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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 文明とインフラ・ストラクチャー第 78 回 日本湿地開発の原点・川崎  ─ 水騒動と水配分 ─

米が作れない

1603年、関ケ原の戦いで勝った家康は征夷大将軍の称号を受けると、さっさと江戸に帰ってしまった。
 
家康にはやるべきことがあった。
利根川を銚子へ向ける利根川東遷工事であった。
この利根川東遷事業と同時に、重要な工事が江戸市中と江戸郊外の川崎で行われていた。
 
江戸の工事は、生きるための飲み水の虎ノ門堰堤(ダム)建設であった。
 
川崎の工事は、喰うための農地開発であった。
 
幕府を開いた江戸では全く米が作れなかった。
 
当時、米は食糧であり、金銭であり、社会地位であった。
江戸ではその大切な米が穫れない。
 
家康は一体どうしようとしたのか。
 
 

最悪の江戸

関ケ原からさかのぼること10年前の1590年、家康は豊臣秀吉に江戸へ幽閉された。
当時の江戸は、住家がぽつんぽつんと点在する寂しい寒村であった。
江戸城は武蔵野台地の東端にあった。
江戸の西に広がる武蔵野台地は、米が穫れない不毛の地であった。
なぜなら、武蔵野台地には稲作に必要な川がなかったからだ。
 
一方、江戸城の東には広大な湿地が展開していた。
その湿地に荒川、渡良瀬川そして利根川が流れ込み広大な干潟を形成していた。
その東の干潟は限りなく平坦で、江戸湾の海水が満潮のたびに逆流し、関東の奥深くまで差
し込んでいた。
そのため、ここは塩分が濃く米が穫れない不毛の湿地であった。
 
日本列島を見まわしても、これほど悲惨な土地はなかった。
江戸に押し込められた家康は、一日も早く3万人の部下たちを養う農地を必要とした。
 
 

川崎の氾濫原

江戸に入った家康は鷹狩と称して、関東一円のフィールドワークに徹していた。
どうしても探したかったのは農地であった。
 
千葉には河川がなかった。
群馬、栃木、茨城の北関東は江戸から遠すぎた。
埼玉には氾濫原の中に砂州があったが、しばしば利根川の大洪水が襲っていた。
 
結局、家康は多摩川と鶴見川が合流する氾濫原の砂州を開発することにした。
砂州は氾濫原で川の土砂の堆積でこんもり盛り上がった土地である。
 

(図-1)は、21世紀の首都圏の地形図である。
(図-2)は、現在の川崎の地形図で、多摩川と鶴見川の合流地点で砂州が広がっている。
(図-3)は、広重が描いた川崎宿である。
多摩川の対岸の砂州に川崎宿が描かれている。
 
関ケ原の戦いの3年前の1597年、家康は用水責任者の小泉次大夫に多摩川で大規模な農地開発を命じた。
 

【図- 1 江戸から多摩川へ】
デジタル標高地形図 出典:一般財団法人 日本地図センター
 

【図-2 多川摩と鶴見川の氾濫の原砂州】
出典:国土地理院 デジタル標高地形図
 

【図-3 広重 川崎 六郷渡舟】
 
 

大規模な農地開発

農地開発は測量から始まり、関ケ原の戦いの休止を経て1611年に完成した。
(図-4)は二ヶ領用水の全体図である。
 

 【図-4 二ヶ領用水古地図】
 出典:関東地方整備局京浜河川事務所
 

多摩川からの取水は上河原堰、宿河原堰の二箇所から行われ、上流の稲毛領37村、下流の川崎領23村で約32kmの大規模な水路網が張り巡らされた。
 
当初、堰は設置されず自然流入で取水していた。
しかし、多摩川の水量が少ない時にも取水できるよう、竹で編んだ蛇篭じゃかごに玉石を入れて取水地点に並べて「堰止め」の技法が取られるようになった。
この手法は昭和初期まで使われていた。
(写真-1)は、山口県佐波川さばがわ水系で遺跡として残されている関水せきみずの玉石で堰き止めた取水施設である。
 

【写真-1 関水固定堰】
出典:中国地方整備局山口河川国道事務所
 
二ヶ領用水で収穫した米は稲毛米として、江戸、明治、大正そして昭和まで江戸庶民、東京都民に供給されていった。
 
家康の二ヶ領用水は江戸への貢献だけではなかった。
全国の大名の農地開発の目標となり、国土開発の具体的な技術指針となった。
 
 

たなびく二ヶ領用水の旗

家康は江戸に幕府を開き、200を超える戦国大名たちを制御するためにある工夫をした。
大名たちを全国の流域の中に封じ込めたのだ。
大名たちは流域の山々の稜線りょうせんを越えて領地を広げることは禁じられた。
海を越えて海外に向かっていくことも許されなかった。
 
流域に封じられた大名と人々は、自分たちの足元の流域にエネルギーを集中していった。
まず、中小規模の川で堤防を築造した。
あちらこちらに乱流している流れを堤防の中に押し込めると、旧河道が豊かな農地になっていった。
次に川の水の取り入れ口と農業用水路を建設した。
その経験を経て、大きな川でも堤防を築き、取水堰と農業用水路を整備していった。
 
戦いのない平和な江戸時代、日本中の流域で国土開発、農地開発が行われた。
日本列島の米の生産力は急速に増大していった。
 
(図-5)は、日本の1000年の耕地面積の変遷と人口増加を示す図である。
戦国時代までは農地の変化はない。
江戸時代に農地開発が一気に行われ、豊かさが実現し、それに伴い人口も急激に増加していることが一目瞭然である。
 
