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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 洪水避難の高台の物語─ 浅草吉原遊郭とバベルの塔 ─

吉原遊郭の絵の違和感

障子のところでちょこんと座って外を眺める猫。
その眼下には田園地帯が広がっている。
この絵は広重の「名所江戸百景 浅草田圃酉の町詣」。
描いた風景は浅草新吉原の遊郭の一室からの眺めだ(図- 1)。

【図-1 浅草田圃酉の町詣 広重「名所江戸百景」】
【図-1 浅草田圃酉の町詣 広重「名所江戸百景」】

 
障子の桟には使用済みの手拭い。
左には寝床を隠す屏風が立ち、その下には女性のかんざし。
艶めかしい雰囲気が遠回しに描かれている。
その人間の営みに、我関せずと猫は背を向けて外を見下ろしている。
 
新吉原の賑わいを描いた浮世絵は数多くあるが、遊女の部屋から外を描いたこの絵は珍しい。
しかし、この絵を見るたびに、“違和感”を覚えていた。
謎というほどではなく「何か変」という気配であった。
その正体はわからず、いつか忘れていた。
 
 

浅草吉原の日本堤

新緑の日曜日、浅草の吉原に向かった。
以前から吉原弁財天に参拝したかった。
というのも、これまで出版や講演で、江戸を洪水から守る日本堤を紹介してきた。
その紹介の中で「日本堤は吉原遊郭と深く関係している」と解釈を展開してきた。
1620年、徳川幕府は隅田川に土手を造成して、江戸市中を洪水から守ることにした。
堤防の工事には全国の大名が参加したので「日本堤」と呼ばれた。
しかし、急ごしらえであったため、降雨のたびに斜面が崩れてしまった。
今でも変わらないが、堤防は造る以上に維持管理が重要である。
 
1657年、日本史上最大の火災、明暦の大火が発生した。
そこで、江戸幕府はある仕掛けをした。
日本橋人形町で焼け出された吉原の遊郭を、日本堤の土手に移転させたのだ。
幕府の狙いは、遊郭に通う男たちで、堤を踏み固めさせる狙いであった。
 
遊郭に向かう江戸中の男たちはそうとも知らず、浮き浮きと日本堤の上を歩き、脆弱な日本堤を踏み固めていった。
幕府の狙いは見事に当たった。
これが日本堤と遊郭の私の解釈であった。
 
(図- 2)は広重の「名所江戸百景、浅草吉原」で、男たちで賑わう日本堤を描いている。

【図-2 よし原日本堤 広重「名所江戸百景」】
【図-2 よし原日本堤 広重「名所江戸百景」】

 
 

吉原弁財天での出会い

江戸時代から1958(昭和33)年まで続いた吉原遊郭で、多くの遊女が病や火災で亡くなっていた。
1923(大正12)年の関東大震災でも500人近い遊女が逃げ場を失い亡くなっている。
 
私は日本堤と吉原遊郭を結び付けて、面白おかしく隅田川の治水を展開してきた。
そのため、遊女の霊に一度、手を合わせたいと思っていた。
 
日本堤通りを歩き、吉原弁財天に着いた。
観音像に進み手を合わせた後、境内のスチール製のテーブルにいた中年の男性と軽く会釈をした。
彼は私に向かって、なぜ、ここに来たのかと聞いてきた。
「日本堤の歴史や地形を調べている」と答えると、「そこの喫茶店のママが、この辺の歴史にやたらと詳しい」と誘われた。
その喫茶店に向かった。
 
喫茶店のママがコーヒーを出してくれた。
趣味で地形を調べているというと、一枚のコピーを持ってきてくれた。
「これは面白いよ。“西まさる”さんが作った資料だよ」と私にくれた。
「吉原はこうしてつくられた」(新葉館出版:西まさる著)のコピーであった。
 
コピーの吉原周辺地図のところどころに標高が入っていた。
吉原遊郭の場所には(標高14m)とあった。
私はその数字に釘付けになった。
「そうだったのか!」と声を出してしまった。
 
