる人材,人手で生産性向上を図ることが急務だ。
 

町内には魅力的な店舗が少なくない。子どもたちにそのことを知ってもらう機会をふやしていく必要もある(地元の仕事をプチ体験。「しごと発見ツアー」から)




 

復興最終年度へ向けて

平成23年3月11日に発生した東日本大震災は,マグニチュード9.0という過去最大級の地震と私たちの想定をはるかに超えた大津波により,町に未曾有の大災害をもたらした。数多くの尊い生命や財産が奪われ途方に暮れた。強大な自然災害に対しては,なすすべがなく,ハード面での完全な防災には限界があることを強く思い知らされた。
 
そして町民,行政が自助,共助,公助の考え方に基づき,それぞれの役割分担のもと連携していくことが重要であることを改めて痛感,認識させられた。
 
今後,国内の人口が確実に減少していく中,町が持続的に地域活力を原動力として邁進するため,震災からの復興を契機に公と民が一体となって,引き続き,新しいまちづくりを進めていく。復興まちづくり事業は,その先の新しいステージのための土台であり,そこが新たなまちづくりのスタート地点であることは疑う余地がない。
 
 
 

女川町産業振興課 課長  柳沼 利明(やぎぬま としあき)

 
 
 
【出典】


積算資料2018年4月号



 

最終更新日:2019-02-19

 

同じカテゴリの新着記事

ピックアップ電子カタログ

最新の記事5件

カテゴリ一覧

話題の新商品