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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第22回 奇跡の正倉院 ─ なぜ、奪われなかったか ─

 

公益財団法人 リバーフロント研究所 代表理事
竹村 公太郎

 

奈良の正倉院展

第65回正倉院展が10月26日から11月11日で開催された。
10月に入ると東京の山手線の電車内にもその広告が出ていた。
(写真-1)は第65回の展覧会の目玉の「漆金薄絵盆」である。
 

写真-1 「第65回正倉院展」より「漆金薄絵盆」 上は全体の盆、下は部分の絵

写真-1
「第65回正倉院展」より「漆金薄絵盆」上は全体の盆、下は部分の絵


 
毎年この展示会が終わると、奈良の山々は紅葉の盛りから冬の色に変化して行く。
そのため、関西ではこの展示会が良い歳時記となっている。
 
15年前の1997年、大阪で単身赴任をしていた私は、時間つぶしに「正倉院展」へ行った。
いつもは静かな国立博物館に大勢の人々が向っていた。
 
1時間以上の長い列のあと館内に入った。
抑制された照明のガラスケースの中に、絵画、金工、漆器、刀剣、ガラス器などが何十点も展示されていた。
 
どれも古代の美術工芸品であり、大切な歴史的文化財であり、高価な宝物であることは肌で感じとれた。
 
特に、この展示会の解説文に驚かされた。
 
この正倉院展で公開された品目のうち何十点かは、毎年変更されるという。
正倉院には、確認されているだけで9,000点の宝物があり、すべての宝物を見るためには何十年もかかってしまうという。
 
この莫大な宝物が1千年以上も無事だったことに圧倒された。
 
この正倉院の存在は、奇跡であった。
 
 

奇跡の正倉院

東大寺にある正倉院は、奈良時代の8世紀中ごろ倉庫として建設された。
聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめ、天平時代を中心とした宝物を保管する倉庫である。
収蔵されている宝物は、中国、朝鮮だけでなく遠くペルシャからの宝物も含まれている。
 
この正倉院は、まさにシルクロードの終着駅であった。
 
正倉院は高床式で、壁面は校木を積み重ねた校倉造りである。
湿気が高いと校木が湿気を吸って膨張し、湿った空気を室内に入れない。
乾燥すると校木は乾燥して縮み、室内の通風を良くする。
 

写真-2 正倉院と校倉造り

写真-2 正倉院と校倉造り


 
この巧みな校倉造りが、高温多湿の日本で宝物を保管し守った。
この正倉院の保存機能は奇跡的なことであり、正倉院が「世界の宝庫」と呼ばれる所以である。
 
正倉院の奇跡は、この校倉造りに注目が集まる。
しかし、この正倉院には、それ以上の、もう一つの「奇跡」があった。
 
それは「盗まれなかった」奇跡であった。
 
なぜ、盗まれなかったのか?
 
正倉院展を観て回っているうちに、この謎に包まれてしまった。
 
 

交流軸から外れた奈良

現在、正倉院は宮内庁が管理している。
しかし、明治以前、正倉院は東大寺によって管理されていた。
 
正倉院が建てられた時代、奈良盆地は日本文明の中心であった。
その時の奈良には、富も権力も人も集中していた。
正倉院も朝廷によって厳重に警戒され、安全は万全であった。
 
しかし、794年、都が奈良から京都へ遷都されて以降、奈良は日本の歴史に登場しない。
奈良は大いなる眠りに入っていた。
 
平安時代から武士たちの時代となり、源平の戦いを経て源氏が勝利し、政治の中心は関東の鎌倉に移った。
その後、南北朝の混乱を経て、再び京都で武士の室町時代となった。
 
1467年に応仁の乱が勃発した。
秩序を失った日本列島は、100年以上の戦国の世に突入して行った。
織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康と覇権が移り、1603年、徳川家康が江戸幕府を開府し、やっと平和な時代を迎えた。
 
この1千年の間、日本史の舞台は大阪、京都、江戸であった。
 
その大阪と京都を結ぶ動脈は淀川であった。
京都と江戸を結ぶ動脈は、東海道と中山道であった。
そして、日本列島の周囲には海運ネットワークが形成されていた。
 
ところが、奈良は淀川から外れていた。
東海道からも外れていた。
さらに、奈良は海に面しておらず、日本列島の海運ネットワークからも外れていた。
 
奈良は躍動する日本史の交流軸から外れていた。
(図-1)で、奈良盆地が日本のネットワークからはずれていたことを示す。
 

図-1 奈良市の人口の変遷

図-1 奈良市の人口の変遷


 
 

