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ホーム > 建設情報クリップ > 積算資料 > 【建築あれこれ探偵団がゆく】特集 関東大震災から100年

大正12(1923)年9月1日に未曾有の被害をもたらした関東大震災から100年。
この節目に際して、月刊『積算資料』で「建築あれこれ探偵団がゆく」を好評連載中の建築史家:藤森照信氏が執筆した、関東大震災に関する5つのテーマを紹介していきます。
震災復興は、単なる都市再生にとどまらず、新しい技術や建築様式などを積極的に取り入れ、近代建築に大きな影響を与えました。
今なお現存するものからノスタルジックなものまで、建築探偵らしい視点による切り口で、復興にかけた技術者の様子をお楽しみください。
 
 
 

その1 -看板建築-

バラックのアーティスト

今年は関東大震災から100年に当たる。
当時のことを建築史家として振り返ると、さまざまなことが、震災直後から昭和3年の復興終了までの間に連続して起きている。
 
まず、直後に目立つ動きをしたのは今 和次郎だった。
それまで農村地帯をフィールドとする民家研究の開拓者として認められていたのに、一転、焼け跡に飛び出して二つのことを始めた。
一つは、焼け跡に出現した仮小屋の観察で、ありあわせの焼けトタンや焼け残りの棒杭を使って手作りされた原始的建築に建築行為の始原状態を認め、詩的な言葉と巧みなスケッチを残した。
 
もう一つ今がしたのは“バラック装飾社”の活動で、ペンキ缶を手に梯子を肩に焼け跡を走り回り、「バラックを美しくする仕事一切─商店、工場、レストラン、カフェ、住宅、諸会社その他の建物内外の装飾」(撒いたビラ)をやろうとしたが、実際に引き合いのあったのは商店とカフェだけだった。
 
こうした積極的な表現活動は、その後、今日まで含めて大災害の中では現れておらず、関東大震災に固有な現象として一考に値しよう。
 
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その2 -復興小学校-

復興小学校のプランニング

震災事業のなかで一番重要なのは“区画整理”と私は見ている。
区画整理があったからこそ道路を広げたり付け加えたりはスムーズに進んだし、隅田川に架ける巨大な鉄橋だって道路の一部であるから同じこと。
 
区画整理や道路拡張や巨大鉄橋に比べると建築は目立たないが、そんななかで人目を引いた事業を挙げれば、個々の建築では日本橋の魚河岸から移った〈中央卸売市場〉がナンバーワンで、建築群では〈同潤会アパートメント〉と〈復興小学校〉ということになろう。
 
〈同潤会アパートメント〉は、日本最初の政府による大規模住宅改良事業であるばかりか、鉄筋コンクリート造により耐震耐火を計っている点でも先駆的に違いなく、今も論及され続けているが、それに比べ〈復興小学校〉のほうは建築の歩みの上では地味というしかないし、そのように扱われて今にいたる。
 
にもかかわらず私が光を当ててみたいと思うのは、設計を担当した一人である阪東義三(1894~1951)が、“震災復興事業はうまくゆかないことが多いなかで、せめてこれだけはちゃんとやろうと建築関係者が取り組んだのが小学校の建設だった”との意の回想を残しているからだ。
 
阪東によると、広大な焼失地の上に点々と再建される小学校に地域の住民センターの役割を付与したいと考え次のように作る。
 

  1. これまでは木造であった校舎を、最新の鉄筋コンクリート造とし、いざという時、地域住民の安全な避難所とする。
  2. 校庭に連続して小公園を設け、いざという時、そこから退去することも進入することも出来るし、日頃は子供たちが、退校時にちょっと寄ったり、集まって遊んだりも可能。
    下町の商売人やサラリーマンの親たちが仕事の行き帰りベンチに腰掛けて休む時、校庭で元気に遊ぶ子供たちを見ることができる。
  3. 校舎をぐるりと囲むコンクリート製の塀の高さは、中の子どもたちの背より高く、外の大人たちの背より低くし、子どもたちの気は散らないが、通りがかった大人たちは中の様子をうかがうことができる。

 
こうして生まれた小学校のことを「復興小学校」といい、私たちが東京建築探偵団を結成した頃にはたくさんあった。
今はわずかしか残っていない。
そのいくつかを昔撮った写真で紹介しよう。
 
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その3 -鉄筋コンクリート造-

碑に刻まれた「鉄筋混凝土」

震災復興の最大の成果は“区画整理事業”で、一見すると地味だが、猛反対を押して焼失地全域で遂行されたこの事業の下支え無しに、道路の拡幅も大型の鉄橋も復興小学校も魚河岸の築地移転もあり得なかった。
 
地味な区画整理と並んでもう一つ、今では当たり前過ぎて歴史的には目立たない事業として鉄筋コンクリート造の推進があった。
 
まさかと思われる建築専門家のために申し添えておくなら、関東大震災の前、鉄筋コンクリート造はそう一般的ではなかった。
 
日本における鉄筋コンクリート構造の歩みを振り返ってみたい。
 
この連載の第32 回で触れたように、フランスの庭師のジョセフ・モニエが明治維新の前年の1867(慶応3)年に特許を取り、1887(明治20)年、その特許を買ったドイツのヴァイス社が鉄筋コンクリート構造の原理を力学的に解明してから世界に広がり始め、日本に第1号が実現するのは1903(明治36)年だから、世界的には相当早く取り入れている。
 
