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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第76回 公共事業と住民反対運動─ 理に叶い、法に叶い、情に叶う ─

不思議なトンネル

JR東日本の品川駅と田町駅の間に、天井が異常に低いトンネルがあった。
残念ながら山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」の建設によって通行ができなくなった。
 
そのトンネルは道路構造令を無視していて、高さ制限は1.5mと異常に低く、幅も狭く、一方通行であった。
大きな社名マークを屋根に乗せているタクシーは、天井を擦ってしまうほどであった。
(写真- 1)が、トンネルを通過していく自動車である。

【写真- 1  品川~田町高輪架道橋JR線】
【写真- 1  品川~田町高輪架道橋JR線】1

 
このトンネルは第一京浜側の高輪と海側の港南を連絡する大切な通路となっていた。
このトンネルの生まれた素性を調べてみた。
 
JR東日本の電話相談に問い合わせても「あれは道路トンネルなので分からない」という。
道路管理者の東京都の芝浦港南総合支所に聞くと「トンネルを造ったのは旧国鉄で、東京都はそれを引き継いだだけ。
JRに聞いてくれ」という返事が帰ってきた。
 
鉄道も道路も、低いトンネルは自分の責任ではない、と言い張っているようだ。
生みの親を失った「孤児のトンネル」である。
 
実は、この法例違反のトンネルは、日本の歴史の生き証人であった。
 
 

海の上を走る蒸気機関車

嘉永6(1853)年、米国のペリー提督が黒船で日本に現れた。
その黒船の動力は石炭を燃やした蒸気であった。
熱が強力な動力になることに日本人は心底驚き、欧米文明に圧倒された。
 
明治5(1872)年、蒸気エンジンは近代の象徴の蒸気機関車となって日本に登場した。
多くの絵師がその蒸気機関車を描いている。
その1枚が(図- 1)の三代目広重の「東京品川海辺蒸気車鉄道之真景」である。

【図- 1 東京品川海辺蒸気車鉄道之真景 広重(三代目)】
【図- 1 東京品川海辺蒸気車鉄道之真景 広重(三代目)】

 
旧東海道、今の第一京浜を多くの人々や馬車が行き交っている。
その向こうの土手を、蒸気機関車が煙を吐いて優雅に走っている。
この土手は海の上にあった。
 
その土手にあるトンネルを小さな漁舟が潜ろうとしている。
海の中に土手を築いたため、漁にでる舟のためのトンネルが必要であったのだろう。
ここに描かれている小さなトンネルが、JR線の品川と田町間のあの不思議な小さなトンネルである。
 
あの「孤児のトンネル」の誕生を、広重はしっかり描いてくれていた。
 
 

なぜ、海の上を走るのか?

なぜ、日本最初の鉄道線路は海の中に造られたのか?
その答えは江戸末期の古地図を見れば推定できる。
高輪周辺の旧東海道筋には名門大名たちの屋敷がびっしりと建ち並び、ここに居住していた旧大名たちが黒い煙を吐く機関車が藩邸の横を通るなどとは許さない、と反対の声を上げたからである。
 
新橋~横浜間の鉄道は、明治政府の威信をかけた事業であった。
やっかいな住民からの反対に遭遇した鉄道事業者は、突拍子もない案を出した。
50mほど離れた海に土手を築き、土手の上に蒸気機関車を走らせるというものであった。
 
確かに海の中に人は住んでいない。
しかし、高輪から品川一帯は優良な海苔漁場であった。
今度は漁業者から強い反対の声が上がった。
漁業者には金銭補償だけでは収まりがつかなかった。
漁業者たちは漁業の継続も要求した。
鉄道事業者たちは土手に小舟が通れるトンネルを設けるという提案でどうにか了解がとれた。
 
こうして蒸気機関車は海の上を走ることとなった。
不思議なトンネルは、日本近代国家の最初の公共事業が住民反対運動に遭遇した歴史遺産であった。
公共事業は必ず住民反対運動に遭遇する。
住民 反対運動がないのは公共事業ではない、とまで断言できる。
日本だけではない。
英語で“Not In My Back Yard”略してNIMBYという言葉がある。
これは「事業は認めるが、俺の家のそばはやめてくれ」という意味である。
 