奈良の大いなる眠り

明治になり、国鉄と近鉄が奈良盆地に敷設されるまで、奈良は山々に囲まれた田圃のなかで眠りについていた。
 
奈良の1千年の眠りには根拠がある。それは、奈良の人口の変遷である。
 
(図-2)は奈良市の人口の変遷を示す図である。
国土交通省の奈良国道事務所の労作である。
 

図-2 奈良市人口の歴史的推移

図-2 奈良市人口の歴史的推移


 
平城京が栄えた奈良時代、奈良には20~30万人が住んでいた。
しかし、奈良から京都へ遷都されると、人口は3万人に激減してしまう。
その後、明治までの約1千年の間、奈良の人口は増えることはなかった。
江戸時代、日本の総人口が1,000万人から3,000万人に激増したときでさえ、奈良の人口は増えなかった。
 
この図を見ているかぎり、奈良は躍動する日本の歴史から忘れられ、大いなる眠りについていた。
 
この1千年の間、何度も大混乱が起こり、殺気立った武士の隊列が行き交い、血に飢えた夜盗や敗残兵や流浪の民が行き交った。
 
その間、奈良の正倉院を守る政治権力や強い武装集団はいなかった。
しかし、その正倉院は、誰にも襲われなかった。
 
このようなことは世界の歴史でありえないことであった。
 
 

盗掘され、襲われる遺跡

世界の歴史遺産は、どれも盗掘され、破壊されている。
偶然、海底に沈んだり、地中深く埋まった遺産は別にして、盗掘から逃れた遺産はない。
時代を制覇した王たちが腐心したことは、いかに自分の墓が荒らされないかであった。
王たちは深く隠し、複雑に守った。
しかし、王たちの遺産は必ず人々によって盗掘され、夜盗集団に襲われた。
 
それが人間社会の相場であった。
 
ところが、正倉院は襲われず、盗まれもしなかった。
 
正倉院に多数の宝物があることは誰もが知っていた。
その正倉院は寂しい奈良で、これ見よがしに高床式の木造で立ち尽くしていた。
その姿は、いかにも襲ってくれと云わんばかりであった。
武装した20人もの盗賊なら、いつでも宝物を強奪できたはずだ。
 
何故、正倉院は襲われなかったのか?
 
日本はそれほど治安が良いのか?
日本人は特別に倫理観がすぐれているのか?
 
どうも腑に落ちなかった。
 
その疑問は心の中に沈んでいった。
 
 

宝物の神秘の力?

それから10年が過ぎた。
 
奈良県が主催する会議に呼ばれた。
その会議で、奈良の歴史に造詣の深い3人の教授陣と同席した。
正倉院が襲われなかった理由を聞く良い機会であった。
 
会議の間、それを聞くタイミングを探していた。
話題は奈良の歴史に移っていった。チャンスとばかりに、心を弾ませながら発言した。
 
「何故、正倉院は盗掘に遭わなかったのですか?正倉院を武装集団が守っていたとは思えません。
 世界史の中で、宝庫は必ず襲われています。ましてや正倉院は木造です。何故なのでしょうか?」
 
3人の教授の方々は答えに窮していた。
少し間をおいてある教授が
「源平の乱の大火事の際、正倉院の手前で火は止まりました。正倉院の『宝物の力』が守ったのでしょう」とユーモアで答えられた。
会議の出席者たちも笑って、その場が過ぎ去ってしまった。
 
正倉院の宝物の神秘の力が、盗掘から正倉院を守った、というのは話としては面白い。
しかし、とうてい納得できるものではない。
 
正倉院の謎はポツンと私の中で残されていた。
 
 

近鉄奈良駅ビルの模型

会議が終わって近鉄奈良駅に向った。
京都行きの特急まで30分あった。
興福寺や東大寺へ行くには時間が足りない。
切符を買った後、さてどうしたものかと構内を見回した。
その時、ふっと案内が目に飛び込んできた。
 