冒頭に述べた広重の「浅草田圃酉の町詣」の吉原遊郭の違和感が一瞬にして解けた。
 
それは広重の「構図の視線の高さ」だった。
 
 

異様に高い視線

遊郭の2階の窓から見下ろせば、せいぜい5、6mである。
ところがこの絵では、マンションでいえば5、6階から見下ろしているようだ。
正体不明の違和感は解けた。
 
吉原遊郭は標高14mの盛土であった。
その2階の窓から外を見れば、あの絵の構図になる。
しかし、次の疑問が湧いてきた。
 
14mの盛土は大量だ。
吉原の面積は2万坪あった。
面積は約6万6,000㎡となり、標高6mの田んぼから標高14mの盛土は、単純計算で52万㎥が必要となる。
江戸時代の盛土としては膨大な数量である。
 
江戸は湿地帯で盛土の入手は容易ではなかったが、明暦大火の瓦礫があった。
 
しかし、なぜ、これほどまで高く盛土をしたのか。
それが次の疑問となった。
 
 

なぜ、14mもの盛土を

なぜ、日本堤より4mも高く盛っているのか。
遊郭を遠くから目立たせる、という説がある。
 
浅草吉原遊郭の光は、江戸城からも、房総半島から見えたと伝わっている。
つまり、新吉原遊郭を江戸の夜のランドマークにするために14mの盛土をした。
その説は面白い。
しかし、これでは江戸幕府の許可を得られない。
なにしろ、堤防より高い盛土はご法度であった。
 
堤防より高いということは、他の個所より相対的に強くなる。
堤防高さを厳重に管理していた江戸幕府は許可しない。
 
 

日本最初のスーパー堤防

新吉原の再建事業を進めたのは、西まさる氏によると愛知県知多半島の人々たちであった。
知多半島は濃尾平野の南側に接している。
濃尾平野は名だたる大湿原で、木曽川、長良川そして揖斐川の木曽三川が流れ込んでくる。
 
そのため木曽川、長良川そして揖斐川の洪水は、西側の美濃地方で暴れまわっていた。
岐阜、三重、愛知の美濃地方は自分たちの集落を堤防で囲む輪中で自衛しなければならなかった。
 
美濃出身の新吉原遊郭の事業者たちは、日本堤を見て不安に思った。
当時の日本堤はいかにも低くて脆弱であった。
(図-3)で日本堤が低く脆弱だったかが理解できる。
 
江戸幕府に無理やり寂しい浅草の背後の日本堤に移されたので、新遊郭の事業者たちは幕府と強い交渉が出来た。
 
新吉原の建設の投資額は莫大となる。
この投資は守らなければならない。
 
また、全国から集めた遊女たちも大切な宝であった。
全国各地の方言を話す遊女たちは、共通の廓言葉を話すことになっていた。
貴重な遊女たちも、洪水から守らなければならない。
 
遊郭だけは絶対に浸水させない。
江戸の下町一帯が濁水に沈んでも、遊郭の高台だけは沈ませない。
遊郭を高台にして避難場所とする。
これが遊郭を14mと高台にした理由であった。
 
なお、1620年に造られた日本堤は吉原遊郭が建設されて以降、順次、堤防の嵩上げ工事が行われた。
江戸末期に広重が描いた(図-2)の「吉原日本堤」は幕末の堤防嵩上げ後の姿である。
(図-4)は幕末の嵩上げ後の吉原周辺の標高図となる。
21世紀、この堤防の嵩上げは隅田川で再び行われた。
東京都が中央区の聖路加病院付近で行った「スーパー堤防」事業であった。
 
人間の手にあまる大洪水に対して、高い避難所を作る手法は、人類誕生以来の普遍的な手法であった。
 
最古は旧約聖書にさかのぼる。


【図- 3 新吉原遊郭の建設当時の標高】
データ出典:「吉原はこうしてつくられた」新葉館出版(西まさる)2018
作図:竹村
【図- 4 新吉原の江戸末期の標高】
【図- 4 新吉原の江戸末期の標高】
データ出典:「吉原はこうしてつくられた」新葉館出版(西まさる)2018
作図:竹村