公共事業遂行の関連法律と制度整備は、いつも住民反対運動の経験を踏まえたものとなっていった。
日本の公共事業の歴史で、最も激しく、辛い経験が松原ダム、下筌ダムの反対運動であった。
そして、この反対運動が世界でも例のない法律と制度を生みだしていった。
 
 

松原・下筌ダム反対闘争

昭和28(1953)年、戦後復興に向かっていた九州に西日本大水害が襲った。
筑後川水系では1,000人を超える死者・行方不明者となり、水害対策と水力発電を中心とした筑後川総合開発が急務となった。
 
昭和31(1956)年、調査を急ぐ建設省はダム予備調査で、立ち木を無断伐採してしまった。
昭和33(1958)年、建設省はダム事業の説明会を開催した。
建設省はダム事業の説明はしたが、483戸の水没者への丁寧な対応と説明を逸してしまった。
昭和34(1959)年、水没者の室原知幸をリーダーとして「建設省は基本的人権を守れ!」と反対運動が開始された。
反対派の砦「蜂の巣城」が建設された。
昭和35(1960)年、建設省職員17名が負傷する水中乱闘事件も発生した。
昭和38(1963)年、事業差し止め訴訟は反対派の敗訴となり、昭和39(1964)年、蜂の巣城は落城した。
昭和40(1965)年以降、建設省は無断立ち木伐採を陳謝し、室原氏らと「水没者の生活再建」、「水源地域の振興」について話し合いを進めた。
昭和42(1967)年、定礎式が行われ、昭和45(1970)年に下筌ダムが完成、昭和48(1973)年に松原ダムが完成した。
 
ダム事業を担当した建設省は、この事業で一体何を考え、どう総括したのか?
それは、ダム完成と同時に動いた建設省の行政行為にはっきりと表れている。

【蜂の巣城】
【蜂の巣城】

 
 

建設省の総括と対応

昭和45年に下筌ダムが完成し、松原ダムが完成した昭和48年「水源地域対策特別措置法」が新たに制定された。
 
公共事業による水没者への金銭補償は当然だ。
 
この特別措置法の内容は、水源地域の生活環境・ 産業基盤の再建のため、国の全省庁は協力して24分野の公共事業を実施する、というものであった。
公共事業で住民合意を得るのが最も難しいのが、ダム事業である。
地域の一部の用地を犠牲にするのではない。
騒音等のように限定的な迷惑をかけるのではない。
ダム事業は山村集落をそっくり水没させてしまう。
共同体を全部消してしまうことになるのだ。
 
消えてしまう共同体を再建するためには、新しい役場、学校、上下水道、電気、交番、保健所、バス停等々の整備が必要である。
そのためには広い分野の行政は総力戦で当たる、という従来にない法律の誕生であった。
 
この法案作成に当たった建設省は想像を絶する苦労をしたであろう。
何しろ霞ヶ関の全省庁を相手にした法整備である。
 
松原・下筌ダム事業で建設省がいかに反省し総括したか。
その思いは言葉で表現できるものではない。
言葉を越えて、水源地域対策特別措置法の誕生そのものが、建設省の強い思いを物語っている。
 
もう一つ、建設省の職員たちの気持ちを表している事実がある。
現地の九州整備局の下筌ダム管理所の玄関の銘板は、室原氏が書いた「下筌ダム建設反対」の「下筌ダム」を使わせてもらっている。
 
 

懸命の水源地域対策

筆者は昭和45年、建設省に入省して最初の赴任地が鬼怒川の川治ダムであった。
昭和48年制定された水源地域対策特別措置法によって指定された第1号のダムである。
2度目の阿賀川の大川ダム勤務でも水源地域対策に従事し、3度目の相模川の宮ヶ瀬ダムでも水源地域の再建、活性化に全力を注いできた。
特に、宮ヶ瀬ダムでは所長の権限を最大限利用した。
 