奈良駅ビルの4、5階の「なら奈良館」の看板だった。
奈良の観光案内なのだろう。時間つぶしにはちょうどいい。
その館に向った。
 
やはり、そこは観光館であった。
内容はビデオ映像と写真の展示であった。
ぶらぶら見て歩いていると、あっという間に出口になってしまった。
出口の広間に、5m四方の模型ジオラマが置いてあった。
その模型は、江戸時代の奈良の町であった。
 
それを見たときには「なんだ、これは!」と声を出してしまった。
 
大きな箱全体に、ただただ民家がごちゃごちゃと詰まっていた。
これといった建物はない。
しかし、意識を集中して見ると、これら町家に埋もれるように寺社が見える。
 
このジオラマから目が離せなくなった。
 
正倉院の謎が解けた!
 
電車の時刻が迫っていた。
「なら奈良館」から飛び出し、コンビニで使い捨てカメラを購入し、急いで「なら奈良館」に戻った。
使い捨てカメラで模型を何枚も撮った。
(写真-3)が奈良の町家の模型である。
 

写真-3 なら奈良館 模型

写真-3 なら奈良館 模型


 
特急に飛び乗り、ビールの缶を開け、窓から夕方の新緑を眺めながら「そうだったのかー!」とつぶやいた。
 
あの奈良の町家の模型が、正倉院の謎の解答だった。
 
 

濃密な奈良の町

「都が京都へ遷都されて以降、奈良の人口は激減し、そのまま明治の近代化を迎えた。奈良は大いなる眠りについていた」
と私は表現した。
 
私は自分自身のこの表現に囚われてしまったのだ。
それは、奈良は閑散で寂しい田舎だった、という思い込みであった。
 
その思い込みが間違っていた。
 
興福寺や東大寺の背後には、うっそうとした春日山がある。
模型は興福寺や東大寺の前方の町屋を再現していた。
そこはびっしりと町家で埋まっていた。
 
平城京や平安京や江戸の街には、広い街路が配置されていた。
木造の都市の大敵は火事だ。
その火事から町を守るため広い街路が必要であった。
 
ところが、この奈良の町には、広い路がない。
町の中を狭い路地が迷路のように曲がりくねっている。
 
現在の奈良には、広い大宮通りが県庁に向っている。
県庁付近では鹿たちが悠々と歩き回っている。
しかし、当時の奈良の町は、今からは想像もできないほど狭く、凝縮した町だった。
たしかに、奈良盆地全体の人口は多くはなかった。
しかし、奈良の町そのものは、人口が密集した濃密な町屋であった。
 
都が奈良から京都へ遷都してからは、奈良は交流軸からはずれた。
奈良の人々はこの町屋に集まり、肩を寄せ合うように濃密な共同体を形成していた。
 
この密集する町家が、正倉院を守っていた。
 
 

町衆が守った

この町で生活する人は、みな顔馴染みであった。
隣の家族も、向こうの家族も、小さい頃からみな知っている。
 
このような濃密な町に、不審な者や犯罪者など一歩も立ち入れない。
男衆だけではなく、女衆や子供の視線も怪しい者の侵入を防いでいた。
 
怪しい者たちが正倉院にたどり着くには、この町屋の狭い路地を抜けなければならない。
密集する家々の内側から、町屋の男衆や東大寺の僧兵が待ち構えていた。
彼らは槍を構え、怪しい者が路地に浸入してきたときに、何本もの槍をただ突き出せばよかった。
 
夜盗や狼藉者にとって、この迷路は危険過ぎた。
盗賊たちは、正倉院の宝物を奪うことを諦めた。
 
正倉院が守られた理由は、日本人の道徳心や倫理観ではない。
 
奈良の密集した町家と、狭い路地と、そこに住む人々の存在が、正倉院を守ったのであった。
 
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

公益財団法人リバーフロント研究所代表理事、非営利特定法人・日本水フォーラム事務局長、首都大学東京客員教授、
東北大学客員教授 博士(工学)。
出身:神奈川県出身。
1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。
02年に退官後、04年より現職。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「土地の文明」(PHP研究所2005年)、「幸運な文明」(PHP研究所2007年)、
「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、
「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)など。
 
 
 
【出典】


月刊積算資料2014年1月号
月刊積算資料2014年1月号
 
 

最終更新日:2014-07-17

 

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