 
 

バベルの塔

旧約聖書のアダムとイブが登場する創世記の第11章に「バベルの塔」の物語がある。
 
要約すると「東の方から移動したノアの子孫たちは、シアルの地の平原に住みついた。そこで、レンガを作り高い塔を作りだした。その人間たちの不遜な行為を見た神は、同じ言葉で話しているから、このようなことをする。お互いに理解できないように彼らの言葉を乱してやろう。このようにして人々は言葉が通じなくなり、塔つくりをやめ全世界に散ってしまった」。
(図-5)はブリューゲルが描いたバベルの塔である。
 
このバベルの塔の物語は、聖書の中でも際立って悲惨な物語である。
 
大洪水を乗り切ったノアの子孫たちは、また大洪水が襲ってきても船で流浪しないよう高い塔を造ろうとした。
このバベルの塔は、洪水からの避難の高台であった。
聖書には避難所とは述べられていない。
しかし、私は間違いなく洪水の避難塔であると断言できる。
 
ブリューゲルが描いた(図- 5)のバベルの塔は傾いているように見える。
これは、避難民が螺旋階段を上に向かって避難できる構造であるから傾
いているように見えるのである。
(写真- 1)は三重県で建設された津波対策の避難塔である。
バベルの塔のように一見して傾いているように見える。

【図- 5 バベルの塔(ブリューゲル作)】旧約聖書創世記 ノアの子孫達が造った塔(メソポタミア)
【図- 5 バベルの塔(ブリューゲル作)】
旧約聖書創世記 ノアの子孫達が造った塔(メソポタミア)
【写真- 1 避難塔】出典:三重県紀勢町 消防防災博物館
【写真- 1 避難塔】
出典:三重県紀勢町 消防防災博物館

 
 

避難高台と共同体

旧約聖書の神は、大洪水の被害を受けた人々の苦しみを理解せず、避難塔の建設を咎めた。
その罰として人々の言葉をバラバラにしてしまった。
言葉が通じなければ仲間ではない。
言葉が通じる仲間だけが共同体である。
共同体の宿命は、異言語の共同体を敵対視していく。
共同体間の敵対視の最終段階が闘争となる。
 
人類はバベルの塔で言葉がバラバラになる宿命を負った。
その人類は異なる無数の共同体に分裂していった。
そして、共同体は敵対し、自分たちの生存のため戦闘を繰り返す宿命を負わされた。
 
人類最初の洪水の避難高台は、言語の分裂と共同体の分裂という宿命を負わせた。
 
日本最初の洪水の避難高台は、バラバラの方言を話す遊女たちが同じ廓言葉を話す共同体を与えてくれた。
そのような突拍子もない思いに駆られてしまった。
 

竹村 公太郎(たけむら こうたろう)

特定非営利活動法人日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長、博士(工学)。
神奈川県出身。1945年生まれ。
東北大学工学部土木工学科1968年卒、1970年修士修了後、建設省に入省。
宮ヶ瀬ダム工事事務所長、中部地方建設局河川部長、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。02年に退官後、04年より現職。
土砂災害・水害対策の推進への多大な貢献から2017年土木学会功績賞に選定された。
著書に「日本文明の謎を解く」(清流出版2003年)、「本質を見抜く力(養老孟司氏対談)」(PHP新書2008年)、「小水力エネルギー読本」(オーム社:共著)、「日本史の謎は『地形』で解ける」シリーズ(PHP研究所2013年~)、「水力発電が日本を救う」(東洋経済新報社2016年)、「広重の浮世絵と地形で読み解く 江戸の秘密」(集英社2021年)など。
 
 
 

特定非営利活動法人 日本水フォーラム(認定NPO法人)代表理事・事務局長
竹村 公太郎

 
 
【出典】


 積算資料2024年8月号
積算資料2024年8月号

最終更新日:2024-11-18

 

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