ダム完成後にダム堤体や湖面を利用できるよう様々な仕掛けをした。
日本で初めて一般の人々がダム堤体内に自由に入れるように監査廊を工夫した。
ダム施工中のインクラインの基礎は、将来の観光用インクラインの基礎になるように配置した。
ダム湖観光船が水没移転者たちの代替地に着岸できるよう、掘削土捨場で土地造成を計画した。
これらの仕掛けは成功した。
宮ヶ瀬ダムには年 間200万人に近い観光客が訪れるようになり、首都圏のみならず日本の名物ダムとなった。
 
国土交通省退職後、ある大学で非常勤講師をしていた。
授業の一環で、学生たち約20名を宮ヶ瀬ダムへ連れて行くこととなった。
ダムの監査廊に入り、ダム堤体内部をエレベーターで昇った。
ダムサイトから観光船に乗って、水没者たちの 移転先の代替地へ向かった。
そこで私は、まだ学んでいなかったことを知らされた。

【宮ヶ瀬ダムインクライン】
【宮ヶ瀬ダムインクライン】

 
 

学んでいなかったこと

ダム湖の観光船が着岸した移転地は観光客で賑わっていた。
私が思い描いていた通りの賑わいであった。
 
移転地の物産館に入った。
元気よく私の名を呼ぶ声がした。
水没者の奥さんであった。
その物産館で働いているという。
観光客も年々増加し、移転者たちは喜んでいるという。
宮ヶ瀬ダム水源地域を活性化できた。
私は誇らしい思いに包まれていた。
 
その奥さんに「今、ダムから観光船に乗ってきた」と言うと、その奥さんは「私はまだ乗っていない」という返事であった。
私は驚いて「まだ乗ってないの?」と聞き返した。
奥さんは目をそらして小さな声で「湖の下に昔の土地があるから」とポツリと呟いた。
 
私は返す言葉を失っていた。
私は人生の大半をダム水没地域の再建と活性化に取り組んできた。
宮ヶ瀬ダムはダム人生の総仕上げであり、内心誇りを持っていた。
その宮ヶ瀬ダムで、水没者の故郷を失った深い喪失感に直面してしまった。
 
生まれた家、学校、森や小川、田植えや稲刈り、初恋や村祭りの思い出の土地は完全に消えてしまった。
家や田畑はどうにか補償できる。
しかし、水没者たちの思い出は償えない。
水没者たちの辛さや悔しさを学んでいたつもりでいた。
しかし、何年経っても、ダム湖の船に乗れないほど、やるせない思いを抱いていることまでは学んでいなかった。
 
公共事業は理に叶い、法に叶い、情に叶わなければならない
 
室原知幸さんが我々ダム屋に突き付けたこの言葉が改めて胸に突き刺さってきた。
 
成立した翌年には通産省(現・経産省)、防衛庁(現・防衛省)はちゃっかり自省の法律を準備していて、すんなり昭和49(1974)年に国会を通している。
その時は「特別措置法」という名前はなかった。
一般的で普遍的な公共事業の法律に変身していた。
 
ダーウィンは進化論でこう述べた。
「進化は、種の全体が一斉に進化するのではない。種の中の変わり者がいて、その変わり者の変異を見て、上手く行きそうなら後から種の全体がついていく」
生物進化も霞ヶ関の行政の進化も同じであった。
 
(追記)
昭和48年:水源地域対策特別措置法が成立
昭和49年:電源三法(電源開発促進税、電源施設周辺地域整備法など)成立
昭和49年:防衛施設周辺の生活環境等の整備に関する法律、成立
霞ヶ関の各省庁は固唾をのんで水源地域対策特別措置法の国会審議の行方を見守っていたと想像できる。

 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長、博士(工学)。
神奈川県出身。1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後、04年より現職。
土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)「、本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)、「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO法人)
代表理事・事務局長 
竹村 公太郎

 
 

【出典】


積算資料2023年12月号

最終更新日:2024-03-25

 

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