その第1号は建築ではなく土木で、琵琶湖疏水を引いたことで知られる土木学者の田辺朔郎が疏水にかかる歩道橋として部下を使って実現している。
田舎(京都の山科)の小さな歩道橋にもかかわらず、「本邦最初鉄筋混凝土橋」と刻まれた立派な碑が立ち、担当した部下と施工業者の名が刻まれていることから関係者の心意気がしのばれよう。
田辺が部下と施工業者の名をわざわざ刻んだのは、設計も施工も当時の工事関係者にはとても理解しにくかったからだ。
 
この生まれたばかりの新しい技術は、建材に働く外力を圧縮力は混凝土(コンクリート)で引張力は鉄筋で受けるという、それまでの石や煉瓦や木や鉄にはなかった珍しい方法で実現しており、構造力学を学ばないと、感覚だけでは理解できない。
鉄筋コンクリート発明者の当のモニエも理解しておらず、そのことを知ったドイツのヴァイス社の人々が呆れた一件は、前述した〈モニエの給水塔〉で書いた。
 
施工はもっと不安だった。
一番の理由は、水でジャブジャブのコンクリートに埋まる鉄がなぜ錆びないのかが分からない。
竹中工務店を神戸で創業した竹中藤右衛門は、関西の鉄道橋の橋脚で初めて鉄筋コンクリートの施工をした時、錆が心配のあまり「鉄筋一本一本に油紙を巻き、コンクリート打設の直前にほどいて磨いた」と伝える。
コンクリートは強アルカリ性ゆえ、錆などそのうち消えるから心配無用。
 
こうした不安を乗り越えて、発明後36年して、泥が岩に化すという魔法の技法は日本に上陸し、まず土木が、次に建築が使うようになる。
 
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その4 -丸ビル-

100尺制限

関東大震災の前の段階ではRC造は決して主流ではなく、一部の先駆者が実験的に試みている程度で、主流は、大正3(1914)年に竣工した東京駅に顕著に見られるように煉瓦造、とりわけ鉄骨で補強した煉瓦造であった。
 
大正期に入るとオフィスビルの需要が急し、それまでの3~4階建て程度では済まなくなり、大正9(1920)年の市街地建築物法(後の建築基準法)の制定に当たっては、高層オフィスビルを念頭において、高さ「100尺制限」が定められる。
100尺とは約30m、階数でいうと10階建て。
なお、この高さ制限は長く守られ、戦後の〈霞が関ビルディング〉の時にやっと撤廃されている。
 
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その5 -RC造を巡る争い-

鉄骨造からの転換

日本近代の建築構造は、幕末の洋風建築の上陸とともにスタートし、石造、煉瓦造、鉄骨造、鉄筋コンクリート造(RC造)の順に根付いてゆくが、鉄骨造やRC造が出現したからといって煉瓦造がすぐ取って代わられたわけではなく、煉瓦造に鉄筋や帯金を補強したり、RC造を鉄骨で補強するような試みもしばしばなされてきた。
 
大正期に入り、大型のビル(当時の日本では階数は10階以下に限られる)が必要になると、さすがに煉瓦や石造は退場しても、鉄骨造、鉄骨補強煉瓦造、RC造は現役で、どれが以後の主流になるかはまだ見えてはいなかった。
 
そうした中で、三菱地所が、丸の内オフィス街の〈丸ビル〉と〈郵船ビル〉の建設にあたり、当時世界を圧倒的にリードしていたアメリカの超高層オフィスの作り方を採り入れたことは前回(2023年9月号)述べた。
そして失敗したことも。
ビルは失敗したけれど、作り方は大いに日本の建設業を刺激し、建設会社はニューヨークに調査に出向き、以後、日本の建設業はそれまでの江戸時代以来の全手作業を止め、機械化の導入へと向かう。
 
震災によって東京の表玄関としての東京駅前は、“行幸道路”の左右で大きく明暗を分けることになる。
 
駅から皇居に向かって左側に並ぶ丸ビルと郵船ビルは、鉄骨の撓みが激しくてオフィスとしては一時休業、そして大修理を余儀なくされたが、一方、右側の濠端に立つ〈東京海上ビル〉のRC造は何の問題もなくビルとしての営業を続けることができた。
 
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著者  藤森 照信(ふじもり てるのぶ)

1946年長野県生まれ。
東京大学大学院博士課程修了。専攻は、近代建築、都市計画史。
東京大学生産技術研究所教授・工学院大学教授を経て、現在、工学院大学特任教授、東京大学名誉教授。
全国各地で近代建築の調査、研究にあたる。
2016年7月に東京都江戸東京博物館の館長に就任。
建築家の作品として、〈神長官守矢史料館〉〈タンポポハウス〉〈ニラハウス〉
〈秋野不矩美術館〉〈多治見市モザイクタイルミュージアム〉など。
著書に、
『藤森照信の建築探偵放浪記~風の向くまま気の向くまま~』(経済調査会)、
『アール・デコの館』『建築探偵の冒険・東京篇』(以上ちくま文庫)、『近代日本の洋風建築開化篇』『同栄華篇』(以上筑摩書房)、『銀座建築探訪』(白揚社)など多数。

2020年〈ラコリーナ近江八幡草屋根〉で日本芸術院賞を受賞。
 
 
 
【出典】


積算資料2023年9月号
積算資料2023年6月号~10月号(予定)

最終更新日:2024-03-25

 

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