江戸時代、二ヶ領用水は日本の国土開発の輝く旗となった。
しかし、二ヶ領用水は負の歴史も刻んでいくこととなった。
 
稲毛領と川崎領の地域は、二ヶ領用水のおかげで豊かになり栄えていった。
人々が集まり人口が増えていくと新しい水需要が増大していき、水の奪い合いが発生するようになった。
二ヶ領用水は江戸幕府直轄であり、水紛争は文書で記され、保管され、世界的に見ても珍しい貴重な記録となった。
 

 
 【図-5農地面積と人口の変遷】
データ:鬼頭 宏 著「日本二千年の人口史」(PHP研究所)
農業土木歴史研究会 編著「大地への刻印」(出版 公共事業通信社、企画 土地改良建設協会)
作図:竹村公太郎
 
 

農村共同体の紛争

江戸時代、流域の開発に伴い、左岸と右岸、そして上流と下流で複数の農村共同体が誕生していった。
これらの農村共同体は仲が悪かった。
なぜなら、川の水量は限られている。
渇水になれば水の取り合いとなる。
話し合いで決着できないと、暴力での奪い合いとなった。
 
これは日本だけではない。
世界共通の現象であった。
ライバル(Rival)の語源は川(River)に由来する。
同じ流域で生きる他の共同体は、仲間ではなく敵だった。
 
同じ川の沿岸で生きている顔見知りが敵になる。
この水争いは陰にこもり、陰惨なものとなり、記録に残されにくかった。
しかし、二ヶ領用水は家康によって造られた幕府直轄の農地であった。
そのため二ヶ領用水の紛争は江戸幕府の問題でもあり、紛争処理も幕府の責任であった。
そのため、二ヶ領用水の紛争は詳細に記録されていった。
 
残されにくい水紛争と後始末まで文書にされていた点で、二ヶ領用水の記録は貴重な資料となっている。
以下の内容は「小泉次大夫用水史料」(小泉次大夫事績調査団 編・東京都世田谷区教育委員会発行)に基づいている。
 
 

溝口みぞのくち水騒動

1821年7月、二ヶ領用水で溝口水騒動が発生した。
この年の二ヶ領用水は、春から雨が少なく田植えの時期にも日照りが続き、干ばつに襲われていた。
5月ごろから上流の溝口村は約束を破って、自分たちに有利になるように川崎領への水路を閉め切ってしまった。
下流の川崎領の33村は御普請役人に訴えたが解決されなかった。
下流部の33村とは(図-4)の東海道周辺から下流部にかけての村々である。
 
7月5日、飲料水にも事欠いた川崎領の村々は対策を議論したが、溝口村の名主・鈴木家の打ち壊しを決した。
7月6日10時ごろ、川崎領の農民たち1万4千人が溝口村に向かった。
彼らは竹槍、鳶口とびぐち槍、刀そして鉄砲まで手にしていた。
 
溝口村の名主側も石、竹槍、熱湯などで対峙したが、邸宅は散々に打ち壊されてしまった。
溝口村名主は江戸にいて不在だったため、川崎領の人々は江戸市中の馬喰町の御用屋敷まで追いかけていく大騒動になった。
 
1万4千人が武器を手にしたこの事件は‘水紛争’というより‘水戦争’の様相を呈していた。
この騒動に関係した川崎領と上流の溝口村の責任者や参加者は、幕府の調べを受け、その行為の軽重に応じて処罰を受けることとなった。
 
 

技術で公平な水配分

人類が農作を開始して以来、水紛争は現在の21世紀まで続いている。
水紛争は理性の話し合いから始まるが、最後は暴力に行き着く。
命の源である水の前では、人間の理性は無力となる。
水紛争は人類が避けることができない宿命となっている。
 
近代の昭和になり、二ヶ領用水で4方向に水を配分するサイフォン原理を使った円筒分水が設置された。
円筒の下部から水を押し上げて、上部で水が越流する円筒の周囲長さ比で水を正確に配分する施設である。
技術によって公平に水を分かち合うという日本人の叡智である。
(写真-2)が1941年に完成した久地村の円筒分水で、(図-6)がその仕組みである。


【写真-2 久地円筒分水】

【図-6 円筒分水の仕組み】
出典:関東地方整備局 京浜河川事務所(写真-2、図-6とも)

 
実は、400年前にさかのぼる16世紀の日本で、水紛争の暴力を技術で克服した例があった。
戦国時代の甲府盆地で誕生した「三分の一堰」である。
 

【写真-3 三分の一堰】          出典:Wikipedia
 
(写真-3)が今でも現存している堰で、中央の小さな将棋の駒のような石が3集落へ水を公平に配分する仕掛けになっている。
この水分配の装置は、戦国時代で最も尊敬される大名の一人である武田信玄の統率力によるものと伝わっている。
 
技術で暴力を克服した歴史的事実が伝承され、サイフォンという近代土木技術と出会い、円筒分水が誕生した。
この円筒分水は大正、昭和期に日本全国に広まっていった。
 
 
世界を見渡すと、遠くから水を導水してきた遺跡、湧水を工夫して導水した遺跡などは多数残されている。
しかし、技術で公平な水配分を実現したという遺跡の存在は聞こえてこない。
 
日本の「三分の一堰」は施設としては小さい。
しかし、水争いを技術で克服したこの遺跡は、途方もなく偉大な人類の遺跡である。
 
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長、博士(工学)。
神奈川県出身。1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後、04年より現職。
土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」(PHP研究所2013年)、「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016 年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO 法人)
代表理事・事務局長
 竹村 公太郎

 
 
【出典】


 積算資料2024年6月号


最終更新日:2024-09-25

 

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